若山弦藏さんという名前、ご存知でしょうか。
恥ずかしながら知りませんでした。
現在78歳、声優さんの草分けと言ってもいいかも知れませんね。
007シリーズの主人公、ショーンコネリーさんの吹き替えの声を担当されました。
危機にあっても全く取り乱さない、落ち着いたその低い声が、なんとも頼もしく印象的でした。
以下は、『致知』(http://www.chichi.co.jp/)の記事、
「コンプレックスを力に」からの転記です。
──────────────────────────────────────
「コンプレックスを力に」 若山弦藏
……………………………………………………………………………………
声優の道を歩み始めて五十年近くになる。
昭和三十二年に札幌から上京。
NHKのラジオドラマで主役に起用されたのを皮切りに、
『スパイ大作戦』『007』シリーズなど、
海外の人気作品の吹き替えを数多く手がけてきた。
いまもレギュラー番組を持ち、第一線で仕事を続けている。
声優というからには、さぞかし声に自信があるのだろう、
と思われるかもしれない。
しかし私は、自分の声をいまだに
いい声だとは思っていないし、
この声には若いころからずっと
コンプレックスを抱き続けてきたのである。
私の独特の低い声は、小学生のときに
声変わりをして以来のもの、である。
しゃべるたびに変な声だと笑われて
自閉症ぎみになり、いつも独りで本を読んだり
レコードを聴いたりして、孤独な思春期を送った。
高校二年生のときである。音楽の授業で、
一人ずつ前へ出て課題曲の『浜辺の歌』を
歌わされることになった。
私の番になると、級友の間からクスクスと笑い声が起こり、
歌が終わるころには教室中が笑いに包まれていた。
しかし、先生は私にこういってくれたのである。
「あなたはいま、他の人より一オクターブ下で歌ったんです。
あなたのような声を本当のバスというんです。
日本人にはとても珍しい種類の声だから、大切にしなさい」
それまでずっと、自分の声に悩んできただけに、
その先生の言葉は強く印象に残った。
そして、何とかこの声を生かす道はないか、
と私は模索し始めた。
たまたまNHKの朗読放送研究会が会員を募集していることを知り、
清水の舞台から飛び降りる思いで受験に行った。
後から聞いた話だが、四人の審査員のうち三人までが、
「こんなマイクに乗らない変な声は
使いものにならない」
といっていたらしい。
しかし一人だけ、これからは多彩な人材が必要に
なるから、といってくださる方がいて、
何とか採用されることになったという。
研究会に通ううちに、私は声優という仕事に夢中になり、
高校卒業後は、地元札幌のNHK放送劇団に入った。
しかし、もらえる役は老け役、悪役ばかり。
周囲からは「お前の声は主役の声じゃない」などと、
なかなかよい評価はもらえなかった。
それでもくじけなかったのは、指導を受けていた先生から、
「俺は二流の役者を育てに来たんじゃない。
お前らは必ず一流になれ」
と繰り返しいわれ続けていたからである。
それがいつの間にか、自分自身の信念となっていた。
私は、声楽のレッスンで声に磨きをかけつつ、
この仕事で身を立てるなら、やはり東京に出なければ、
と考え始めた。
とはいっても、特別当てがあったわけではない。
まさに背水の陣を敷いての上京であった。
幸いにも、フランク永井や石原裕次郎の歌のヒットで
低音ブームの時期に当たり、私の声も
ついに認められるところとなったのである。
意識したことはなかったが、振り返ってみると、
今日までレギュラー番組の仕事が途絶えたことは一度もない。
上京したときから常に、
「今日しくじったら明日の仕事はない」と
自らにいい聞かせ、常に真剣勝負で仕事に臨んできたことが
よかったのだと思う。
この気持ちを持続させるため、
私は二つの課題をつくって自分を律し続けてきた。
一つは絶対に遅刻しないこと。
もう一つはNGを出さないことであった。
前者はともかく、後者はかなり厳しい課題であった。
吹き替えの仕事の場合、途中で何度も
やり直しがきくいまと違って、
当時はいったん録音が始まれば、
十分から十五分のロールが終わるまで、
途中でNGが出るたびにもう一度最初に戻って
やり直すしがなかったからである。
加えて、台本のできも仕事場の環境もひどいものだった。
それでもNGを出さないためとにかく神経を研ぎ澄ま
し、集中して取り組む以外に方法はない。
常にその姿勢で仕事を続けていくうちに、
「弦さんはトチらない」という評判が定着していった。
もっと気楽にやれば、といわれることもあった。
しかし私は、自分で決めた課題を、
何が何でもやり通さなければ気が済まなかった。
それは私の性分でもあるが、
やはり自分の声にコンプレックスを持っていたことが
大きいと思う。
いまでは、コンプレックスを背負ってきたことが、
逆によかったのではないかとさえ思えるのである。
生まれつきの美声で楽々と仕事のできる同業者も多いなかで、
私はまず、この変な声を磨き上げることに
大きなエネルギーを費やさねばならなかった。
ハンディを克服する努力を怠りなく積み重ねてきたからこそ、
今日まで第一線で活躍することができたと思うのである。
先日アメリカで、ラジオの人気番組を長年やってきた
八十二歳のパーソナリティーが、
契約金百億円で向こう十年間の専属契約を結んだ
という話を聞き、いたく感銘を受けた。
私もまだまだ負けるわけにはいかない。
これからは、吉川英治などの長編の朗読や、
後継者の育成などにも取り組んでゆきたい。
そして仕事を通じて、最近とみにひどくなった
日本語の乱れを正してゆけたら、と思っている。
若山弦藏という一人の人間が、
残りの人生で後世になにがしかのものを
残すことができれば、望外の喜びである。
…………………………………………………………………………………………………
コンプレックス、それは、出来れば自分の中でそっとしておいて、人には見せたくないものですね。
しかし、若山さんは、“しゃべるたびに変な声だと笑われた”、最も大きなコンプレックスである自分の声を、最大の強みに変えて行きます。
“あなたのような声を本当のバスというんです。
日本人にはとても珍しい種類の声だから、大切にしなさい”
笑いに包まれていた教室で聞いた、音楽の先生の言葉は、若山さんの人生を変えました。
でも、その先生の言葉で人生を変えたのは、やっぱり若山さんご本人だったのでしょう。
“清水の舞台から飛び降りる思いで” NHKの朗読放送研究会の受験に行ったのですから。
そんな気持ちは、神様にも届くのかも知れません。
“四人の審査員のうち三人までが、
「こんなマイクに乗らない変な声は使いものにならない」
といっていた”中で、
“これからは多彩な人材が必要になるから”と言ってくださる方が一人いらしたお陰で、
そこから、若山さんの未来が開けていくのですから。
“指導を受けていた先生からの言葉、
「俺は二流の役者を育てに来たんじゃない。
お前らは必ず一流になれ」
と繰り返しいわれ続けていたからである。
それがいつの間にか、自分自身の信念となっていた。”
若山さんは、人生の大切な局面で、本当に素晴らしい先生に巡り合っていらっしゃいますね。
でも、このような素晴らしい出会いをすることが出来るのは、本当は若山さんのような特別な方だけではないのかも知れません。
人は、だれでも同じように素晴らしい言葉を頂いたり、素晴らしい出会いをしているのかも知れません。
それを自分の人生の中で大きく活かすことが出来たのは、やはり若山さんの受け止め方、そして、行動だったのではないでしょうか。
このお話の中に3人の先生のことが出てくるということ自体、そこに若山さんの先生方に対する気持ちを見る思いがします。
今は、会ってもいないアメリカの八十二歳の現役パーソナリティーの方が先生ですね。
“もっと気楽にやれば、といわれることもあった。
しかし私は、自分で決めた課題を、
何が何でもやり通さなければ気が済まなかった。
それは私の性分でもあるが、
やはり自分の声にコンプレックスを持っていたことが
大きいと思う。
いまでは、コンプレックスを背負ってきたことが、
逆によかったのではないかとさえ思えるのである。”
コンプレックスを力に変えた、素晴らしい言葉だと思います。