89歳の日々

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南部アフリカの旅に参加して

2013-11-02 20:30:30 | 海外旅行

      南部アフリカの旅に参加して 


この旅行は「ケープタウンで植物を尋ねる」 「ブルートレインに乗る
ヴィクトリアの滝を見る」 という3つつの魅力がありました。
しかし最も治安の悪い国らしく、私共姉妹は大人しくツアーに参加しました。 
                                                                 


  写真はヴィクトリアの滝      


  


 先ず成田~香港4.5時間、香港~首都ヨハネスブルグ13,5時間。
そこからケープタウンまで2時間  計20時間は飛行機に乗りましたが、
妹と私はその間、ガイドブックも読まず 専らお喋りしてしまいました。


「ケープタウン」
 ケープタウン空港は、欧米の飛行場にように大きく綺麗なところでしたが、
空港から町中に行く途中には、トタンで囲った沢山のスラムの家々が連なっていました。 


南アフリカは、マンデラ元大統領によって やっと1996年にアパルトヘイトも撤廃し
全民族参加のアフリカ共和国になり、割合早く黒人政権が安定した国です。
しかし 人口5000万人ほどの人口の10%は富裕層、20%が中間層、
非道いバラックは70%貧困層の人達の住居のようでした。


 ケープタウンから観光地をめぐりましたが、アメリカの高級住宅地
のような素晴らしい住宅地が沢山続き、それらは未だに殆ど白人がすんでいるそうです。


希望峰自然保護区」
 西洋人が、インド洋や日本に来れるようになったのは
バスコダガマが 南アフリカの先端の希望峰周りを発見したからといわれますが


この希望峰辺りの自然保護区には大きなダウがのんびりしていたり、ペンギン生息地 があり
それらを見てその海岸近くのレストランで大きなオマールエビの昼食を頂きました。



 


  


     南アフリカは特に経済的にも恵まれた国と言われ これらのの観光地もレストランも                               思いのほか 日本並みの清潔さで、アフリカ初体験として驚きでした。                                       この国は ヨーロッパ風で緑も多く10月は日本の秋のような気持ちの良い日々でした。 


 「カーステインブッシュ植物園」
この植物園には、世界の植物の多くの原種が自生して9000種程の植物があり、
    日本の庭で見る花々も沢山見られ、径20センチほどの世界最大の花キングプロテアも咲いていました。                              私の手の大きさと比べてください。

 


その上、ホロホロ鳥、ダチョウなど大きな鳥たちものんびりと
モデルのようにじっと止まって、大きな「エジブト雁」は 写真に撮らせています。                                   



 「ブルートレインに乗る」
アガサクリステーで有名な「オリエント急行」はもう稼働していなく、世界の豪華列車はこの
ブルートレインだけとの事です。外観は普通の青色の列車ですが、内装は全部
桑材の玉藻のように非常に木目の美しいイタリア産の銘木で作られていました。


社内の2人部屋には机と2つの椅子や2台の安楽椅子があり夜はそれがベッドになります。
狭いながら 贅沢な洗面所やシャワールームが付いています。
 ブルーのインテリアに白いテーブルクロスの食堂車での食事は丁寧なもので
   お昼でもコース料理でメインのラムチョップ等も美味しく頂きました。                                                                  写真はデラックスな英国風の朝食には、窓際には下記のブッフェが付いていました。                                



でも車窓からは バラック建の家が写真のようにみえました。ケープタウンの町はずれで見たところは                               もっとびっしりと トタンのバラックが続いていました。                                                         


 


首都に近いヨハネスブルグは経済の中心都市で貧困層が多く旅行者には危険な町とされます。
ここでは沢山の貧困な人の居住区を訪れるツアーが盛んなようですが
私共のツアーにはそのコースは無く、残念ながらアフリカの深層は見られませんでした。


    車中で1泊して首都プレトリアに着きました。ここでは7万本という美しいジャカランタの木々に                      薄紫の桜のようにお花が咲いていました。 私共はこのジャカランたの咲く時期を選んだのです。                                                 この首都は立派な歴史的建物も多い美しい街で ここで宿を取る旅行者も多いそうです。                                                                  


 


                                                                                          
「ジンバブエ共和国、動物、鳥を見る」

ヨハネスブルグから飛行機で1時間半程で、 ジンバブエのビクトリアの滝空港に到着。
ザンベジ川のクルーズに出かけるとバスの側には、見慣れぬ大きな(体長180c)動物が
じっと座ってい、びっくりしてしましました。写真の「ウオーターバック」でした                         
 「バブーンヒヒ」の類は何処にでもいるのです。

 動物も鳥も動かずにのんびりしているのが不思議です。
クルーズでは、船はあちこちの岸に近づいて動物や鳥を見せてくださる。オレンジの美しい「アフリカレンカウ」
朱鷺に似た「ハダダアイビス」なども鳥達も沢山いました。




 旅行中は毎日晴れていましたのでこの日もザンベジ川に大きく輝く落日を
眺める事が出来ました。


キングダム・ホテル」 
    このヴィクトリアホールスという所で「キングダム・ホテル」でで3泊ました。  
          私共が到着しますと 玄関ホールでは漆黒色の現地の人が 歌や踊りで歓迎てくれました。
         この様な漆黒色の人はホテルやショップの従業員にも見かけないように思いました。
                 褐色の人は 白人などの混血なのでしょうか?それとも国とか場所によって、
肌色がそれぞれ違うのか分かりません。



   ホテルの入り口で踊りと歌で歓迎してくれた 漆黒の現地の人達と一緒に 我ら姉妹。                           中央の人は ライオンキングのような仮面を付けている。


         


写真は窓や戸がなくて気持ちの良い,ホテルの食堂


ホテルの庭には 下記の写真のような大きな「ツメバ雁」や「バブーンひひ」                                 
「サバンナモンキー」が 毎日来ていますし柵のすぐそばを3頭の自生の像がブラブラと 歩いていたそうです。

日本では珍しいカワセミも 大きいのや、小さいのなどが庭に常駐して池の魚を狙っていました。
周囲には真っ赤な花を付ける火炎木が沢山見られました。



「ボツワナ共和国:チョベ国立公園」
 ホテルから車で2時間程で ボツアナ国のチョベ国立公園に行きましたが、途中国境では
パスポートチェクなどあり30分位いは待たされました




 


                こここは、世界最大のぞうの生息地とのことで私共も「200頭程の象」を見たと思います。
 中でもボスは2倍位の大きさでば迫力満点でした。




「鰐」も大きな口を開けたのや何匹も見ましたが緑色や黄色の3m位のが一番大きのでした。
4mもあって200トンもする様な大きな沢山の「河馬」の群れも河を泳いで居ました。
「サイ」「バッファロウ」「インパラ」の群れなどや「キリン」も2頭見ました。
 動物が歩くと土が掘られるので、鳥がそこに群がって餌を啄んでいました。
鳥も多くてカラフルな「ライラックブッポウソウ」「アフリカコノハズク」
大きな「三色海鷲」・・・沢山いました。
 夕食は大きな土俗的な建物で、野生動物等のバべキューを頂きながら太鼓などのショーを見ました。


「ヴィクトリアの滝」
 最後の日はお目当てのヴィクトリアの滝です。
バスで滝まで行きましたが、最初の悪魔の滝を見て”凄ごーい”と歓声を
上げる!滝幅1700m、最大落差100mほどとのこと。
ここの特徴は いくつにも分かれて滝があるので 対岸をずっと歩きながら
次々と滝の景色を眺めながら歩けることでした。
でも私共はジャカランタの季節10月下旬を選びましたが、本当に凄い時期は3月からの雨期ということでした。


午後には 初体験のヘリコプターに乗って滝を上から見ました。ヘリコプターからの
眺めは素敵でまたまた乗りたいと思いました。
  私共姉妹は このツアーでも一番年長ということで、メンバーの皆様には本当にご親切に                          していただきました。このバオバオの木で一緒のご夫妻にも親しくして頂き感謝して居ります。



 これで私共の「ケープタウンで植物を尋ねる」「ブルートレインに乗る」
「ヴィクトリアの滝を見る」という南部アフリカの素敵な旅は終わりました。
 帰りの飛行機では、妹も私もひたすら寝ました。 



   


 


南部アフリカの旅 

2013-10-25 21:06:10 | 海外旅行

      南部アフリカの旅に参加して


  この旅行は「ケープタウンで植物を尋ねる」「ブルートレインに乗る」「ヴィクトリアの滝を見る」という3つつの魅力がありました。しかし最も治安の悪い所らしく、私共姉妹はツアーに参加しました。


 先ず成田~香港4.5時間、香港~首都ヨハネスブルグ13,5時間。そこからケープタウンまで2時間  計20時間は飛行機に乗りましたが、妹と私はその間、殆どお喋りしていました。


「ケープタウン」 ケープタウン空港は、欧米の飛行場にように大きく綺麗なところでしたが、空港から町中に行く途中には、トタンで囲った沢山のスラムの家々が連なっていました。


 マンデラ元大統領によってやっと1996年にアパルトヘイトも撤廃し全民族参加のアフリカ共和国になり、割合早く黒人政権が安定した国です。 人口5000万人ほどの人口の10%は富裕層、20%が中間層、非道いバラックは70%貧困層の住居のようでした。


 ケープタウンから観光地をめぐりましたが、アメリカの高級住宅地のような素晴らしい住宅地が続き、それらは未だに白人がすんでいるそうです。


「希望峰自然保護区」 西洋人が、インド洋や日本に来れるようになったのはバスコダガマが南アフリカの先端の希望峰周りを発見したからといわれますがこの希望峰自然保護区には植物園やペンギン生息地があり、それらを見て私共はその海岸近くで大きなオマールエビの昼食でした。


 「カーステインブッシュ植物園」この植物園には、世界の植物の多くの原種が自生して9000種程の植物があり、日本の庭で見る花々も沢山見られ、径20センチほどの世界最大の花キングプロテアも咲いていました。その上、エジブト雁、ホロホロ鳥、ダチョウなど大きな鳥たちものんびりとモデルのように身近に写真に撮らせます。


 これらのの観光地は意外にも日本程度の清潔さで、アフリカ初体験として驚きでした。ここはヨーロッパ風な国で緑も多く10月は日本の秋のような気持ちの良い気候でした。


 「ブルートレインに乗る」アガサクリステーで有名な「オリエント急行」はもう無く、世界の豪華列車はこのブルートレインだけとの事です。外観は普通の青色の列車ですが、内装は全部桑材の玉藻のように非常に木目の美しいイタリア産の銘木で作られていました。2人部屋には机と2つの椅子や2台の安楽椅子があり夜はそれがベッドになります。いずれも狭いのですが綺麗な洗面所やシャワールームが付いています。 ブルーのインテリアに白いテーブルクロスの食堂車での食事は丁寧なものでお昼でもコース料理でメインのラムチョップ等も美味しいものでした。


「ジャカランタの花」 車中で1泊して首都プレトリアに着きました。ここでは7万本という薄紫の美しいジャカランタの花の盛りでしたが、私共の旅行はこの時期を選んだのです。立派な歴史的建物も多く美しい街でここで宿を取る旅行者も多いそうです。


 首都に近いヨハネスブルグは経済の中心都市で貧困層も多く最も危険な町とされます。ここでは沢山の貧困な人の居住区を訪れるツアーが盛んなようですが私共のツアーには無く、残念ながらアフリカの深層は見られませんでした。


「ジンバブエ共和国、動物、鳥を見る」ヨハネスブルグから飛行機で1時間半程で、 ジンバブエのビクトリアの滝空港に到着。ザンベジ川のクルーズに出かけるとバスの側には、見慣れぬ大きな(体長180c)動物がじっと座っている。写真の「ウオーターバック」「バブーンヒヒ」の類は何処にでもいる。 動物も鳥も動かずにのんびりしているのが不思議。船はあちこちの岸に近づいて動物や鳥を見せてくれる。オレンジの美しい「アフリカレンカウ」朱鷺に似た「ハダダアイビス」なども鳥達も沢山いました。 旅行中は毎日晴れていましたのでこの日もザンベジ川に大きく輝く落日を眺める事が出来ました。


「キングダム・ホテル」  このヴィクトリアホールスで3泊した「キングダム・ホテル」の庭には大きな「ツメバ雁」や「バブーンひひ」「サバンナモンキー」が毎日来ていますし柵のすぐそばを3頭の自生の像がブラブラと歩いていたそうです。カワセミも大きいのや、小さいのなどが常駐して池の魚を狙っていました。周囲には真っ赤な花を付ける火炎木が沢山見られました。


「ボツワナ共和国:チョベ国立公園」 ホテルから車で2時間程でチョベ国立公園に行きましたが、途中国境ではパスポートチェクなどあり30分くらいは待たされましたが、ここでは数人づつジープに乗って砂煙を立てながら広大な公園を廻りました。


世界最大のぞうの生息地とのことで私共も「200頭程の象」を見たと思います。 中でもボスは2倍位の大きさでば迫力満点でした。「鰐」も大きな口を開けたのや何匹も見ましたが緑色や黄色の3m位のが一番大きのでした。4mもあって200トンもする様な大きな沢山の「河馬」の群れも河を泳いで居ました。「サイ」「バッファロウ」「インパラ」の群れなどや「キリン」も2頭見ました。 動物が歩くと土が掘られるので、鳥がそこに群がって餌を啄んでいました。鳥も多くてカラフルな「ライラックブッポウソウ」「アフリカコノハズク」大きな「三色海鷲」・・・沢山いました。 夕食は大きな土俗的な建物で、野生動物等のバべキューと太鼓などのショー。


「ヴィクトリアの滝」 最後の日はお目当てのヴィクトリアの滝です。バスで滝まで行きましたが、最初の悪魔の滝を見て”凄ごーい”と歓声を上げる!滝幅1700m、最大落差100mほどとのこと。ここの特徴は いくつにも分かれて滝があるので 対岸をずっと歩きながら次々と滝の景色を眺めながら歩けること。 でも私共はジャカランタの季節10月下旬を選びましたが、本当に凄い時期は3月からの雨期ということでした。午後には 初体験のヘリコプターに乗って滝を上から見ました。ヘリコプターからの眺めは素敵でまたまた乗りたいと思いました。 これで私共の「ケープタウンで植物を尋ねる」「ブルートレインに乗る」「ヴィクトリアの滝を見る」という南部アフリカの旅は終わりました。若い素敵な添乗員さん有難うございました。


 


   


 


バルカン半島巡り・まずヘルシンキ~ウイーンへ

2013-01-24 16:19:44 | 海外旅行

 


フィンランド~ウイーン         (4枚の写真は妹が撮りました)


ウイーンに行って、そこから[バルカン半島めぐり]の旅行を妹と致しますが、
フインランド航空が一番安くウイーンに行きますので,フィンランド経由を
選びました。 まずフィンランドには10時間ほどですが、我々姉妹は機内で
あれこれ積もる話に花が咲いている内にもう着地でした。


まずタクシーに文句たらたら・・・


午後3時頃ヘルシンキに着いてリムジンバス6€(600円)で町の中央にある列車駅に           着きました。
駅から200m程の極く近いホテルをネットで予約しましたが、生憎の雨ですし
10kg 程の旅行カバンもあるので、タクシーに乗りましたが、フィンランドに初めて             着いた旅行者と、見え見えなので早速ボラれて8ユーロ(800円)払わされ、
たった800円なのに「こんなに近い処なのに廻り道をされて」と二人ともボヤき、
まずボヤきで始まいました。


素敵なレストランで美味しいお料理ににっこり・・・



ホテルは何処にでもある普通の3星ホテルでツィンで130€(¥13000)、少し                 休んでから夕食に出かけました。                                          一番美味しくて素敵なレストランを聞き、歩いて15分位で
札幌の大通りの様な並木道に建つガラス張りの温室の様なレストラン                      「ラビントラ・カッぺリン」に入りました。


レストランは1867年(江戸最後の年)に始まり、余り模様替えをしていない様ですが
今でもモダンで何かクリスマスの様な華やかな感じです。
日本と違うのは、お客様は殆どは大人で、若い人は家族と一緒に来ている様です。


トナカイのステーキ、お魚のアソート、チーズのサラダ、ブルーベリーのムース、
お肉もお魚の燻製味で美味しく、すべて大満足(2人¥8500)



機内では寝ていないので、ホテルに帰って、ぐっすり寝て次の日の朝食後は
岩をくり貫いて作った素敵な「岩の寺院」、それから何も見るべ見ものが無かった
「現代美術館」を見て港の方に歩く。魚市場が装飾のついた昔の建物に入っていて、             あまりにピカピカのお魚だったので お寿司2人で5,000円程で握ってもらう。


どうしょう!!今日泊めて頂く人に連絡が取れない・・・


今から、この時間に、列車で古い都トルクに行く事になっており、                        トルク駅に今日泊めて頂くロータリアンが待っています。                             お寿司を頼んだり、している暇はなかったのにと、あわててタクシーを                    探しまわり何とか駅には、まあまあの時間に着きましたが、                          妹が地下に一人で荷物を取りに行き、私は列車に入るドアの処で                      待つ事にしたのが間違いでした。


外国では何処からでも列車に自由に入れるので、お互いに別なところで待ち                 やっと落ち合って列車にかけ寄りましたが、列車はすげなく我々を置いて                  走り去られました。(ヘルシンキ~トルク2時間位 ¥7500)


さて、トルクの駅では,Mailで連絡し合ったロータリアンが待っていますのに、
高いお寿司等作って貰って列車に乗りっぱずれ、合憎な事に電話が通じず、
Mailは使えずこれからどうやって泊めて頂く家に連絡出来るのか? 
流石の我々も絶体絶命・・・参ってしましました。



1時間遅れの列車に乗って,思案を重ねている内に切符調べの女性を見て,
はたと!気が付きました。
乗車係の彼女にトルクの駅で待っておられるMr.& Mrs.ロータリアンに
「次の列車で私共日本人が行く旨」を列車の通信で伝えてもらい、OKでした。
トルクの駅では、にっこり微笑んで迎えに来られた彼らに無事に会えました。



駅からも近い彼らの家(写真の家)にお連れ頂き、お寿司を食べてきましたのに
鮭やソーセージ、各種の野菜が入った美味しいホアイトシチューとパンの
お昼を頂きました。
私共の子供の頃は、実家ではいつもホアイトシチューを作っていましたので
懐かしく、とてもお味が良くてシンプル乍ら、心温まるおもてなしでした。
(自宅でも早速この美味しいお料理を作りました。)


30年間校長先生をなさった堂々とした彼と、英語の先生だったとても美しい
夫人は大学時代に知り会れた仲で、学校の先生や、弁護士のご子息などの
お子様にも恵まれ素敵なご家庭でした。
奥様のご両親はや、羊の皮を剥いでカバンやミット等の革製品を
作る家業で、ご主人の方は畜産農家で「我々が初めてアカデミックな仕事                  に就きました」と話されました。


西洋人は自宅を自分で作る人も多いのですが、この家も半分くらいは
ご自分たちの手造りでした。自作の眺めの良いベランダでワイン等頂きましたが、            そこはご夫妻に寝室についているベランダでした。                                妹はお土産に美味しい東京のクッキー、私は九谷美陶園製のクリムト風な絵柄の
ペンダントと家の形のボンボニエールを差し上げましたら、美しい夫人は
早速ペンダントを首に飾られました。



この町は昔は都だった所なので14世紀頃のお城等あり夫人がお城の中の                 各部屋を詳しく説明して下さいました。
色々町を見た後で、私共は是非でもなかったのですが、この街の目玉ムーミンの島
(橋を渡るだけで島につく)にご案内頂きましたが生憎お休み日でした。


帰って夕食はハム等にサーモンのグリル、ジャガイモとお米等の不思議な美味しい
お料理(これは出来合いとの事)ワイン、ラズベリーのデザートなど頂きながら、
お互いに生活や家族の事等・・・等ゆっくりおしゃべりしました。
お風呂場もご自分で広く作られたのでしたが入らず、ここでもぐっすり寝ました。


次の日、朝食がリッチな所なのですね。テーブルいっぱいに各種のサラミ、ハム、
チーズ、むっちりして美味しいスモークサーモン、ラズベリーの自家製ジュース、
何種類かのパン。スモークサーモンはスエーデンからの鮭をを中国でスモークする              のでお安くなったそうです。


車で、北欧らしいハンドクラフトの店、広場の市場、大学、シベリウス博物館
(フインランデアのCDを買いました。)など小さくて美しい町のを見せて頂き
最後はリムジンバス停まで送って頂きました。
今度は日本の私共でお泊まり下さる様にお願いし、素敵なロータリアンの                  ご夫妻とお別れしました・・・


バスはトルクからヘルシンキまで30€、40分。
ヘルシンキの空港の一寸良いレストランでの夕食 1人35€。
ヘルシンキ発17;05 ウイーン着20:00。これでフィンランドの旅は終りです。


(私共はロータリアン同志がお互いに泊まりあうITHFと言う会のメンバーで、
 Mailで連絡しお互いに泊めて頂いたり案内して頂く事が出来ます。)


 


 



 


30年ぶりのインド

2012-04-04 22:17:25 | 海外旅行

                                                                                                                               成田からデリーまで10時間。飛行機の隣席はインド人で、
ターバンを巻いているシーク族の人でした。
バンクーバーに住んでいる人達で女性もターバンをしていました。
(これはインド以外に住んでいるシーク族の習慣との事でした。)
彼は大学の先生で定期的に北インドの大学に教えに行く所だそうです。


 機内で食事の時間になりますと、シークの人や外国人だけが先に配られます。
どうしてかと不思議に思って、後でスティワーデスに聞きましたら、
彼等はベジテリアン(菜食)なので、他の人と混じらないように
先に配ったそうですが、他の人に説明なしで失礼しましたと言われました。
機内食は高血圧、アレルギーなど、何と15類余りの特別食が有るそうです!


 デリーに着きますと、迎えの車が来てインドのロータリーの会員
のS氏宅にお連れ頂きました。
お宅は、高い建物の大きな家が並んでいる処にあり、お庭とパーキングがなく
道路の至る処に駐車しているので、よほどの腕前がなければこの道を
抜け出す運転は難しそうでした。



 そのお宅もご主人はターバンを巻いたシーク族の有能な事業家で
2人の使用人を雇っていましたが、西洋人の様な自然体の接し方でした。
静かな奥様はデリー大学の史学科を卒業された方で、ご子息はアメリカで
ハーバード大学の医学部教授との事で、集合写真でもターバン姿で                      背も高く立派に見えました。


 ご夫妻から先ず日本の災害に就いて慰めがあり、私共も「津波では                                                    2万人近くの人が 亡くなり、更に原発では成すすべもない有り様です」と申しました。
「その上、日本では学力も経済も落ち込んでいる」・・等と申しましたら、
「欧米諸国も同じですね」と言われ「以前良かった処は悪くなり、
中国やインド等が良くなって来て歴史はめぐりますね」等との話になり、
奥様はモヘンジョダロやハラッパの時代はインドは世界最高水準でしたと
述べられましたが その紀元前2000年~3000年前の信じられない位
素晴らしい文明に私共も全く同意しました。


 30年前にインドを訪れた時、博物館でモヘンジョダロやハラッ遺跡からの
美しい印章のレプリカを求めましたが、今回同じ博物館で其の
遺跡から見たのは、石造りながら現代と同じ椅子式のトイレでの写真でした。
そこは下水道の整備のみならず凄い遺跡で私共も是非行きたい処です。


   


次の日はロータリーの偉い方がアメリカから来られ、ロータリーが招いた                                                   アメリカ人の学生達も来てパーテイがあり、楽しい時間でした。
次の日からは、ご主人がお忙しい方なので私共にはガイド付の車を用意して下さり、
私共は観光の帰りに、日本料理屋での巻き寿司を求めパーテイに持参しました。                                            奥さまはお寿司は初めてとの事で、お喜ばれしました。                                                             ( 生ものは求めませんでしたが、珍しいので日本価格でした)


 インドと言えばカレーですが、このお宅のカレーも、ホテルでも
レストランでも私共が頂いたカレーは辛くなく、ココナツやカシューナッツなどの
美味しい味付けで 本当にマイルドな美味しいカレーばかりでした。                                                                                                                             思いがけず2日とも日本語のガイド付きの車でデリーを観光する事に
なりましたが、日本語のガイドの言葉は分かりにくく、言葉の難しさを
感じました。                                                                                         彼はバラモン階級ですが、今では僧侶にでもならないと
バラモンの特権も無そうです。2日間ドライバーとガイドと2人のインドの
人と一緒でしたので、何でも聞く事が出来て随分良かったです。


 30年前にインペリアルホテルに泊まったので、そこで昼食をしましたが
前と違って見違える程 超高級に変身していて驚きました。
元来ここはイギリス帝国主義の牙城と言われたホテルなので元に戻った
と言うべきなのでしょう。ブッフエも日本の高級ホテル位の価格でしたが、
様々な上等なテリーヌとか素晴らしいものでした。                                          


                                                                       どこのホテルでも夜にはお庭で 結婚披露パーテイがあって、ラグノーの                                                  タージ・レジデンシーホテルで見ていましたら 写真の真ん中の若い素敵な方が、                                              どうぞどうぞと入れて下さり、色々な方を紹介して下さったり、                                                                          私共は食後でしたのに食事も勧めたりご親切にして下さいました。                                                                               そこもシーク族の方たちの結婚式でしたので、ピンクのターバンを私共に2つ下さいました。                                            披露宴は豪華な舞台が作られエンターテーメントが華やかに行われ                                                    500人位のお客様がはお呼ばれしているのではないでしょうか?豪華なものでした。


                                       (写真はオールドデリー)                                                                                 ニューデリーは30年後も余り変っては居なく近代的な大都市でした。
オールドデリーは相変わらず凄く汚かったのですが、以前は牛が道路の真ん中に                                            寝そべっていましたが 流石にそんなことはありませんでした。
地方では、矢張り「バクシー。バクシー」とお金を欲しがる人や子供たちが沢山いましたが、                                      勉強をしなくなるので上げないようにと言われているようです。


インドは手工芸も素晴らしいので、何か素敵な着るもやアクセサリーでも買いたい                                            と思いましたが、私共に似合うものが見つからず、、
もう少し外国人の趣味に合うものを作ったら如何かと思いました。
ガイドとドライバーにはあちこち回って頂くだけで何も買わず恐縮しました。
 
 2日間、私共をおもてなし下さったSご夫妻には心から感謝しました。
写真をもっと写すと良かったのですが・・・良い写真が無くて・・・ これでインドは終わりです。
 


  



 


インド仏蹟を尋ねて・・2つのブッダの居城

2012-03-18 14:58:04 | 海外旅行

             写真はテイラウラコット遺跡(ネパール領側) 


   ( 2500年ほど前に釈迦族のブッダが住んだの居城(カピラヴァストア)は
    何処にあったのでしょう。
   5世紀に訪れた法顕、7世紀の玄奘は何処を訪れたかは明確ではなく、
    ネパール側とインド側の2か所が有力視されていて、両方を訪れました。)


 テイラウラコット遺跡(ネパール領側) 
 城跡は高台にあり大きな樹木が聳え500m四方程の 城壁に囲まれて、                                    それぞれの城門の跡が見られました。
 
 もしブッダがここに29歳まで住んでおられたら、この南門から使用人のチャンナに命じ                            白馬(後にカンタカとと言われた)を夜中に引き出さこれに乗ってせ出家の道に
 向かったのでしょう


 この塁壁は2世紀頃のクシャーン朝時代のものだそうですが、
 その下に BC7~3世紀の土器や テラコッタ、コイン等、
 ブッダの時代の物も出ています。
 立正大学が長年調査をしていますが決定的な記名遺物は出ていません。


 
  
 ピプラ―ワ―遺跡(インド領側)


(写真・・皆川名誉教授を中心に このメンバーで参りました。)
 インドの「ピプラ―ワ―」には基壇がレンガで築かれた1辺23m、直径35mのの                                大スツ―パ(仏塔) と僧院跡が有ります。 
 1898年ウイリアム・ペッペが此処でこの巨大な仏塔を発見しその中の石棺の中に
 水晶で作られた舎利容器が発見され、金箔で包まれた仏舎利が入っていました。                                 これはカルカッタの博物館にあって、私共は見る事は出来ませんでした。                                


1972年にインド考古局の調査でペッペの発掘した石棺の下の中心には特別なレンガの                           小室が有り、その底には2個のBC4~5世紀と考えられ舎利容器(11~16cm)を発見しました。
その他東側僧院跡には40数個のテラコッタの印象など様々な副葬品がありました。                                                        。
 舎利容器の蓋にもブラ―フミ―語で「ゴータマ・ブッダの遺骨並びにその一族の
 遺骨の旨」との文字もありました。
 読み方についても意見の相違もあるようですが ブッダに関係のあるものとされます。


 


このように、1970年代の発掘ではさらに古い地層から発見された舎利容器は                                   BC5~4世紀のもの まさにブッダが亡くなった年代と一致するものでした。                                   (上記写真)
これらを、私共もデリーの博物館で水晶製の物等色々見る事が出来ました。                                    さらに僧院跡から「カピラヴァストア」(ブッダの居城名)と明記された印章が                                     発見されています。 インド政府はここをブッダの居城としております。


 皆川先生説
 ブッダの時代に釈迦族はコーサラ国に従属し朝貢していたそうですが、                                     後にに滅ぼされてしまいます。
 ですから 初めの都がネパール領側のテイラウラコットであり、侵略されて
 南のピプラ―ワ―の居城を移したと皆川先生は考えらておられます。                                       先生はとても優しい方なのでインド側、ネパール側のどちらにも良い案を                                     考えられておりました。


 しかし初めの居城から30km程しか離れていないところに城を移すのは
 古代においても近すぎはしませんでしょうか?


 ブッダが29歳でカピラヴァストア城を出て、初めて出かけたマガタ国の都は                                   行程では600kも離れていました。
 それから考えても 侵略者に対して、30k程離して又居城を作るのは近すぎ
 るように、素人の感じで思われました。 
 
 


インドに仏蹟を尋ねて・・ブッダ生涯の果てに

2012-03-10 23:17:35 | 海外旅行


ブッダが亡くなられたクシナガラにある 涅槃像


この6mほどの涅槃像は5世紀のクプタ朝時代のものと考えられ1876年の発掘の折りに   粉砕された像が発掘され、それを修復したものです。 1965年ビルマの大祭の時に仏教徒によって現在の様に金箔を貼られました。 理性的なお顔立ちの美しいブッダの像です。


80歳のブッダは若き日に自国の城を出て先ず訪れた、当時一番の文化都市マガダ国の ラージャグリハ(現ラジギール)におりました。 悟りを開いて以来45年間をこのガンジス河 流域をあちこち歩いて布教し弟子を増やしていました。                                             パトナーからヴァイシャリーを過ぎパーヴァーという町で鍛冶屋のチュンダからの供養の 食べ物で出血し激しい苦痛を感じましたが、じっと耐え弟子のアーナンダに先ず、クシナガラに行く事を 告げました。ブッダは苦痛を忍んで生まれ故郷ルンビニの方向に歩かれました。                         しかし「このクシナガラの小さな町、竹やぶの町でお亡くなりになりますな]とアーナンダが 嘆いた ひなびた寒村の二本の沙羅の間に身を横たえてブッダは亡くなられました。何と人間的な最後だったのでしょう。                          


これらは中村元先生が最も古い仏伝と思われるパーリ語のものを中心に研究されたものを基にしております。それによりますとブッダはBC463年に生まれ 亡くなられましたのがBC383年です。最後の言葉として「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成しなさい」「自分は出家して50余年正理と法の領域を歩んできた。これ以外 人の道なるものは存在しない」・・


私共のリーダー皆川先生は、車がルンビニに向かう時に「ブッダは生まれた故郷ルンビニを 目指しながら再び懐かしい故郷を見る事も出来ず途中の寂しい村クシナガラで 亡くなられたが、私達はブッダの果たせなかったルンビニへの道を通っていますよ」と ブッダを懐かしんでと言われました。


インドに仏蹟を尋ねて・・法を説くブッダ

2012-03-09 20:08:49 | 海外旅行
このサルナートでブッダは、初めて法を説いたと伝えられるところです。

 写真が下手ですが、この6世紀に建てられた遠くに見える塔の周の
壁龕(くぼみ)の中の一つに若々して端正なブッダの「初転法輪」の像が
ありました。下記の像です。


ここでブッダが自分の説を初めて説かれたのは、以前からの旧友の修業者5人と
言われ、初めて仏教の教団(サンガ)が出来ました。

 BC2世紀のアショカ王は此処に頭に四方を向いた4頭のライオンが付いた
10m余の高さもある柱頭を建てています。
(30個建てた内 10個余り残っているそうです)
これはインドの国家紋章にもなり、すべてのお札にも付いています。
 初々しく美しいブッダの像とアショカ王の獅子頭柱などは 
地元サルナートの美術館で見られました。


 このずんぐりしたダメーク塔の周りに彫られた彫刻です。此処を7世記に
玄奨がここを訪れた時には1500人程の僧が修業していたそうです。
その後イスラムの侵攻により破壊されましたが、1905年の発掘により現在の
姿が現れました。

 各国からの留学生も学んだナーランダ仏教大学遺跡

 5世紀にナーランダ寺が建てられ、7世紀には玄奘なども留学していますが
、中国や東南アジアからの留学生も多く12世紀までインドの仏教の
中心地だった処です。


座っている処は学僧たちのベッドですが結構広く、部屋は6畳くらいの大きさ。
広大な大学構内にはこんな個室も沢山ありました。
此処で玄奘もサンスクリット語で皆とコミニュケーションを取ったでしょうか。
それともその頃はインド話も出来たのでしょうか?










 
 

インドに仏蹟を尋ねて・・ブッダが悟られたブッダガヤ

2012-03-07 12:46:06 | 海外旅行

ブッダが菩提樹の下で悟りを得たといわれ、ブッタガヤに聳える菩提樹。

ブッダは極度の苦行を6年間の続けていましたが、川下からの農夫の歌に
「琴は弦を張りすぎず、ゆるすぎず、程々に弦を張って妙なる音を奏でる」
と聞き、苦行では真理に目覚め事がないと知り、村の娘からの
スジャータを飲み体の回復をはかり、その後ブッタガヤの菩提樹のもとで瞑想し
ついに悟りを開いたと言われます。

菩提樹の周りには、ビルマ、ネパール、スリランカ、韓国、日本その他世界中に
仏教徒が詣でており,それぞれの祈りを捧げています。
私共の皆川先生は般若新経を唱え、すぐ後ろの日本人はグループは浄土真宗の
お祈りでした。様々な沢山の信者で一杯でした。


「ブッタガヤの大塔」
この美しい装飾のある52mもの高さの塔は原型が2世紀に溯ると言われます。

13世紀初めにアフガニスタンのイスラム軍団はこのブッタガヤのあるビハール地方を                                襲い他宗教を襲い殺戮、蹂躙しました。                                                          その時に仏教徒がこの52mの大精舎一帯に盛り土をして隠したそうです.                                                                                        その後600年間の大地に埋もれていて、1880年代にアレクサンダー・カンニンガム                                に依ってやっと発掘し 復元されたものです。                                                         52mもの建物を父で覆う事が出来るのですね。


此処で彼はBC3世紀にアショカ王が奉納した金剛宝座を発見しました。
残念ながらこれはカルカッタ美術館にあり私共には見られませんでした。


ウズベキスタンでも高さ5m位の「ブハラの真珠]と言う美しい寺院を土
で覆ってモンゴルの侵入から隠した建物を見ましたが、
このブッタガヤの52m大塔を土で覆ったとは 本当に驚きです!
7世記の玄奘は「塔の何層にもなっている龕にはそれぞれ金の像が入っている・・」と
現在とほぼ同じようなものが建っていた事を述べています。


次にブッダはベナレスに向かいました。此処は当時のバラモンの聖地でした。
写真は明け方に岸辺で火葬している人達をガンジス河の舟から写したものです。
暗くて分かりにくいのですが薪が積まれ火葬が行われていました。
深紅の薔薇を台にし蝋燭をを灯したものを皆でガンジスに流しました。

ツアーバスがべナレスの川岸近くに駐車出来ないので、その辺りをずっと
歩きましたが、思ったほどの猥雑さはなく、少し離れると街は緑も多く
ベナレスを恐れていた先入観は一掃されました。


インドに仏蹟を尋ねて・・若きブッダ・・

2012-03-06 20:48:07 | 海外旅行


写真は 祇園精舎跡・・
 平家物語の冒頭にも「祇園精舎の鐘の音、生者必滅の理を現す」と。
(紀元前4世紀に、コーサラ国の皇太子の園林だった処を
 資産家スダッタが沢山の黄金で 買い取り、ブッダに寄進した僧院。
 此処でブッダは24回の雨季を過ごされ沢山の経を説かれたと言われます。
 7世紀には玄奨も訪れてていますが、当時はもう廃墟だったようです。

私共夫婦は2月下旬~3月初めにかけてインドの仏蹟を巡るツアーに
参加しました。
22回も仏蹟を尋ねられた大学の名誉教授の皆川先生がご案内下さり、
その方がとても素敵な良い方でしたので、他の7人程の方たちと
楽しくて勉強になる旅行をして来ました。

私共は一応 仏教徒なのですが、日本の仏教はブッダが説いた教えとは
違うように思い、今回ブッダの遺跡を巡る事で少しでも仏教の本質や
ブッダの生き様、教えを知ることが出来るかなと思ったのです・・・

北インドでは朝はジャケットとセーターを着、日中はジャケットだけ位の
気候で、旅行には快適な時期でした。

私共がお釈迦様と言う ゴータマ・ブッダはインド国境から4キロ程
北にある、現在ネパール領の「ルンビニ」に紀元前463年頃に生れました。
当時シャカ族はコーサラ国に従属していましたが、ブッダの父は
そのシャカ族の国王でした。

皇太子のブッダの纏っている布はすべてカーシー(現在のベナレス)産の
もので、冬と夏と雨季の3つの宮殿があった 等々とその生活を語たられと
古い仏伝が伝えています。
シャカ族の中心地 カピラ城からベナレスへは多分 300キロ位は離れて
いるので、2500年も前にここからは山越え、川越えで大変な日数をかけて
皇太子ブッダが着るその最高のブランドの布を運んできたのでしょう。

生誕の地「ルンビニ」
ブッダの実在は英国人の1898年フューラがBC3世紀のアショカ王が建て
碑文が刻まれた石柱をこのルンビニに発掘した事で判明したと言われます
碑文には「王はブッダが誕生されたこの土地に来て、石柱を立てた・・・」
それは頭部が失われていますが古代の文字も見る事が出来ます。
母親のマヤ夫人の大きな遺跡は今は覆家に入っていました。
此処は国連の指導で、丹下健三による仏教公園都市が計画され各国の
仏教寺院が作られ整備された公園になっていました。
余り広いので、2人づつ リキシャ乗って移動をした位です。

この辺りは今も一面の緑の穀倉地帯ですが、ブッダの時代もお米が作られて
豊かな土地だったと言われています。
処が舗装はしているとはいえ、道がでこぼこで私が付けていた万歩計は
車の振動で何万歩にもなり、一人の方は席から跳ね上がって頭をぶつけて
しまいましたよ! これは本当です。

さて、29歳のブッダは出家を志して自国のカピラ城の南門から馬に乗って出城し
当時一番強大なマガタ国の文化の中心だった首都ラジキールまで
600キロも行き、そこで有名な人に学びご自分でも修業をしましたが、
その都は山に囲まれた要塞の地ながら、今は一面に草と灌木が茂っていて
つわもの共の夢の跡でした。ブッダの死後、第1回の仏典結集の遺跡や
その他沢山の遺跡があります。






スペイン旅行(5)  独のケルン  海外旅行 

2011-11-01 16:41:50 | 海外旅行
   
         旅行でのコレクションを飾る友人の居間     
スペインの帰えりにドイツの友人に寄るので、フランクフルトから列車で
ケルン駅に降りましたが、迎えに来るはずの彼らは居ません。
マドリッドからの飛行機が.1時間半も遅れているので、私達も大きな駅の
どこを探して良いか分かりません。
うろうろして結局、案内所で呼び出して貰いましたが全然現れません。

用意の悪い私達は彼らの住所も書いていないのでタクシーでも行けず
駅で待っている事を携帯で彼らのパソコンに送るだけでした。
結局彼らは一時間待っても来ないので、唯一の通信手段のパソコンを
見に自宅に帰り、私達が駅に居るメッセージを読んで往復一時間かけて
戻って下さり、夜の9時半になって感激の対面になりました。
本当にほっとしましたが、彼らは来て下さると信じていました。

ドイツのコールドミートの簡単な料理に美味しいビシソワーススープの
遅い夕食の後、10年程前に一緒に南フランスを回ったアルバムを見て
お互いにあの頃は若かったが、まだまだ今も元気だと慰め合いました。
(私達は大体同年ですので。)
他のアルバムで私の姉は浅草に、妹は大山に彼らを案内していました。
彼女のアルバムは何年前の事柄でもが、直ちに見付けられます。

元々彼らとは姉の紹介で知り合いましたが、京都大学の教授として
時々来られ、京都に近いので私達の家でも泊まり、3年前に又日本に来られ
能登を一緒に2泊のドライブ旅行し私共にも泊まったり親しくしておりました。

次の日は今回の旅行で初めての雨で、午後からケルン大学や大聖堂など
回るだけでお宅の庭のお花を見て楽しみました。
今頃どうして北部ドイツの庭に沢山お花が咲いているのか分かりません。
夕食は鰊のサワークリームや野菜のソテー等々、旅行者の私達には
何より美味しいお料理でした。今度もお料理のレシピを貰いました。

もう会う機会がないのではないかと思い、スペインの帰えりに今度もまた
お寄りしたのですが、旅行好きなドイツ人の彼等は又日本に来られる予定が
あるそうで今回は2泊させて頂き日本での再会を約束して、又ケルン駅に
送って頂き別れました。 
 これで11日のスペインからの旅行は終わりました。