三鷹駅前にあった“グレ・ギャラリー”のオーナーで写真家の市毛さんと古田さんがニューヨークにやって来た。
東京に居た頃にしょっちゅう通っては長居して話し込み、時にはご飯までごちそうになっていた。
“グレ”ではおしゃれな市毛さんが選んだ服や小物も売っていて、田舎者の僕はいつも支払いを待ってもらっては似合わない服を・・・思い出すと布団を頭からかぶってキャッと叫びたくなる。
今回は、近くニューヨークで開く、書の個展の下見とのこと。
十八年振りの再会、楽しみなのと同時にほんの少しの不安な気持ち。かつてあんなに楽しく話し合った人達、この十八年間、僕自身は彼らの信頼にそえるような生き方をして来ただろうか? してないよなー・・・。
昔話に花を咲かせるようなことはしたくない。今の話が出来るだろうか。
チェルシーのカフェに座っている二人が振り向いた瞬間、十八年間が消えた。
その顔は懐かしくさえも無い、まるで昨日話した続きのようにわくわくと会話が始まる。ああ、ある意味で僕はこの人たちとも一緒に生きて来たんだと、つくづく嬉しくなった。
偶然にも彼らもグッゲンハイムの展示を見に行ったと言う。話せる相手をみつけた僕は、ここぞとばかりまくしたてる。
気がつけばいつも、友達が思った通りの自分らしい自分でいたい。
あたりまえと言えばあたりまえだけど。
古田です
この前は楽しかったよ。ありがとう
私も決して自慢できる生き方はしてきておりませぬ
ツァイさんの作品展について
14~5年前、仕事で関わりのあった鎌倉のギャラリーがツァイさんを応援していたので,小品をいくつか見たことがありました。
焚き火の炎や火花に魅入られるように泥土の感触を楽しむように作られた、とても本能的なところでものを作る人だなぁと思った覚えがありましたが、
使っている素材は同じでも感じられるものが・・・
火薬の発明は中国のようですし、矢を突きたてられた狼の展示にしても
中国の歴史上、名前は忘れましたが、狼が象徴となった戦いがあるそうです
中国人であるというアイデンティティを強く打ち出したことに違いないのでしょうが、
これってアイデンティティ??なのかしら?だからと言ってそれがなんなのかしら?
また戦争に対するアンチテーゼのようにも感じられませんでしたし
しばらく前から現代美術というものが「現代美術」というカテゴライズされた古典になりつつある
もしくはもうなっている、ような気がしていましたが、
グッゲンハイムの展示を見てますますそう思ってしまいました。
「現代美術」が終末に向かう最後のあだ花のように感じられて仕方がありませんでした。あるいは残り火?
より大きく、よりインパクトが強く、そして空虚になっていく
ツァイさんの本能は「現代美術」でビッグネームになっていくにつれて絡め捕られちゃったのかなぁ。
ものの美しさや気持ちの美しさを愛おしんだり
感覚が沸いちゃうようなものが味わいたいものだと思いました
作品と言う物は、作家が作り上げた時点ではまだ未完成で、鑑賞する者が残りを完成させる。という事を思い出しました。
そこにコミュニケーションがあって命が吹き込まれる。
古田さんの見たツァイさんはとても古田さんらしいね。
より良く見たければあいふさわしい自分が必要ということですかね。