89歳の日々

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姉妹で九州の史跡を訪ねて 二日目

2020-11-08 12:00:00 | 国内旅行

唐津の名護屋城址(私の城址NO.1でした) 

「名古屋城址」

福岡のホテルから1時間半ほどの唐津に向かい、妹の提案で名古屋城址に行きました。立派な博物館が有りましたが残念ながら月曜日で休館、全く残念でした! 

  広い城址には、崩れた石垣や鬱蒼とした樹々が在りし日の栄華を思い出させます。この城址跡は、私の今まで見た城址の中のNO.1の素晴らしい処でした。

 此処は秀吉が朝鮮侵略(文禄、慶長の役1952~1598年)軍事拠点で金箔瓦を葺いた5重7階の天守をはじめ全国の諸大名の陣屋は城下町の様な様相で、秀吉好みの能、茶会、芝居が毎日の様に華々しく行われたそうです。秀吉も長く滞在しましたが、出兵した各大名や兵士の悲惨な事態を引き起こし、豊臣政権の崩壊を招きました。

「佐保姫像」新羅に出兵した恋人に領巾を振っている

「鏡山」                                                

唐津には万葉集に、山上憶良も歌っている「佐用姫伝説の鏡山」と言うのが有り、私も万葉の会で丁度その処を読んだばかりでしたので唐津の「鏡山」に行きました。日本の三大悲劇は羽衣伝説、竹取物語と、この佐保姫物語との事です。

  この日の文の最後に「万葉集の佐保姫伝説」に就いて私なりに調べた事を付記しましたので、万一ご興味のある方はお読みください。(お陰で、口語訳ですが「日本書紀」等々初めて拾い読みしました。)

  鏡山から唐津駅へ戻って、バスの待ち時間が有ったので「近くて美味しいお寿司屋を」聞きましたら、駅の案内の女性がアメリカ人で彼女の推薦のお店に行きました。そこで逢った常連のお客様も「ここが一番です」と言われましたが、お魚が余りに新鮮過ぎて硬くて厚切りなので、これはお寿司ではなくお刺身にした方が良い様でした。

「洋々閣」
 「城跡」や「鏡山」を見終わってやっとバスに乗り唐津駅に帰りました。予約しておいた「洋々閣」に行く時に、タクシーの運転手さんに途中で見られる古くからの和風旅館を教えてもらいましたら、2軒ほど大きくて立派な宿の傍を通って下さいました。

  此の町は当時日本の基幹産業の炭鉱に近く明治、大正時代に有名な財閥の方々が炭鉱に来られた時にこの唐津の温泉旅館で豪遊されたので、立派な旅館が残って居るそうです。

 「洋洋閣」もその一つかと思いますが、私個人は以前夫と泊まったことが有るので懐かしく思いました。私共は九谷焼の窯元ですので、この宿には唐津で有名な中里隆氏のギャラリーが併設されているので選び、夫と中里隆氏の窯元にも訪れました。宿には、以前よりもっと多くの中里一家の作品が並べられておりました。

 思いがけずその20年ほど前頃?にお目に掛った奥様に廊下でお会いし少しお話も出来て嬉しく思いました。庭好きの私共姉妹は、部屋から下駄をはいて、危なかっしい足元で美しい松の庭を歩きました。温泉の湯殿も黒曜石と木で設えられ気持ちよく懐かしい宿でした。これで二日目は終わりです。

 

万葉集・恋の顛末 ―松浦佐用姫と大伴佐堤比彦ー             

万代に語り継げとしこの嶽(たけ)に 領巾(ひれ)振りけらし松浦(まつら)佐用(さよ)姫(ひめ)

新羅に船で出兵した恋人佐堤比彦(さでひこ)との別れを惜しんだ佐用(さよ)姫(ひめ)は上記の様に丘の上で7日も領巾を振って悲しんだと歌われ万葉集では佐用姫について憶良などの8首が有ります。佐用姫伝説等では彼女は悲しみのあまり石になったと言われ、その後も沢山の歌が作られ謡曲や軍記物などにも取り上げられ現在も唐津市の鏡山は歌の名所で有名です。  

 佐用姫の恋人のその後は?

その恋人の大伴佐堤比彦についてはほとんど知られていませんが、720年完成の日本最古の正史「日本書紀」に“AD537年冬10月、天皇は新羅が任那に害を加ええるので大伴金村連に命じてその子狭手彦を使わして任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮め又百済を救った。更にAD562年8月天皇は大将軍大伴連佐手彦を遣わし数万の兵をもって高麗(高句麗の事)を討たせた。佐手彦はこれを撃破し沢山の武器、珍宝を得、美女二人を蘇我稲目に贈った“等との佐堤比彦の華々しい戦果の記録があります。これは氏族伝承を原資料とした説話的記事と言われ「日本書紀」に記されている様々な出来事は、今では史実としては引用されないものが多いようです。

半島は三国時代時代でした

当時半島では「高句麗、新羅、百済の三国」の他に南に加耶諸国(金官国等)が有りました。倭国は古代から百済とは特別に深い関係が有ったと思われ石上神宮に納められている「七支刀」には、百済王の世子が倭王のために作らせたと言う由緒と、我が国の歴史における最初の絶対年代(泰和4年)AD369年が刻まれております。その後も百済は武寧王のAD512年以来、倭国と積極的な外交を行いAD553年までに五教博士が何度も交代で貢上され、その後も易、暦、医博士等大変高度な知識人を派遣して、これらが倭国の国政に果たした役割は大きいと言われます。

佐堤比彦が出兵したと言う少し前のAD527年に、倭国が新羅から金官国を守ろうとした継体朝の進軍に対して北九州の磐井が阻止し、いわゆる「磐井の乱」を起こしています。

AD532年には新羅による金官王国殲滅と言う事件があり「三国史記」の新羅本記に“金官国国王一族が国庫の宝物を携えて(新羅)に来降した。”と書かれております。新羅は半島南端まで進出しAD562年までには、次々と加耶諸国(金官国・任那等)を滅ぼし倭国は重要な同盟国を失う事になりました。

「三国史記」の新羅本記に於ける倭国関係の記事は非常に多く百済本記の6倍以上の60ケ所程あり、新羅に“倭人が侵入、襲う”と言う様な記事が目につきますが、実際は新羅王領墳墓には新潟県糸魚川産の勾玉が金冠には装着されるなど、金官加羅の衰退後特に親しい関係を維持されたと思われます。

「任那」と韓国にある「前方後円墳」

任那については、1970年までの高校の教科書で教える日本史では「朝鮮半島南部は4世紀の中頃、大和朝廷の半島進出と共にその支配に入り、任那日本府が置かれ半島計画の基地となった」と書かれていました。これは「日本書紀」によると前述の佐堤比彦も「任那」に派遣されましたし、欽明朝になると任那関係の記事が多く見え、AD 541 (欽明2年)には「任那日本府」も現れます。しかしこれらは他の朝鮮や中国の史料や遺跡、遺物にも実態が無く、研究の進んだ現在では「日本書紀では加耶諸国を任那と呼んでいる」との説明だけになって居ます。当時倭国は任那と呼んだ加耶の国々と親しく度々加担して戦ったことは確かな事です。更に半島南端西側の「栄山江流域には日本の前方後円墳」が10基余り存在します。これは内容から見て九州地方の豪族によって築かれたものと思われますが、いずれも一代限りの墳墓、大和政権と関係のない前方後円墳と言う事、この栄山江流域と倭人との関係、などこれからの研究が待たれます。

対馬から韓国の釜山は50k程で肉眼でも釜山を見ることが出来ましたが、万葉の時代の朝鮮半島と倭国は人と文物の往来が最も活発な時代でした。

 遠(とお)つ人松浦(まつうら)佐用(さよ)姫(ひめ)夫(つま)恋(ごい)に領巾(ひれ)振りしより負える山の名

 日本三大悲恋物語は羽衣伝説、浦島伝説、そして佐用姫の物語との事です。万葉集の8首の歌では佐用姫が山の上に立たれたと言うのがあるだけで石になったと言う事は何処にも書かれておりませんでした。

それでは何時から佐用姫が石になったかと言うと、室町時代の連歌書や物語本からであると調べられています。もともと中国に夫を慕って死して石になった「望夫石」と言う有名な詩が中唐の王建にあり、日本でも平安末期にはこの故事が歌学書に紹介されているそうです。これらの事から後に佐用姫が石になった伝説が作られたと思われます。

さてこの恋の顛末・・

“英雄は死なず“と言いますが、福岡県東部にある行橋市の「豊田別別宮天八幡宮社務神家系・本姓大伴」家の家系は欽明3年(AD533年又はAD536年)頃から現在までずっと続いていて、この豊田別神宮最祖の

牟祢奈里(むねなり)は父が大伴佐手彦、母は佐用姫でその三男と言われます。万葉の時代には彼女は石にはなってはいず、佐堤比彦氏と佐用姫の間に少なくとも三男まで儲けていて、その家系が今日まで続いているとは何という信じ難い恋の顛末でしょう! 

(さでひこ、さてひこ、この名は万葉集では佐堤比彦、日本書紀では狭手彦、神官家系図では佐手彦と書かれています)   以上

 

 

 

 

 

 


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