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万葉集を読む:  「万葉の恋:中臣宅守と狭野茅上娘子」

2023-02-20 10:21:40 | 万葉集

                      
   福井県越前市味真野に在る万葉館での二人の和紙人形

       万葉の恋:中臣宅守と狭野茅上娘子

情熱的な恋の歌に魅かれ万葉集に興味を持たれた人も多いのではないでしょうか。万葉の中でも、中臣宅守が越前に流罪され、妻の狭野茅上娘子との離別の間に交わされた63首の熱烈な恋の歌が有名です。

相聞歌

あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし (15-3723狭野茅上娘子)

(辛い山道を越えて行こうとするあなたの姿をずっと心に持ち抱えたままで、私は安らかな気持ちになる時はありません)

君が行く 道の長手を繰りたたね 焼き滅ぼさむ 天の日もがも (15-3724狭野茅上娘子)

   (あなたが行く長い長い道を、手繰って畳み焼きほろぼしてしまう天の火が欲しいのです)

我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたもうな(15-3774 狭野茅上娘子)m

 (あなたが帰って来られる時のために命を残しておきましょう。お忘れにならないで下さい)

塵(ちり)泥(ひじ)の 数にもあらぬ我ゆえに 思い侘ぶらう 妹がかなしさ (15-3727中臣宅守)

 (塵や泥のようにつまらない、物の数にも入らない私にために辛い思いをしているあなたが愛しい)

吾妹子に恋ふるに吾はたまきはる短き命も惜しけくもなし(15-3744中臣宅守)

 (私の妻を恋するためには、この短い尊い命も惜しいことはない)

命あらば逢うこともあらむ吾がゆえにはだな思いそ命だに経ば(15-3745 狭野茅上娘子)

 (命さえあれば再びお逢いすることも出来るでしょう。私のためにひどく思い煩わないで下さい。命さえ続いていましたら)

逢わむ日を その日と知らず常闇に いずれの日まで 吾恋ひ居らむ (15-3742中臣宅守) 

(ふたたび逢う日を何時とも知らず、永遠の闇の中の様な真っ暗な気持ちで私はいつまで恋に苦しんでいるのだろうか)

帰りける 人来たれりと言いしかば ほとほと死にき 君かと思いて (15—3772狭野茅上娘子)

 (赦免されて帰った人が都に着いたと伝え聞いて、あまりの嬉しさに死にそうでした。貴方かと思って)

万葉集15巻の目録

この様にお互いに命をかける程の情熱的な恋は1300年後の今日に至っても人の心に強い感動を与えておりますが、彼らに就いての唯一の文献は万葉集15巻の始めの目録に依り、下記のように書かれています。

  「中臣朝臣宅守の蔵部の女嬬(にょじゅ)狭野茅上娘子を娶る時、勅して流罪に断じて越前国に配す。ここに夫婦別れることの易く、会うことの難きを相嘆き、各々慟(いた)む情を陳べて贈答する歌63首」

この15巻の特色として歌の前に目録が書かれていてその目録の詳細さが特徴として挙げられています。本文より詳しい中臣宅守の配流についてもこの目録によって初めて知らされ、目録と本文が同時に作られたとする諸学者の説はこの15巻を根拠にしております。

中臣宅守について

先ず中臣宅守の歌に「塵や泥のように物の数でもない私」とありますので、彼の身分が低かったのではないかと思われました。

しかし中臣宅守の祖父の中臣意美麻呂は藤原鎌足の娘を娶った婿養子で、鎌足の実子の藤原不比等が成人するまで藤原氏の首長で、位も正四位上・中納言でした。宅守の父の中臣東人は従四位下で母は藤原鎌足の娘の子でした。宅守は父・中臣東人の7男に生まれましたが、祖父も父も貴族で昇殿を許された殿上人でした。更に中臣宅守の叔父の中臣清麻呂は万葉歌人で右大臣でもありました。

中臣宅守自身は740年に一時越前国に配流された事もありましたが、その23年後の763年には従5位下に序されています。従5位以上は昇殿を許されている中級貴族で比較的大きな国守(現在の知事)にもなれる高級な地位でした。宅守は祖父からの家柄も官位も非常に高く、彼自身も昇殿も許される殿上人の貴族と言う相当な高位に登った人でした。

狭野茅上娘子について
狭野茅上娘子は万葉集の目録に依れば「蔵部の女嬬(にょじゅ)」との記録が有るのみですが、女嬬は宮中の女官に依って構成される内侍司に属し、上から尚(ないしの)侍(かみ)2名、典(ないしの)侍(すけ)4名、掌(ないしの)侍(じょう)4名、その一番下に女嬬が100名となっていました。蔵部(後宮十二司の蔵司かと思われる)は大蔵省の下級職員で出納を行う人達です。彼女は大蔵省の出納を行う役所で掃除や照明を灯す等の雑事をする下級女官だったと思われます。娘子の生没年齢も分かりません。

配流の理由
人の事が分かる唯一の文献の目録に「娶る時、勅して流罪に断じて越前国に配す・・ここに夫婦別れる・・」とあります。これによると「彼らは夫婦であったが結婚するときに流罪にされた」様です。配流の原因は確かではなく、ある説には安守が禁忌を犯して彼女を娶ったためとか又は、政情に絡むのではないかと推測したり、宅守の重婚罪としたりする色々な説がありますが、いずれにせよ配流の正確な理由は分かっていません。

配流地へのルート
流罪地へは平城京から越前までは北に向かって奈良山を越えて山城の国に入り更に逢坂山を越えて近江の国にから琵琶湖の西側を進み琵琶湖の北にある愛発山(あらちやま)を越えて北上し越前国に入るルートを取ったものと思われています。愛発山には古代3関の一つ愛発関があり超えるのには難儀なところでした。

味(あじ)真野(まの)に 宿れる君が帰り来む時の迎えを 何時とか待たむ (15—3770)狭野茅上娘子

この歌に依って宅守の流刑地は味真野で、現在の越前市味真野とされ、奈良からここまでは200キロ弱の距離でした。味真野には飛鳥時代からの野々宮寺院跡の遺跡から東大寺などの瓦によく似た瓦が出土しています。宅守はこの様な所に配流されていたのではないかと考えられます。

 配流の期間
740年(天平12年)6月の大赦には「赦の限りにあらず」と許されませんでしたので、罪されたのはその前年739年2月の大赦以後であったと思われ、741年の大赦で帰京したものと推測されています。そうであれば約2年間前後の配流期間かと思われます。

その宅守
宅守はその20年程後の763年には従五位下に叙せられ殿上人の貴族の地位を与えられています。然し翌年764年には藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に連座して除名されたと「中臣氏系図」にあります。

藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱
764年,藤原仲麻呂(恵美押勝)が道鏡を除こうとして起こした反乱。仲麻呂の
庇護者であった光明皇太后の没後,その権力は衰え仲麻呂の擁立した淳仁天皇と、道鏡を寵愛した孝謙上皇の不和を契機として,仲麻呂が権勢挽回をはかって道鏡を除こうと挙兵しました。しかし仲麻呂は近江で敗死し鎮圧されました。この乱後淳仁天皇は淡路島に幽閉され、孝謙上皇は称徳天皇と重祚しました。

晩年の中臣宅守
従5位の高官である宅守がこの藤原仲麻呂の乱に参加したのは決断力も強かった様に思いますが764年の「除名」は重罪の官人から位勲のすべてを剥奪する重い刑なので、中臣宅守は晩年には無位無官になりました。宅守の生没年齢は不詳ですが、除名された時の年齢は例えば彼が結婚した時が25歳位でしたら50歳位で、30歳で結婚したなら55歳位になります。

中臣氏系図に依れば宅守の家族は、妻が狭野茅上娘子、子供は女の子と、男子の中臣真広 が居りました。祖父の中臣意美麻呂は妻が7人ですが、さすがに宅守の妻は身分違いでしたが最愛の狭野茅上娘子だけでした。                           以上                                                                                                                   2023年2月20日   寺前みつ子

 

 

 

 

 

 

 

 



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