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万葉集を読む   「万葉人の平城京での生活」 

2023-07-06 10:35:02 | 万葉集


万葉集を読む  
「万葉人の平城京での生活」        
万葉集では柿本人麻呂の90種近くある歌も第9巻で最後になりこれらを以て「平城万葉」の時代に入ると云われますので、万葉人はこの時代をどんな生活をしていたかを探りたいと思います。
「平城京」は文武天皇の707年から審議が始まり元明天皇の時に藤原京から710年に遷都されました。約4キロ四方の小さな区域ですが、遣唐使も往復して中國でも最も盛んな唐時代の影響が強く、天智・天武の時代が終わりその皇女・皇子たちの新しい時代です。

観光にこの平城京跡に参りますと約4キロ四方の都は北の中央には極彩色の立派な大極殿正殿 高さ27m(ビルで7階位)幅44mが聳え真っ直ぐ南に伸びる道路は75m幅程で(現在の24車線程)、南の端には朱雀門高さ20m幅25mの朱塗りの大きな門が復元されています。平城京跡の池には遣唐使の船も造られて乗ってみる事も出来ます。
 遷都と同時に薬師寺、元興寺(716年)、興福寺等も移転し、東大寺(751年)、唐招提寺(759年)等の現在でも見られる豪壮な寺院が周りに作られました。狭い都に釣り合わないほど広い長安風な道路、豪壮な社寺や公の建物が散在した都でした。

大化改新に依って天皇中心の政治が始まり唐の律令制を鑑み自国でも大宝律令(701年)などに依って国家の根本法案が出来始めます。都にはこれらを作成した天皇や官吏の為の内裏、大極殿、官舎が先ず整備され、当時五位以上の人が約百数十人居て、彼らには少なくとも1町(300坪)の土地が与えられ檜皮葺き又は茅葺き屋根で高床式の家が作られました。奈良は6万人~20万人程の人口と考えられ其の内の官人は約1万人でこれらの文章を書ける人々が万葉集の主役ではないかと思われます。その役人になるには試験がありましたが試験に合格するのはとても難しい上に五位以上の公家になった人は400年で僅か10%ほどでした。親が高位の子息は自然に位が上がり有利なため位が高値で売買されました。その役人の就業時間は夜明け前の午前6時半から正午頃迄でした。

一方庶民の家は地面を数十センチ掘り下げ、柱を立て茅葺き屋根でその穴全体を覆った掘っ立て小屋の家が多かった様です。律令制により中央集権とその税制に依って人々は米と労力と特産物を納めるようにしっかりと組み込まれ庶民の生活は困難が伴いました。
この都を建設する労役には一日米八合塩1勺(1合の1/10)が与えられますが雨の日はそれが半分でした。朝から夕方まで毎日働き夏は2時間ほど昼休みがありました。「人々の逃亡が多く、禁止しても留らない」(続日本記巻4)と記録され逃亡者は1日に付き鞭30回でした。故郷に帰る時の食料は与えられず途中の路上で死んで行く人に、人麻呂もその死者を見て「誰の夫であろうか家では待っていように」と心打たれていますが、壮麗な都や寺院の建設には多く労力と資金が必要で多大な犠牲を伴いました。農民は過酷な支配から逃れるために浮浪や逃亡が増え農地が荒廃し、732年には三世一身法などにより土地を開拓した場合は三世代保有できる法が作られました。

庶民の着類は麻の貫頭着で頭からすっぽりかぶり膝丈位のもので殆どは裸足でした。袷の場合は紐や帯でしばり寒い時は綿入れも着ました。貴人や上流階級の人達はズボンやスカートを穿き絹の織物や染めも使われる様になり男女ともに律令で決まりのある唐風な衣服を用いました。

食事は米、粟、稗、麦、芋類、大豆、小豆、木の実、茸類、魚、貝類の他に酒や麴などの発酵食品もありました。平城京の東西には官に管理された市が立ち様々な品物が持ち込まれ708年に発行された和同開珎が急速に用いられ貨幣経済が進みました。

当時の識字率は2%程かと考えられており、読み書きが出来る人達は万葉集にあるように歌に依って求婚出来ましたが、大部分の人は神社やお祭りの時に直接に男女が知り合いました。いずれにせよ結婚や同棲は主に個人の意思に依った時代と思われます。
この様に暮らしの一部ながら平城京での彼らの生活を述べました。  2023年5月


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