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万葉集を読む:  恋の顛末「佐用姫と佐堤比彦」

2023-07-06 11:26:59 | 万葉集

写真は唐津市の鏡山にある「佐用姫の像」

万葉集を読む:  恋の顛末「佐用姫と佐堤比彦」


万代に語り継げとしこの嶽(たけ)に 領巾(ひれ)振りけらし松浦(まつら)佐用(さよ)姫(ひめ)
新羅に船で出兵した恋人佐堤比彦(さでひこ)との別れを惜しんだ佐用姫は上記の様に丘の上で七日も領巾を振って悲しんだと歌われ万葉集では佐用姫については山上憶良などの八首が有ります。佐用姫伝説等では彼女は悲しみのあまり石になったと言われ、その後も沢山の歌が作られ謡曲や軍記物などにも取り上げられ現在も唐津市の鏡山は歌の名所で有名です。  
佐用姫の恋人のその後は?
その恋人の大伴佐堤比彦についてはほとんど知られていませんが、七二〇年完成の日本最古の正史「日本書紀」に“五三七年冬十月、天皇は新羅が任那に害を加ええるので大伴金村連に命じてその子狭手彦を使わして任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮め又百済を救った。更に五六二年八月天皇は、大将軍大伴連狭手彦を遣わし数万の兵をもって高麗(高句麗の事)を討たせた。狭手彦はこれを撃破し沢山の武器、珍宝を得、美女二人を蘇我稲目に贈った“等との記事があります。これらは氏族伝承を原資料とした説話的物語と言われます。
百済とは古代から特別に深い関係が有ったと思われ石上神宮に納められている「七支刀」には、百済王の世子が倭王のために作らせたと言う由緒と、我が国の歴史における最初の絶対年代(泰和四年)三六九年が刻まれております。
佐堤比彦が出兵した以前の五二七年には、倭国が新羅から金官国を守ろうとした継体朝の進軍に対して北九州の磐井が阻止し、いわゆる「磐井の乱」を起こしています。
当時半島では、高句麗、新羅、百済の三国の他に加耶諸国が存在しましたが、新羅は五六二年までに次々と加耶諸国(金官国・任那等)を滅ぼし、倭国は重要な同盟国も失いました。
対馬から韓国の釜山は五十㎞程で肉眼でも見える距離にありますし、万葉の時代の朝鮮半島と倭国は人と文物の往来が最も活発な時代でした。
遠(とお)つ人松浦(まつら)佐用(さよ)姫(ひめ)夫(つま)恋(ごい)に領巾(ひれ)振りしより負える山の名
 日本三大悲恋物語は羽衣伝説、浦島伝説、そして佐用姫の物語との事です。万葉集の八首の歌では佐用姫が石になったと言う事は何処にも書かれておりませんでした。
それでは何時から佐用姫が石になったかと言うと、室町時代の連歌書や物語本からであると調べられています。もともと中国に夫を慕って死して石になった「望夫石」と言う有名な詩が中唐の王建にあり、日本でも平安末期にはこの故事が歌学書で紹介されているそうです。これらから後に佐用姫が石になった伝説が作られたと思われます。
さてこの恋の行方は・・
“英雄は死なず“と言いますが、福岡県東部にある行橋市の「豊田別別宮天八幡宮社務神家系・本姓大伴」家の家系は欽明三年(五三三年又は五四二年)頃から現在までずっと続いていて、この豊田別神宮最祖の牟祢奈里(むねなり)は父が大伴佐手彦、母は佐用姫でその三男と言われます。万葉の時代には彼女は石にはなってはいず、佐堤比彦氏と佐用姫の間に少なくとも三男まで儲けていて、その家系が今日まで続いているとは何という信じ難い恋の顛末でしょう!
(万葉集では佐堤比彦、日本書紀では狭手彦及、神官家系図では佐手彦と書かれています)






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