西村滋さんの東京空襲時、その強烈な体験については、先月の日記でも紹介させて頂きました。
http://blog.goo.ne.jp/tera-3/e/3c793ac5f79128a785883d1e4318f704
同じく『致知』(http://www.chichi.co.jp/i/outline01.html)からお送り頂いたメールから、西村さん幼少時のお母さんとのエピソードを転記させて頂きます。
西村さんのプロフィールです。
http://www.chichi.co.jp/i/event2011/i-nishimura0618.html
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少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。
殊に母親の溺愛は、近所の物笑いの種になるほどだった。
その母が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。
そこに籠もったのである。結核を病んだのだった。
近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。
しかし母親は一変していた。
少年を見ると、ありったけの罵声を浴びた。
コップ、お盆、手鏡と手当り次第に投げつける。
青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。
少年は次第に母を憎悪するようになった。悲しみに彩られた憎悪だった。
少年6歳の誕生日に母は逝った。
「お母さんにお花を」
と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい
決して柩の中を見ようとはしなかった。
父は再婚した。少年は新しい母に愛されようとした。
だが、だめだった。父と義母の間に子どもが生まれ、少年はのけ者になる。
少年が9歳になって程なく、父が亡くなった。
やはり結核だった。
そのころから少年の家出が始まる……
13歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。
もういっぱしの「札付き」だった。
ある日、少年に奇跡の面会者が現れた。
泣いて少年に柩の中の母を見せようとした、あの家政婦のオバサンだった。
オバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。死の床で母はオバサンに言ったのだ。
「私はまもなく死にます。あの子は母を失うのです。
幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。
憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいいのです。
そうした方があの子は幸せになれるのです」
少年は話を聞いて呆然とした。自分はこんなに愛されていたのか。
涙がとめどもなくこぼれ落ちた。
札付きが立ち直ったのはそれからである。
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“両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた”西村少年。
“近所の物笑いの種になるほどだった”お母さんの愛情、
なのに、
“幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるから”・・・
“新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいい”
という思いで・・・
“母恋しさから、お母さんに近寄らずにはいられなかった”幼い西村さんに、
“ありったけの罵声を浴びせ、
コップ、お盆、手鏡と手当り次第に投げつけた”
その時の少年の気持ち、そしてお母さんの気持ち、とは一体どんなものだったのでしょうか。
そのことを考えると、胸が詰まります。
後年、西村さんが真実を知ることが出来て、本当に良かったと思います。