"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“西村滋さんとお母さん”

2011-06-16 05:37:02 | 日記

西村滋さんの東京空襲時、その強烈な体験については、先月の日記でも紹介させて頂きました。

http://blog.goo.ne.jp/tera-3/e/3c793ac5f79128a785883d1e4318f704

 

 

同じく『致知』(http://www.chichi.co.jp/i/outline01.html)からお送り頂いたメールから、西村さん幼少時のお母さんとのエピソードを転記させて頂きます。

 

西村さんのプロフィールです。

http://www.chichi.co.jp/i/event2011/i-nishimura0618.html

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。

殊に母親の溺愛は、近所の物笑いの種になるほどだった。

 

その母が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。

そこに籠もったのである。結核を病んだのだった。

 

近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。

 

しかし母親は一変していた。

 

少年を見ると、ありったけの罵声を浴びた。

コップ、お盆、手鏡と手当り次第に投げつける。

 

青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。

 

少年は次第に母を憎悪するようになった。悲しみに彩られた憎悪だった。

 

少年6歳の誕生日に母は逝った。

 

「お母さんにお花を」

と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい

決して柩の中を見ようとはしなかった。

 

父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。

だが、だめだった。父と義母の間に子どもが生まれ、少年はのけ者になる。

 

少年が9歳になって程なく、父が亡くなった。

やはり結核だった。

そのころから少年の家出が始まる……

 

13歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。

もういっぱしの「札付き」だった。

 

ある日、少年に奇跡の面会者が現れた。

泣いて少年に柩の中の母を見せようとした、あの家政婦のオバサンだった。

 

オバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。

 

「私はまもなく死にます。あの子は母を失うのです。

幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。

 

憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいいのです。

そうした方があの子は幸せになれるのです」

 

少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。

涙がとめどもなくこぼれ落ちた。

札付きが立ち直ったのはそれからである。

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

“両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた”西村少年。

 

“近所の物笑いの種になるほどだった”お母さんの愛情、

 

 

なのに、

 

 

 “幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるから”・・・

 

“新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいい”

 

 

という思いで・・・

 

 

 

“母恋しさから、お母さんに近寄らずにはいられなかった”幼い西村さんに、

 

 

“ありったけの罵声を浴びせ、

 

コップ、お盆、手鏡と手当り次第に投げつけた”

 

 

 

その時の少年の気持ち、そしてお母さんの気持ち、とは一体どんなものだったのでしょうか。

 

 

そのことを考えると、胸が詰まります。

 

 

後年、西村さんが真実を知ることが出来て、本当に良かったと思います。