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万葉集 大津皇子24歳の死を探る

        (奈良県葛城市にある二上山の山頂にある大津皇子に墓地)         

          

                                             万葉集 大津皇子24歳の死を探る          

        大津皇子、石川郎女に窃(ひそ)かに婚(あ)ひし時に 津守連通(つもりのむらじとおる)のその事を                           占へ露はすに皇子の作りませる御歌一首 

大船の 津守が占(うら)に告(の)らむとは 兼ねてを知りて 我が二人寝し  万葉集2109 大津皇子

(津村の占に露見する事は前もって分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ)

    大津皇子は懐風藻に「その人柄は自由気ままで規則に拘らず」と書かれている彼らしい大胆な歌であるが、この大津皇子の自害に至る24年間の人生の一端を資料から調べたいと思う。

    この歌の相手の女性・石川郎女は大津の高祖父・蘇我倉山石川麻呂につながる大和高市郡石川の豪族の出身とみられている。万葉集2‐129の詞書に「大津皇子の宮の侍(まかたち)石川郎女」とあるが、その遠縁であってか侍(まかたち)すなわち大津皇子宮の侍女をしていたことが知られる。

あしひきの 山のしづくに妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに  万葉集2107 大津皇子

吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを 万葉集2108 石川郎女

    大津皇子と石川郎女の相聞歌だが、同時期に皇太子草壁皇子も石川郎女(大名児)に下記の相聞歌を贈っている。(石川郎女は万葉歌人としても非常に有名な女性である。)

                                                                 日並 皇子尊の、石川女郎(大名児)に贈り賜へる御歌一首               

大名児が 彼方(をちかち)野辺に刈る草(かや)の 束の間もわが忘れめや  万葉集2110 皇太子草壁皇子

    皇太子草壁も交えた三角関係であるので一般には非常に難しい恋愛であり、2-109番の詞書にあるように自分の侍女であった石川郎女と“窃(ひそ)かに”逢った事が知られる。にも拘らず大津皇子は「二人寝た事が露見しても構わない」と豪語している。「窃(ひそ)かに」という言葉遣いには、「禁忌を犯す」不倫の意味があって石川郎女は既に草壁皇子の愛人で、大津皇子が奪って恋人にしたのではないかとも考えられている。

   津守連通(つもりのむらじとおる)(当時有名な陰陽師)の占に露見する事はと大津皇子が歌うが、当時彼は常に監視されていてそれも感知していただろうと推測される。                              

 皇太子草壁は現天皇の天武と 鸕野讃良皇后の一人子で681年に皇太子になった。すでに679年に天武天皇との吉野の盟」では第一の皇子であり(大津皇子は第二)この事実上の後継者を6人の皇子で守る事が誓約された。一方大津皇子の母の大田皇女は天智天皇の皇女で 鸕野讃良皇后の姉にあたり普通ならば皇后になり草壁と同年齢の大津が皇太子になり得たと思われるが、母の大田皇女は大津が4歳の時に亡くなり唯一の兄妹である姉の大伯皇女も斎女とされ伊勢に行ったので大津には後ろ盾は乏しかった。                              

 『日本書紀』天武天皇12年(683年)に「大津皇子、初めて朝政を聴しめす」とあり草壁皇太子の2年後の事であるが、これで草壁と同等の皇位継承権が発生し皇太子草壁の後継は曖昧なものになったと言う考えもあり、天武天皇亡き後直ちに草壁の母・鸕野讃良皇后は大津皇子に謀反が有りとして大津を自殺に追い込む。

 『日本書紀』大津皇子が死を賜った(686年)10月3日の記事の後に「彼は威儀備わり、言語明晰で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み・・・」とある。         『懐風藻』に「大津皇子は天武天皇の第一皇子である。丈高くすぐれた容貌で度量も秀でて広大である。た。性格はのびのびとし自由に振舞って規則などには縛られなかった。高貴な身分でありながらよくへりくだり人士を厚く待遇した。このために皇子につき従う者は多かった。                                                                                                 当時、新羅の僧で行心という者がいた。天文や占いをよくした。僧は皇子に告げてこう云った。“皇子の骨柄は人臣に留まっていて良いという相ではございません。長く下位に留まっておりますなら、おそらく身を全うすることはできないでしょう”」などと書かれている。                                                                                 第二の皇位継承者がこのように有能で人々に慕われる人物であった事は、古今の歴史でもその直近の事件を見ても非常な危険を伴っていた。

   まず658年、天智天皇が中大兄皇子の時代に実権は中大兄皇子が握りながら叔父を孝徳天皇にし、その天皇亡き後は天皇の子の有間皇子を蘇我赤兄にそそのかせて謀反の罪で処刑した。19歳の有間皇子の痛切な嘆きの歌に、人々は未だに同情を寄せている。                  

磐代の 浜松が絵を引き結び 真幸くあらばまた還り見む        万葉集2141  有間皇子           家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る     万葉集2142 有間皇子

   更に672年、古代日本最大の内乱と言われる壬申の乱では、天智天皇は我が子の大友皇子を後継にする意思を示すと天智天皇の弟の大海人皇子は大友皇子を皇太子に推挙して自分は出家して吉野に下った。しかし天智天皇が崩御されると直ちに大友皇子を攻め、戦いに敗れた大友皇子は24歳で自決した。反乱者の大海人の皇子が天皇の後継者を自害させて、天皇になったと言う日本では例を見ない事件も大津皇子の死のわずか14年前の事であった。

   大友皇子が叔父大海人皇子との戦いに敗れ24歳で自決した当時、大津皇子は10歳位だったが親しい従兄の皇位継承者としての悲劇を目の当たりにして、凡庸ではなかった彼が第二の王位後継者である吾身の危険を感じざるを得なかったであろう。大津皇子が死に臨んだ時に中国の臨刑詩を元にしたと思われる漢詩を遺している。「鼓声生命の短を催す、日光西に向いて斜めなり、黄金に客主なし、今夜誰が家に向かはむ」この隋の捕虜になって受刑を待つ長安に連行された陳後主(553~604)の詩を常々吾身と重ねていたのではないか。この詩は丁度天武元年672年に唐から智蔵法師が帰国し彼の弟子の智光が陳後主の詩を収録していたので、智蔵法師と大津皇子は天武期の詩壇での交流があった可能性が高い事から大津に伝わったと考えられる。

日本書紀』には「天武天皇が686年9月9日崩され24日以降に本格的な殯宮礼儀が始まり、この時に大津皇子は皇太子に謀反を企てたとして、10月2日その謀反は発覚して逮捕され、合わせて皇子大津に欺かれた人々30余人を捕らえた。10月3日皇子大津は自宅の訳語(おさだ)田(た)で死を賜った。時に年24歳。妃の山辺皇女(天智天王の皇女)は髪を乱し裸足で走り出て殉死し、見る者は皆すすり泣いた」と書かれている。妃が裸足で走り寄って殉死されたと言う稀有な事柄ほどに大津皇子は妻にも愛された人物だったのであろう。

    皇太子草壁のライバルとしては有能で人望の厚い大津皇子は、父の天皇亡き後に生き残れる道は今謀反を起こすしかないと思ったかもしれないし、「人士を厚く待遇し、皇子につき従う者は多かった」と言われた大津を支持する人も少なく無かったであろう。特に天智天皇に愛されたと言う大津皇子には天武天皇の急激な改革に親しまず天智天皇を慕う人々の支持も当然多かったであろう。彼の性質からして、僧になって一時でも逃れるとか姑息な手段で生きようとは思わなかったと推測する。『懐風藻』に河島皇子一首として「はじめ大津皇子と莫逆の契を為しつ、大津の逆を謀るに及びて河島則ち変を告ぐ・・・」とあり、大津皇子が疑いもせずに親友の河島皇子に心の内を語った処、河島が直ちに皇后方に知らせたと言われている。

 10月2日に謀反として発覚し次の3日には大津皇子は死を賜る。初めから監視され、予定されていたような早さであり大津皇子以外30余人の杵(ときの)道作(みちつくり)は伊豆に、新羅の沙門行心は飛驒に流されたが、他は全て詔により許された。大津の刑執行の速さとそれ以外の者の刑の軽さが不自然と思われている。

 『日本書紀』には、「大津皇子は有能で才学に富み、特に文筆を愛されたこの頃の詩賦の興隆は大津皇子に始まったと言える」と讃えられていて、彼の七言絶句「春苑言宴」、「狩猟」など優れた作品と言われ、臨終の歌は陳後主の臨刑詩を思いながらであろう、下記を遺している。

鳥は西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す 泉(せん)路(ろ)賓主無し                                                                                                             此の夕べ家を離(さか)りて向ふ       大津皇子           

ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ 万葉集3-416   大津皇子        

   皇太子草壁については『日本書紀』に「13日皇太子草壁皇子尊が薨去された。」と半行あるのみで大津皇子に就いての様々な記事とは違い皇太子草壁自身の個人的な記述は何処にもない。大津皇子の自害の3年後に皇太子のままでの病死であった。柿本人麻呂が日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時に作った有名な長歌と短歌があるが一般的な壮大な歌である。

   大伯皇女は大津皇子の姉であり、父は天武天皇、母は大田皇女(天智天皇の娘で持統天皇の同母の姉)であり、大伯皇女は実存する初代斎宮で壬申の乱の戦勝を感謝するために13歳で選ばれた。大伯皇女は非常に高貴な血筋の女性であったので有力な皇子と結婚すると弟の大津皇子の強力な後ろ盾になり皇太子草壁の地位を危うくすることを恐れられ遠い伊勢の斎宮に任命されたと考えられている。

          大津皇子秘かに伊勢新宮に下りて 上り來る時に大伯皇女の作らす歌二首                 我が背子を 大和へ遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露(つゆ)に我が立ち濡れし 万葉集2‐105  大伯皇女        二人行けど 行き過ぎ難き秋山を 如何にか君がひとり越ゆらむ                             万葉集2‐106    大伯皇女

    万葉集の中でも人々の胸を打つ大伯皇女の歌は、全て弟の大津皇子への哀傷歌である。上記は大津皇子が伊勢に行って姉の大伯皇女に会った後に作られた歌とされ、斎宮に会えるのは天皇の勅使のみで弟でも許されなかったと言われるが, 彼は禁を破り死をも予測して今生の別れを唯一の姉に会いに訪れたのであろうか。『万葉集全注』によると飛鳥から伊勢まで約100キロ、大津皇子は人目を避けて吉野を経て行く迂回路を馬で往復したとしても朝早く発つと夕方には伊勢に着くそうである。

        大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大伯皇女の哀しび傷みて作りませる御歌二首         うつそみの 人なる我や 明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む                   万葉集2165      大伯皇女      磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに 万葉集2166 大伯皇女

    この歌により、大津皇子の遺体は二上山に移葬されたと思われていて、私も以前高さ500mの二上山に 登ってその墓地を訪れた事がある。度々お詣りに登っていると言う男性に会うと「あなたも皇子を偲んでですか、全国からも来られるのですよ」と言った。                                  大伯皇女は天武天皇の崩御が686年9月で、それに依って斎宮の任を解かれ京に着いたのが11月であったが、その前月10月に弟大津皇子は死を賜っていた。701年には大伯皇女が41歳で亡くなった。                           2021年5月                            石川県小松市「万葉集をよむ会」   寺前みつ子  

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鬼滅の刃デザインのエプロン

これが「鬼滅の刃の市松デザイン」と分かる人は、だいぶ若いですね。 
何しろ私の年では「漫画・・なんて言わないのでしょうか?・・「コミック」と言うのでしょうか?
70歳や80歳では、其のコミックを読む人は少ないでしょうね。

マスクを作るようになってミシンに少し慣れ、次にエプロンを作りました。
ボタンもかけず、紐で結びもしないで、かぶって着るだけの楽なエプロンを欲しかったので
布を買って作りました。
黒と濃いグリーン色で汚れが目立たないかと思って選んだ布です。

それが世に有名な鬼滅の刃のヒーローが着ている物と同じデザインの布で、皆に驚かれたり
「おばあちゃん流石に流行にノリノリだね」ですって!!
せめてこの映画やコミックが世界市場に大いに売れて、日本経済を少しでも助けて欲しいですね!

 

 

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紅葉を訪ねて白馬山麓からのハイキング

白馬山麓のホテルに6日泊まりハイキングをするツアーに参加しました。

「白馬五竜」

先ずホテルからバスで「五竜」に向かいました。白馬五竜は百名山の一つだそうで高さ2800mほどで氷河もある山ですが、1500m位迄はケーブルカー8分で登れました。

丁度紅葉の盛りで、かなたに聳える白馬三山が雪に輝いています(写真は下手ですが)。晴天の温かい日で紅葉の雑木林を散歩したり、のんびり楽しんできました。300種の高山植物園がありますが、今は冬枯れでした。

「白馬岩岳」

白馬村から此処はゴンドラで1280m位まで登りました。此処も北アルプスの山々が見える絶景の場所です。そこに今年は巨大なブランコを作り人気があるそうで、ガイドの人も得意気でした。その横には幅広い大きな展望の建物があり、人々で混んでいましたが、せっかくの自然の美しい景色もそれらにさえぎられてしまいます。

大きなレストランもあり私共もそこでランチを頂きましたが、有名なハンバーガーの店も人気なそうで、其の内に山の上は沢山の店で埋まりそうです。

これらは村や町が許可するのでしょうか?せっかく素晴らしい所なので、日本全体の自然を守るコンセンサス(合意?)が有ったら、村や町の人にも分かって貰えて良いのにと思いました。(「有名な薄墨桜」の処も、沢山の店に囲まれて今はひどい状態と言います。)

「ネズコの森」

白馬五竜のゴンドラを降りて、「ネズコの森」を歩くガイドツアーに参加をお願いしましたら

その時間は私一人だったので、個人ガイドになりました。ネズコはヒノキの1種だそうで、写真はそのシンボルツリーで200年の樹齢との事です。

此処もブナの黄金色が美しく、風が吹いて一斉に葉が落ちる音や景色、川のせせらぎをかすかに聞きながら眺める紅葉の木々の中に薄緑のコシアブラの葉がそよいでいる。

ブナの幹の特徴の白い斑点は地衣類と言うカビの様なもので、ブナばかりでなく、コシアブラ、朴の木にも同じような白い斑点が付くと教わりました。

「くま棚」

クマが木の枝を折って木の上に座布団を作って座り、木の実を取って食べる「クマ棚」も初めて見ました。ガイドの方に色々教えてもらいながら1時間半ほど雑木林を歩いたのは心豊かなものでした。

「奥裾花自然園」

“ブナの原始林を歩く“と言うのがこのツアーの一番の魅力でしたが、丁度良い天気に恵まれ青空の下黄金色のブナ林をハイキング出来ました。原始林を歩ける場所は限られているそうですが、ブナの白い幹の雄大な森を歩くことは夢でした。夢は中々叶わないと言いますが、ここではあっさり叶いましたよ。原始林では400年ほど経った古木々が倒れ、若い木が育っています。写真の様にブナの黄葉が輝いている中、落ち葉を踏み鳴らしながらその日は15000歩ほど歩きました。

「そば打ち体験」

古谷村のそば打ちの名人(?)の指導の下、ツアーの4人が一組になって地元の新そば8割と地元の小麦粉2割でおそばを作りました。はじめはどんな風になるか心配でしたが、上手に出来てビックリでしたし、本当に美味しいおそばでした、てんぷらは山菜とムカゴなどを村の人が揚げて下さったのも全部美味しかった。

「栂池自然園」

栂池あたりの木々の葉は落ちていますし雪が降ったので一寸行くだけと、言う事でしたが、暖かい日で木道もすっかり乾いていて、ずっと歩きました。

安曇野辺りから白馬を見ていると、いつも雲に隠れていてめったに見ることが出来ませんでした。でも雲の切れ間から白馬が見えた時など、何と神秘的な山かとあこがれていました。ところが栂池からま近かに見える白馬は全然神秘的ではなく、少しがっかりでした。人間についてもそんなこともあるかも知れませんね。

「塩街道」

、日本海側の越後と山の信州を結んだ120kほどの古道の一部、お地蔵さんが並んでいて風情がある所を

本の少し歩きました。ツアーの中の友人はガイドを付けて10k歩き、120k制覇の予定です。

「上高地」

帰りは上高地で自由行動でした、久しぶりに帝国ホテルのお茶でゆっくりして、一人で河童橋の辺りまでぶらぶらしましたが、上高地は何時来ても良いですね。

その一番はさらさらと美しい川、カラ松の黄葉から望む山々・・どこを見ても自然が守られているからではないでしょうか。全国の自然を観光地化しようとする人々に、上高地に来てもらい、あなたの処も何度でも来たい上高地の様な場所にする事が結局一番望ましいと分かってもらえると良いのですが・・と思いました。

7日ほどの旅行中、晴天に恵まれ楽しい日々でした。偶然友人と一緒のツアーでしたがハイキングの事のみ書きました。

 

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姉妹で九州の史跡を訪ねて 三日目

                                                            福岡城址ー黒田官兵衛と黒田長政による城    

 「福岡城址」

関ヶ原の後、筑前52万石を与えられた黒田官兵衛親子は此処に大きな城を作りましたが、今では周りは沢山の運動施設が出来、城跡は桜の公園になって居り、城址の面影よりは市民の公園でした。

      

                福岡城址に発見された外交施設    鴻臚館跡展示室      

 「鴻臚館跡展示館」                                                  

空ばかり写っていますが、毎日暑いほどの晴天続きでした。 飛鳥から平安時代に作られた外交施設が鴻臚館ですが、全国3カ所の内、唯一此の遺構が見つかったそうです。中には発掘された器や建物の模型が作られて、大きな施設だった様子が分かります、中国や朝鮮各国からの使節団や遣唐使のための政府の宿や商人のためにも使われた施設の様です。  

             

写真は鴻臚館跡から出た唐三彩の陶製枕ですが色々の焼き物が出土しています。

 

         大宰府跡                                                  

大宝律令(701年)以降外交施設は大宰府のみ残されて、中国や朝鮮半島の国々からの人々に対する地方行政機関でしたが、日本の外国に対する唯一の窓口で外務省の様な大事な施設で、政府、学校、客館、兵場所等々が有った処の遺跡で広々とした敷地でした。                                          

  三日目は妹は野鳥を見るために佐賀の方に行き、私は福岡に戻り二人は別行動で過ごしました。私は福岡空港~石川県の小松空港に飛び、飛行場に置いてあった車で30分で自宅に戻りました。                                 これで姉妹での北九州の旅行が終わりました。妹とは二人とも、継体天皇稜などに行きたい事が分かり、又の旅行を期待して別れました。

このblog では文字が思うように並ばず、あちこち文章が飛びますが、以前はそんなことは無かったと思いますので一度調べて貰いたいと思います、

 

 

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姉妹で九州の史跡を訪ねて 二日目

唐津の名護屋城址(私の城址NO.1でした) 

「名古屋城址」

福岡のホテルから1時間半ほどの唐津に向かい、妹の提案で名古屋城址に行きました。立派な博物館が有りましたが残念ながら月曜日で休館、全く残念でした! 

  広い城址には、崩れた石垣や鬱蒼とした樹々が在りし日の栄華を思い出させます。この城址跡は、私の今まで見た城址の中のNO.1の素晴らしい処でした。

 此処は秀吉が朝鮮侵略(文禄、慶長の役1952~1598年)軍事拠点で金箔瓦を葺いた5重7階の天守をはじめ全国の諸大名の陣屋は城下町の様な様相で、秀吉好みの能、茶会、芝居が毎日の様に華々しく行われたそうです。秀吉も長く滞在しましたが、出兵した各大名や兵士の悲惨な事態を引き起こし、豊臣政権の崩壊を招きました。

「佐保姫像」新羅に出兵した恋人に領巾を振っている

「鏡山」                                                

唐津には万葉集に、山上憶良も歌っている「佐用姫伝説の鏡山」と言うのが有り、私も万葉の会で丁度その処を読んだばかりでしたので唐津の「鏡山」に行きました。日本の三大悲劇は羽衣伝説、竹取物語と、この佐保姫物語との事です。

  この日の文の最後に「万葉集の佐保姫伝説」に就いて私なりに調べた事を付記しましたので、万一ご興味のある方はお読みください。(お陰で、口語訳ですが「日本書紀」等々初めて拾い読みしました。)

  鏡山から唐津駅へ戻って、バスの待ち時間が有ったので「近くて美味しいお寿司屋を」聞きましたら、駅の案内の女性がアメリカ人で彼女の推薦のお店に行きました。そこで逢った常連のお客様も「ここが一番です」と言われましたが、お魚が余りに新鮮過ぎて硬くて厚切りなので、これはお寿司ではなくお刺身にした方が良い様でした。

「洋々閣」
 「城跡」や「鏡山」を見終わってやっとバスに乗り唐津駅に帰りました。予約しておいた「洋々閣」に行く時に、タクシーの運転手さんに途中で見られる古くからの和風旅館を教えてもらいましたら、2軒ほど大きくて立派な宿の傍を通って下さいました。

  此の町は当時日本の基幹産業の炭鉱に近く明治、大正時代に有名な財閥の方々が炭鉱に来られた時にこの唐津の温泉旅館で豪遊されたので、立派な旅館が残って居るそうです。

 「洋洋閣」もその一つかと思いますが、私個人は以前夫と泊まったことが有るので懐かしく思いました。私共は九谷焼の窯元ですので、この宿には唐津で有名な中里隆氏のギャラリーが併設されているので選び、夫と中里隆氏の窯元にも訪れました。宿には、以前よりもっと多くの中里一家の作品が並べられておりました。

 思いがけずその20年ほど前頃?にお目に掛った奥様に廊下でお会いし少しお話も出来て嬉しく思いました。庭好きの私共姉妹は、部屋から下駄をはいて、危なかっしい足元で美しい松の庭を歩きました。温泉の湯殿も黒曜石と木で設えられ気持ちよく懐かしい宿でした。これで二日目は終わりです。

 

万葉集・恋の顛末 ―松浦佐用姫と大伴佐堤比彦ー             

万代に語り継げとしこの嶽(たけ)に 領巾(ひれ)振りけらし松浦(まつら)佐用(さよ)姫(ひめ)

新羅に船で出兵した恋人佐堤比彦(さでひこ)との別れを惜しんだ佐用(さよ)姫(ひめ)は上記の様に丘の上で7日も領巾を振って悲しんだと歌われ万葉集では佐用姫について憶良などの8首が有ります。佐用姫伝説等では彼女は悲しみのあまり石になったと言われ、その後も沢山の歌が作られ謡曲や軍記物などにも取り上げられ現在も唐津市の鏡山は歌の名所で有名です。  

 佐用姫の恋人のその後は?

その恋人の大伴佐堤比彦についてはほとんど知られていませんが、720年完成の日本最古の正史「日本書紀」に“AD537年冬10月、天皇は新羅が任那に害を加ええるので大伴金村連に命じてその子狭手彦を使わして任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮め又百済を救った。更にAD562年8月天皇は大将軍大伴連佐手彦を遣わし数万の兵をもって高麗(高句麗の事)を討たせた。佐手彦はこれを撃破し沢山の武器、珍宝を得、美女二人を蘇我稲目に贈った“等との佐堤比彦の華々しい戦果の記録があります。これは氏族伝承を原資料とした説話的記事と言われ「日本書紀」に記されている様々な出来事は、今では史実としては引用されないものが多いようです。

半島は三国時代時代でした

当時半島では「高句麗、新羅、百済の三国」の他に南に加耶諸国(金官国等)が有りました。倭国は古代から百済とは特別に深い関係が有ったと思われ石上神宮に納められている「七支刀」には、百済王の世子が倭王のために作らせたと言う由緒と、我が国の歴史における最初の絶対年代(泰和4年)AD369年が刻まれております。その後も百済は武寧王のAD512年以来、倭国と積極的な外交を行いAD553年までに五教博士が何度も交代で貢上され、その後も易、暦、医博士等大変高度な知識人を派遣して、これらが倭国の国政に果たした役割は大きいと言われます。

佐堤比彦が出兵したと言う少し前のAD527年に、倭国が新羅から金官国を守ろうとした継体朝の進軍に対して北九州の磐井が阻止し、いわゆる「磐井の乱」を起こしています。

AD532年には新羅による金官王国殲滅と言う事件があり「三国史記」の新羅本記に“金官国国王一族が国庫の宝物を携えて(新羅)に来降した。”と書かれております。新羅は半島南端まで進出しAD562年までには、次々と加耶諸国(金官国・任那等)を滅ぼし倭国は重要な同盟国を失う事になりました。

「三国史記」の新羅本記に於ける倭国関係の記事は非常に多く百済本記の6倍以上の60ケ所程あり、新羅に“倭人が侵入、襲う”と言う様な記事が目につきますが、実際は新羅王領墳墓には新潟県糸魚川産の勾玉が金冠には装着されるなど、金官加羅の衰退後特に親しい関係を維持されたと思われます。

「任那」と韓国にある「前方後円墳」

任那については、1970年までの高校の教科書で教える日本史では「朝鮮半島南部は4世紀の中頃、大和朝廷の半島進出と共にその支配に入り、任那日本府が置かれ半島計画の基地となった」と書かれていました。これは「日本書紀」によると前述の佐堤比彦も「任那」に派遣されましたし、欽明朝になると任那関係の記事が多く見え、AD 541 (欽明2年)には「任那日本府」も現れます。しかしこれらは他の朝鮮や中国の史料や遺跡、遺物にも実態が無く、研究の進んだ現在では「日本書紀では加耶諸国を任那と呼んでいる」との説明だけになって居ます。当時倭国は任那と呼んだ加耶の国々と親しく度々加担して戦ったことは確かな事です。更に半島南端西側の「栄山江流域には日本の前方後円墳」が10基余り存在します。これは内容から見て九州地方の豪族によって築かれたものと思われますが、いずれも一代限りの墳墓、大和政権と関係のない前方後円墳と言う事、この栄山江流域と倭人との関係、などこれからの研究が待たれます。

対馬から韓国の釜山は50k程で肉眼でも釜山を見ることが出来ましたが、万葉の時代の朝鮮半島と倭国は人と文物の往来が最も活発な時代でした。

 遠(とお)つ人松浦(まつうら)佐用(さよ)姫(ひめ)夫(つま)恋(ごい)に領巾(ひれ)振りしより負える山の名

 日本三大悲恋物語は羽衣伝説、浦島伝説、そして佐用姫の物語との事です。万葉集の8首の歌では佐用姫が山の上に立たれたと言うのがあるだけで石になったと言う事は何処にも書かれておりませんでした。

それでは何時から佐用姫が石になったかと言うと、室町時代の連歌書や物語本からであると調べられています。もともと中国に夫を慕って死して石になった「望夫石」と言う有名な詩が中唐の王建にあり、日本でも平安末期にはこの故事が歌学書に紹介されているそうです。これらの事から後に佐用姫が石になった伝説が作られたと思われます。

さてこの恋の顛末・・

“英雄は死なず“と言いますが、福岡県東部にある行橋市の「豊田別別宮天八幡宮社務神家系・本姓大伴」家の家系は欽明3年(AD533年又はAD536年)頃から現在までずっと続いていて、この豊田別神宮最祖の

牟祢奈里(むねなり)は父が大伴佐手彦、母は佐用姫でその三男と言われます。万葉の時代には彼女は石にはなってはいず、佐堤比彦氏と佐用姫の間に少なくとも三男まで儲けていて、その家系が今日まで続いているとは何という信じ難い恋の顛末でしょう! 

(さでひこ、さてひこ、この名は万葉集では佐堤比彦、日本書紀では狭手彦、神官家系図では佐手彦と書かれています)   以上

 

 

 

 

 

 

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姉妹で九州の史跡を訪ねて 一日目

                  写真は福岡市の大宰府跡

・・・姉妹で九州の史跡を訪ねて・・・

  福岡空港から地下鉄45分位で最寄り駅「波多江駅」に着いた処、東京から早い時間に着いた妹と、小松空港からお昼に着いた私は博物館で待ち合わせ心算りが、ばったりこの駅で逢いびっくり!この博物館には土曜、日曜にはバスが3時間に1本しかないとの事で訪問者は専らタクシーです。

「伊都国歴史博物館」
  魏志倭人伝に「東南陸行五百里 至伊都國」と書かれている場所と推定している 福岡県小糸市の「伊都国歴史博物館」を訪ねました。博物館ではコロナ禍で何ケ月振りに再開したボランティアの解説がありましたがご丁寧な方で長い時間丁親切に説明して下さいり、3世紀の世界が少し身近になりました。
   魏志倭人伝は280年頃に書かれましたが、「景初2年」などの年号が出ているのは西暦238年の事で書かれた時から40〜50年ほど前の倭(日本)に関する一番古い記述と言われます。
  説明の方から教えて頂き 帰りのタクシ―で下記の二つの遺跡に寄りました。

「平原遺跡」
   写真の私が立って居るのは伊都国の王墓と考えられている墳墓遺跡でこの中心に木簡が埋葬されていたそうです。この1号墓を中心とした墳墓遺跡は、弥生時代終末期(約1800年前)に造られたもので、魏志倭人伝の記述の時期より150年程後の事です。
  副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されています。また、一つの墓から出土した銅鏡の枚数40枚も日本一で、伊都国王の墓にふさわしい内容を誇っています。此処から出土したもので国宝指定は、銅鏡 40面分、玉類 一括、鉄素環頭大刀 1口、ガラス小玉などです。                      

  この墓に葬られた人物は女王ではないかと考えられています。その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないこと、ネックレスやブレスレットなどの装身具(アクセサリー)が多いこと、イヤリングは女性のみに使われた事からです。魏志倭人伝の伊都国も女王の支配した国でした。

  銅鏡のなかには直径46.5センチメートルの内行花文鏡が5枚ありますが、これは日本最大の銅鏡で非常に貴重なものと言われました。この大型内行花文鏡の外周には、鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、宮中の八咫鏡と同じデザインや大きさになる事が注目されています。

「三雲南小路遺跡」
  次に「三雲南小路遺跡」に寄りました。此処は公園が隣接されコスモス畑も満開で、人々で賑わっていました。弥生時代中期の方形周溝墓で、ここから出た甕棺墓は直径1m×1.5mほどの1号2号と2つの甕棺の模型が博物館にありましたが、それは日本で最大の甕棺で此処も「王墓」と言われています。

  1号甕棺墓の副葬品は、銅剣 1、銅矛 2、銅戈 1、ガラス璧破片 8個以上、ガラス勾玉 3個、ガラス管玉 60個以上、銅鏡 31面以上、金銅製四葉座金具8個体分などです。この他にも鉄鏃 1、ガラス小玉 1が出土しています。

  2号甕棺内に内行花文鏡(日光鏡) 1面が元の位置のまま発見されました。直径6.5センチメートル、「見日之光天下大明」(日の光、見(まみ)えれば、天の下、大いに明らかなり)という銘文の青銅鏡です。
  副葬品は、銅鏡22面(星雲文鏡1、内行花文銘帯鏡4、重圏文銘帯鏡1、日光鏡16。)以上、ガラス玉、硬玉勾玉1個など沢山出土しました。
1号墓を「王」とすれば、 2号墓は「王妃」に当たるものと推定されています。

  (「内行花文鏡」は鏡背中央の鈕座の周りに、基本8つの連弧を内向きに一巡させ文様を有する鏡で日本では文様を花弁に見立て「内行花文鏡」と呼ばれています。中国で後漢代に盛行し、中国各地で出土する他、朝鮮の楽浪古墳や日本の弥生時代から古墳時代にかけても出土している国際色豊かな鏡と言えるでしょう。
  「日光鏡」とは、前漢鏡の一種で、銘帯に楔形体によって「見日之光天下大明」などの銘文を入れていることからこう呼ばれ、前漢中期に現れ、末期に盛んに作られました。日本では弥生中期後半から後期前半の甕棺の副葬品として出土し、年代を知る手がかりとなっています。)

   なお出土品の有柄銅剣熱田神宮に祀られている天叢雲剣との関係が指摘されているそうです。ですから同じ小糸市の平岡遺跡の「八咫鏡」と此処の遺跡からの「天叢雲剣」は何れも天皇家の三種の神器の2品です。

・・・ 帰りは妹と福岡の天神の東急ホテルに荷物を置いて中州に行き、美味しいお寿司にしようと言って40分ほども探しましたが日曜日は何処もお寿司が無くて、何と韓国料理になりました。これで福岡での一日目は終わりです。

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

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86歳になりました

       

blog を新しく致しました。

写真は5月の私の誕生日頃の庭です。

2年前迄は九谷美陶園のblog でしたが、今はフリーになりましたのでシニアの気楽な日常を気ままに書きたいと思います。

春は花も次々に咲きましたので、庭も綺麗でお客様とコーヒータイムを楽しみましたが、今年の暑い夏の後遺症で未だに秋の庭仕事は何もしていません。これからは出来るだけ多年草にして楽な庭にしていきたいものです。

GOTOトラベルを利用して これから北九州に史跡を訪ねる旅に妹と行き、その後、ツアーで白馬のホテルに滞在して、ぶなの原始林等のハイキングをします。

更に続いて軽井沢で弟の樹木葬(どんなのでしょう)が有り1泊で参ります。

願わくはお天気に恵まれます様に願いながら、今はそれぞれの旅行用品をパックしている所です。

 

 

 

 

 

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旅行者は桜に誘われて・・外国からも来られました。

桜に誘われて…器を買われました

今年の桜は急にパッと咲いて、もう盛りは過ぎましたが、こちらに来られた外国の方たちもあちこちで桜を楽しまれたようです。

私共は14日のニットカフェの集まり(福島に毛糸の膝掛を編んで送る会)の後で友人と大聖寺川沿いの桜を見に行きました。
この染井吉野は大木で豪華なお花見が出来たそうですが、現在は昔の大木を少し残しながら新しく若木を少しずつ入れて満開にしていました。
街の真ん中ですので夜のライトアップが素敵な所です。
その後町の外側の大聖寺川沿いの堤防では広々とした緑地をバックに両岸の桜もピンクの花々が沢山重なり合い見事な眺めを楽しみました。

 
桜を楽しまれた後、台湾からのご家族は私共に来られました。
ご夫妻はデザイン事務所のオーナーで20回も日本に来られたそうです。お嬢さんはイギリスで勉強をしている方で専らご両親の通訳をされました。
日本のどこがお好きかと伺うと、食べ物、買い物・・が一番のようです。

                             
                                   白梅文様八寸長皿                          梅文様八寸長皿                      
                 辺23×15×高3cm ¥4,320                     辺23×15×高3cm ¥4,320         

       
     水玉よろけ文様尺二細形楕円皿                       水玉文様尺二細形楕円皿                        小紋づくし文様九寸楕円菊鉢
        縦16×横35×高4cm ¥8,640                           縦16×横35×高4cm ¥8,640                           径21×25×高5.5cm ¥9,720
        

ご夫妻とも器もお好きで九谷美陶園では、長さ35cm程の長皿などご夫妻でお求め下さいました。
これにお魚料理などはどうかしらと話し合っておられました。鯉の姿揚げなども美味しいでしょうね。
アジアの方々はお料理を楽しまれるのが素晴らしい文化と思います。

九谷美陶園の器は明るくて桜のようで、活き活きして好きなのだそうです。
他のお客様は、ここは観光地なのですが、九谷美陶園がメーカーでお土産屋でないのが良かったと言われました。

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九谷美陶園近くの美味しいお寿司

大好きな美味しいお寿司の店

山代でお勧めのお寿司屋は「亀寿司さん」、九谷美陶園から歩いて7分位

町中の旅館からも歩いて行ける場所にあります。

ミッシェランのビルグルマンに選ばれているこのお寿司屋では、穏やかな笑顔の

主人の握る中トロはいつも丁度の美味しさ。山本長左さんの鉢にはたっぷりのお刺身。

それから最後のお寿司までの美味しさは、誰でもまた行きたくなる有名なお店です。

お昼は予約のみですが、出来れば色々お料理が出る夜がお勧めです。

九谷美陶園の楽しい器も沢山使って頂いております。

写真は九谷美陶園の7寸角皿に盛られるお寿司。

7寸角皿は同じ柄の小皿も付いて7種類あります。

 

 お昼のお寿司は「一貫」が一番です。

山代温泉から車で10分位小松寄りにあるコンクリート打ち放しの素敵なお店です。

「一貫」という看板は、陶芸家の須田菁華氏の字ですし、中村究月氏の土物の大皿に

一貫ずつのお寿司が置かれます。

殆どカウンター席なので、お料理は次々と目の前できれいに作られるのが見られます。

お寿司はお醤油を付けるのはなくて、それぞれ味が付けていて美味しい。

カイワレの昆布締めはこのお店独特で最後の口直しに頂きます。

写真は、1切れずつの8種類の盛り合わせの一品。5400円のコースの一品。

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「海賊と呼ばれた男」と九谷焼

「海賊と呼ばれた男」と九谷美陶園 

 石油の出光興産の創業者・出光佐三氏は,美術一般にも造詣が深くその収集によって、出光美術館を作られました。皇居を一望できる場所にありますが、中でも九谷焼の大コレクターでもありました。  

  その佐三氏が、九谷美陶園に来られて出光美術館所蔵の吉田屋の「菊桐文様の大鉢の写し」を記念品として沢山ご注文して下さいました。当時の社長(義父)は大層光栄に思い、日展や伝統工芸展に出品しております甥の山岸雄三に”その写しを”描かせました。   1965年の出光興産25周年の記念品ではなかったかと思います。 

   九谷美陶園では佐三氏の同意を得て、現在も同じ描き手によって当時と同じ価格で販売いたしております。吉田屋展が東京から全国数か所で催された時、 九谷焼美術館では出光美術館所蔵の本歌と一緒に上記の出光佐三氏から依頼され、九谷美陶園が作りました「菊桐文様大鉢の写し」も並べて展示されました。 亡夫も出光氏と同じ現在の神戸大学の同窓でしたので佐三氏を一層親しみ深く思っておりました。写真は九谷美陶園で販売している 「菊桐尺二飾皿」¥216,000

 「海賊と呼ばれた男」の映画は出光佐三氏が世界に報じられた盛挙を取り上げております。れは、日本は第二次世界大戦後、イギリスやアメリカなどの連合国による占領終了の後も、石油を自由に輸入することが出来なかったのですが、英国海軍がイランから輸出される石油のタンカーの拿捕を行っているなか、佐三氏はイランの石油を自社のタンカーに満載して無事、包囲をとっぱして日本に石油を持ち帰ったことでした。

 私は子供でしたが、このことは新聞の一面に大きく何度も出て、家族でも大変な話題になった事を思い出します。この事は世界中のマスメディアでは、日本において武装を持たない一民間企業が、イギリス海軍に「対抗した事件」として報道されたそうです。

「海賊と呼ばれた男」の映画は岡田准一が中年から老年に至るまでのメイキャップもとても本物らしく、演技も上手でしたし内容も優れて良い映画でした。                   

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