イラク反戦デモで知り合った作家のSさんとO教授夫妻が日本から来ているらしい。電話すると、今からグッゲンハイム美術館に行くと言う。こんな機会が無いとなかなか行かないからおともすることにした。
グッゲンハイムでは全館を使って中国人芸術家、CAI GUO-PIANG 、ツァイ・グオチャンと読むらしい。の“I want to believe”展が開かれていた。
世界中が注目する現代アートの旗手だそうだ。
火薬をキャンパス(あるいはボード)の上で爆発させて焼けた模様で描くドローイング。
屋外の様々な場所で火薬を爆発させ、物を破壊する様子をビデオで見せる・・・。
焼けただれた絵は暴力を受けた人の肌の痛みを思い起こさせるし、乾いた大音響と共に画面に映る爆発する家は、非人間的な無神経さで心臓を締め付ける。
ああ、とてもあの人たちには見せられないなと思う。
小市民の僕はたとえば新聞で“空爆”と読むだけで、どうして人が一生の労働を引き換えにやっと手に入れるちっぽけでかけがえの無い家に対して、気軽に“空爆”などと口にすることさえ出来るのかと不思議に思うものだが。
作品としてはたしかに強いインパクトがあるだろう。彼はメッセージ性の強い作風で知られているという。その真意はどこにあるのか?
どこかに解説が書いてあるかと探してみるが、見つからない。
パンフレットには『現代の、創造に於いての罪や文化的に不快とされるものを文字通り打破した芸術家として世界から賞賛をあびている。』とある。
新しい事をやる。それだけのことなのか。
みんなどう思っているんだろう。展示を眺める人達を注意して見てみると、みんな暗い辛そうな表情をしている。
家に帰ってウェブで検索してみると、「感動した」「度肝を抜かれた」「楽しかった」と絶賛しているリポートばかりだが、残念ながら何一つ共感できず、とまどうばかり。
僕のようにセンスの無い人間にも解るように、せめて詩の一編でも貼っておいてほしいものだ。
一方、例えば、環境保護活動というような当りのいい響きに名を借りたテロとも言えるようなグリーンピースやシー・シェパードの行動と、それにレクレーション的な場当たり的感覚で乗っかる一部の一般の人たちの行動は理解できない。(同様にそれを引用したパフォーマンスも)
果たして目の前にあるものがどちらに類するのか。
日々揺れないように、と考える自分自身。
原爆を投下した本人が広島を訪れ、
被爆者に会った番組を見たことがある。
彼は
「僕は謝らない。だって、僕の戦友だって
真珠湾で何人も殺されたんだ。
でも、だれも謝ってくれなかった。
それに、あの時はあれが正しいと思ったし
そうするしかなかったのだから。」
というようなことを言っていた記憶がある。
確かに生きていて、それが正しいと思わなければ
できないことはたくさんあるのだが、
人間なのだから、それを振り返り
どうするべきか判断できるのではないだろうか。
何十年たっても、過去を詫びることもなく
そのときの信念や恨みを持ち続けるのも
人間なんだな。
ふと、小さい子が思うように行かず
相手を殴り、それに怒った相手の子が殴り返す。
そんな光景が頭をよぎった。
彼は通称「中国の爆発作家」と呼ばれ、火薬などを用いてのインスタレーションで知られています。
どうしても私には彼の意図が納得出来ず、無視すればよいはずなのですが、今回の展示も私の神経を逆なでするもので実に不快なものです。
世界的有名な作家であれ、爆発をイメージさせる自身の考えは勝手ですが、動物愛護の意味からももう少し配慮をすべきだと私は思う。
2006年には同じくニューヨークのメトロポリタン美術館の屋上での展示の時は、ワニやカラスを用いての爆発表現。
「人間は物体としてこの時空に存在することに不快を感じ、沸き起こる欲望を火薬という暴力的な手段によって外に発散し処理してきた。私は暴力がすべてを創造し、またすべてを破壊したことをよく知っている。」 とのこと・・・ こんな人が評価される芸術の世界は最低だと思いませんか?
わからんものをありがたがるってのを止めたいですね。