広島旅行の3日目。最後の目的地・広島県安芸高田市にある吉田郡山城へ行ってきました。
吉田郡山城は言わずと知れた毛利氏の居城です。築城時期は不明ですが、15世紀後半には毛利氏の城として存在していたそうです。
元々は、山の裾野にある本城と呼ばれるエリアが城の中心で、そこまで大きな城ではありませんでしたが、毛利元就の時代に山全体が要塞化され、巨大な城域を持つことになります。
しかしながら、元就の孫・輝元の代になり、山城である吉田郡山城は実務に不便なため、広島城を築いて移り、吉田郡山城はその役目を終えました。
吉田郡山城へ電車で行こうとした場合、最寄り駅はJR芸備線の吉田口駅になります。ただ、吉田郡山城までは6㎞ちょっと離れています。歩いて歩けない距離じゃないけどそれだけ時間がかかるし、電車の発車時刻もかなり早くなってしまいます。
広島駅周辺から吉田郡山城へ行くのならバスの方が便利なので、素直にバスで行くことにしました。


バスの乗り口がどこにあるのかが最初わからなかったのですが、ビルの2階にバスターミナルがあったんですね。

8番線の吉田方面行に乗ります。
広島バスセンターから吉田小学校まで、およそ1時間30分ほどで到着します。

まずは郡山のふもとにある清神社へ。
吉田郡山城よりも歴史は古く、かつては毛利氏に篤く信仰されていました。現在はサンフレッチェ広島も毎年必勝祈願のために参拝しているのだとか。
やたら太い注連縄が印象的です。

清神社の近くに郡山公園があります。

郡山公園に、郡山城のガイドマップが置いてあります。場内を散策するのに便利なので、参考にしましょう。

郡山公園にあった、郡山城案内図。
吉田郡山城は、本丸、二の丸、三の丸を中心として、放射状に伸びる尾根沿いにたくさんの曲輪が配置されています。

公園の上の方には遊具も設置されています。

ふもとからもよく見えた毛利氏の家紋・一文字三星が掲げられています。

一文字三星の裏には展望台があります。

展望台からは安芸高田市街を眺めることができます。

ただ、この家紋、ちょっと邪魔じゃないですかねぇ。

郡山公園を抜けると、本格的に山歩きになってきます。

少し登ると分岐が現れます。左へ行くと吉田郡山城の本体へ。右は吉田郡山城の城域が大きく広がる前の本城へのルートです。
まずは旧本城へ向かいます。

旧本城へは細い尾根沿いの道が続いています。

尾根は途中、大きな堀切で断ち切られています。

旧本城の本丸まであと少し。
左の崖の上が本丸となっています。

ぐるっと回りこんで本丸に到着。

旧本城の本丸。元々主城だったのでかつては毛利元就もここに居住していました。家督を隆元に譲った後、隆元がこの旧本城に入り、元就は吉田郡山城を拡張して郡山の山頂に入りました。
奥には土塁も見えます。

本丸から東の方へ、尾根に沿って曲輪が設けられていました。あまり奥までは行きませんでしたけど、そのままふもとの方まで下りて行けそうでした。

旧本城から分岐点まで戻り、本丸方面へ登っていきます。

登っていく途中に、展望スポットがあります。

安芸高田市街地が一望できます。

展望スポットから少し登ると尾崎丸があります。
旧本城に入った隆元ですが、本丸にいる元就との連絡が不便だったため、後に尾崎丸に入りました。

尾崎丸にある堀切。

尾崎丸を過ぎると、満願寺、そしてその先にある妙寿寺へのルートが現れます。
満願寺は郡山城が拡張される以前から存在していたお寺で、拡張に伴い城域に組み込まれました。
ただ、この満願寺方面のルートはスルーしちゃったんですよね。なぜスルーしちゃったのか、理由は憶えていないのですが。

本丸方面へ歩いていくと、少し高まったところに勢溜ノ壇があります。

勢溜ノ壇は当時兵営所があったところだそうです。

南西方面に伸びる尾根に沿って段々に曲輪が連なっています。

段の先端の行けるところまで行くと、展望スポットとなっています。

ここまで見てきた展望スポットはみんな南向きなので、なんか他の場所とあんまり変わり映えがしないような……。一応徐々に標高は上がっているんですけどね。
違いがあるとすれば、日差しが出てきたことくらいでしょうか。

勢溜ノ壇からさらに上の段へ登っていきます。

そこは御蔵屋敷跡。上段、下段の2段あり、ここはその上段です。
ネーミング的に、倉庫か何かがあったんでしょうか。

御蔵屋敷跡のさらに上へ。


二の丸に到着。ようやく城の中心部に近づいてきました。

二の丸の奥のさらに一段高まったところに本丸があります。

本丸に到着。元就はこの場所に居住していたようです。


本丸の奥はさらに一段高くなっています。
郡山の標高は401m。案内板によれば、比高は約190m。比高だけ見れば岩国城と同じくらいですが、急登がなかった分だけ吉田郡山城の方が登りやすかったです。

本丸の最高地点から、本丸、二の丸方面を見下ろして。

続いて、二の丸の東側にある三の丸へ。

この写真だとわかりにくいですけど、三の丸は大きく東段、南段、西段の3つの段に分かれています。吉田郡山城はこんな感じの構造が多いですね。

さらに東の方へ下っていくと、厩の壇に到着。この下の段に馬場と呼ばれているエリアがあることから、その名の通り厩舎があったと考えられています。

ここも尾根に沿って、段々に曲輪が下まで続いています。

どこまでも下りて行けそうでしたけど、ほどほどの所で引き返してきました。

厩の壇から、本丸の下の方を回り込んで北へ進みます。

釜屋の壇に到着。

釜屋の壇から北東方面に進むと、ここもまた例によって細かく段々になっています。

釜屋の壇の先には羽子の丸があります。

途中、大きな堀切跡があります。

この辺りも例によって細かく段に分かれています。この右側のエリアは腰曲輪になっています。

羽子の丸に到着。ここは本丸から北東方面に伸びている尾根の先端にあります。
吉田郡山城は全体的によく整備されているのですが、羽子の丸へのルートだけは若干未整備っぽかったですね。歩けないほどではないですけど。

釜屋の壇まで戻り、ちょっと西へ移動していくと、姫の丸があります。

姫の丸は本丸から北に伸びている尾根の根本あたりにあります。

ここも例によってふもと方面に段があり、ふもとの方まで下りて行けそうだったのですが、やめておきました。

姫の丸から見上げる本丸方面。結構な崖になっています。

姫の丸から本丸の下を回り込んで南西方面へ。


釣井の壇に到着。


釣井の壇にはその名の通り井戸がありました。

釣井の壇の隣には御蔵屋敷があります。これで本丸の周囲をぐるりと1周してきました。

下山前に、もう一回本丸へ。

下山は登ってきたのとは異なるルート、毛利元就の墓所への道を下っていきます。


最初だけちょっと急な山道でしたが、途中から整備された道になりました。

途中、郡山第一号古墳があります。

ただ、いまいちどれが古墳なのかはよくわかりませんでした。看板の先のこんもりとした小山がそれですかねぇ。


もうひとつ、郡山第二号古墳もあるのですが、同じくちょっとわかりにくいです。

嘯岳禅師の墓。
嘯岳禅師は二度も明に渡って修行した僧侶。元就は嘯岳禅師をしばしば招いており、元就が亡くなった際には葬儀の導師も務め、元就の菩提寺である洞春寺も開きました。

嘯岳禅師の墓から少し下ると、登山道も終了。ふもとに到着です。

登山道入り口から少し下ったところに、毛利元就の墓があります。
この辺りは元就の菩提寺である洞春寺があった場所です。洞春寺は輝元が居城を広島城に移した際、それに合わせて広島城下に移りましたが、墓所はこの場所に残されました。

墓の手前には、百万一心の石碑があります。
百万一心は元就が吉田郡山城を築いた際に用いられた言葉で、「一日一力一心」とも読めるように書かれています。
元々はこの言葉を刻んだ石を人柱の代わりに使用し、姫の丸の礎石として用いていました。その礎石は長州藩士・武田泰信が発見し、「百万一心」の文字を拓本で写し取り、豊栄神社に奉納しました。後にその礎石が捜索されましたが発見されず、この石碑は拓本を元に復元されたものです。

その奥に元就の墓があります。

元就の墓の近くに、毛利一族の墓所もあります。
郡山城内や城下にあったそれぞれの墓を、明治時代にこの地に移したものです。

洞春寺跡の入口。

さらにふもとへ下りたところに、毛利隆元の墓があります。

毛利隆元の墓。
これはこれで立派だけど、なんで毛利一族の墓と一緒にしなかったんだろう?

さらに下りて行った辺りに、郡山城の石垣が残されています。
この石垣の上も曲輪跡で、こんなふもとまで吉田郡山城の一部として整備されていたことが分かります。

さらに下って、郡山城址の石碑。
今更ですが、一般的には墓所の方から登っていくのが正ルートなんですかね。

その近くに、居館跡の石碑がありました。

その近くに毛利元就の像もあるのですが、何かの施設の敷地の中にあり、門のところにチェーンもついていたので、中に入るのはやめておきました。

その近くに、三矢の訓の碑もあります。

三矢の訓の碑も何かの施設の敷地内にあるのですが、こちらは入ってもいいよと書かれているので、遠慮しいしい入っていきます。

と、言うわけで、三矢の訓の碑。かなり巨大です。

最後に、安芸高田市歴史民俗博物館へ。
ここは毛利氏と吉田郡山城を中心に、安芸高田市の民俗や文化に関する展示がなされています。

ここの入口に、日本100名城のスタンプが設置してあります。
図案は郡山と百万一心の碑。シンプルで力強くて結構好きです。

外には、毛利元就と毛利隆元の顔出し看板がありました。
2023年は、元就の郡山城入城500年と、隆元の生誕500年だったそうで。

最後に、ふもとの安芸高田市役所前から郡山を見上げて。展望台の所に掲げられている一文字三星が見えます。
予定よりは早く終わったので、帰りは吉田口駅まで歩いて電車で戻ろうかとも思ったのですが、日差しが出てきて気温が高くなってきたのでやめ、素直に市役所前のバス停からバスで広島市まで戻りました。

清神社スタート、毛利元就公墓所参道終点で、行動時間は1時間43分、移動距離は3.7㎞、累積上りは338m、累積下りは311mでした。
本文中でも書きましたけど、山歩きとして観た場合にはあまり急登が無く、岩国城よりも歩きやすかったです。気温が比較的涼しかったということもあったかもしれませんけれど。
吉田郡山城は郡山全体が城郭化されていて、歩いていてとても楽しかったですね。ひたすら出てくる曲輪、曲輪、曲輪。雰囲気がよく、さまよい甲斐がありました。
で、山登り自体はそれほど苦労しませんでしたが、やっぱり終盤は気温が上がってきて、ちょっときつくはありました。疲労のピークが歴史民俗博物館に着いた頃にやってきて、あまり冷房がガンガン効いているという感じでもなかったので、普段はあまり一生懸命見ない映像の展示の前に座って、ずっと休んでいました。
吉田郡山城から5㎞ほど離れたところに多治比猿掛城があり、時間に余裕があれば寄りたかったのですが、東京に帰る日だったのでそこまでの余裕はありませんでした。でも時間があったとしても、暑くて5㎞の道のりを往復するのはキツかったかもしれません。
他にも郡山合戦での尼子軍の陣跡とか、青山城なんかもあったのですが、それらはまた機会があれば、ですかね。
そんなわけで、2泊3日の広島旅行も終了。最大の目的だったカープ戦は見事勝利を見届けることができましたし、プラスして4城見て回ることができたので、満足度の高い旅行となりました。
ただ、やっぱり3日間通して暑かった。いずれも午前中はやや曇りだったものの、昼前くらいから日差しが出てきてとにかく暑い。そこだけは本当にキツかったですね。
去年が特別暑かったというのはあると思うんですけどね。9月って休日もあるし、旅行へ行くには適当なシーズンかと思うのですが、これだけ暑くなるかと思うとちょっと二の足を踏んでしまう部分もあります。今年はどうしようかなぁ。
吉田郡山城は言わずと知れた毛利氏の居城です。築城時期は不明ですが、15世紀後半には毛利氏の城として存在していたそうです。
元々は、山の裾野にある本城と呼ばれるエリアが城の中心で、そこまで大きな城ではありませんでしたが、毛利元就の時代に山全体が要塞化され、巨大な城域を持つことになります。
しかしながら、元就の孫・輝元の代になり、山城である吉田郡山城は実務に不便なため、広島城を築いて移り、吉田郡山城はその役目を終えました。
吉田郡山城へ電車で行こうとした場合、最寄り駅はJR芸備線の吉田口駅になります。ただ、吉田郡山城までは6㎞ちょっと離れています。歩いて歩けない距離じゃないけどそれだけ時間がかかるし、電車の発車時刻もかなり早くなってしまいます。
広島駅周辺から吉田郡山城へ行くのならバスの方が便利なので、素直にバスで行くことにしました。


バスの乗り口がどこにあるのかが最初わからなかったのですが、ビルの2階にバスターミナルがあったんですね。

8番線の吉田方面行に乗ります。
広島バスセンターから吉田小学校まで、およそ1時間30分ほどで到着します。

まずは郡山のふもとにある清神社へ。
吉田郡山城よりも歴史は古く、かつては毛利氏に篤く信仰されていました。現在はサンフレッチェ広島も毎年必勝祈願のために参拝しているのだとか。
やたら太い注連縄が印象的です。

清神社の近くに郡山公園があります。

郡山公園に、郡山城のガイドマップが置いてあります。場内を散策するのに便利なので、参考にしましょう。

郡山公園にあった、郡山城案内図。
吉田郡山城は、本丸、二の丸、三の丸を中心として、放射状に伸びる尾根沿いにたくさんの曲輪が配置されています。

公園の上の方には遊具も設置されています。

ふもとからもよく見えた毛利氏の家紋・一文字三星が掲げられています。

一文字三星の裏には展望台があります。

展望台からは安芸高田市街を眺めることができます。

ただ、この家紋、ちょっと邪魔じゃないですかねぇ。

郡山公園を抜けると、本格的に山歩きになってきます。

少し登ると分岐が現れます。左へ行くと吉田郡山城の本体へ。右は吉田郡山城の城域が大きく広がる前の本城へのルートです。
まずは旧本城へ向かいます。

旧本城へは細い尾根沿いの道が続いています。

尾根は途中、大きな堀切で断ち切られています。

旧本城の本丸まであと少し。
左の崖の上が本丸となっています。

ぐるっと回りこんで本丸に到着。

旧本城の本丸。元々主城だったのでかつては毛利元就もここに居住していました。家督を隆元に譲った後、隆元がこの旧本城に入り、元就は吉田郡山城を拡張して郡山の山頂に入りました。
奥には土塁も見えます。

本丸から東の方へ、尾根に沿って曲輪が設けられていました。あまり奥までは行きませんでしたけど、そのままふもとの方まで下りて行けそうでした。

旧本城から分岐点まで戻り、本丸方面へ登っていきます。

登っていく途中に、展望スポットがあります。

安芸高田市街地が一望できます。

展望スポットから少し登ると尾崎丸があります。
旧本城に入った隆元ですが、本丸にいる元就との連絡が不便だったため、後に尾崎丸に入りました。

尾崎丸にある堀切。

尾崎丸を過ぎると、満願寺、そしてその先にある妙寿寺へのルートが現れます。
満願寺は郡山城が拡張される以前から存在していたお寺で、拡張に伴い城域に組み込まれました。
ただ、この満願寺方面のルートはスルーしちゃったんですよね。なぜスルーしちゃったのか、理由は憶えていないのですが。

本丸方面へ歩いていくと、少し高まったところに勢溜ノ壇があります。

勢溜ノ壇は当時兵営所があったところだそうです。

南西方面に伸びる尾根に沿って段々に曲輪が連なっています。

段の先端の行けるところまで行くと、展望スポットとなっています。

ここまで見てきた展望スポットはみんな南向きなので、なんか他の場所とあんまり変わり映えがしないような……。一応徐々に標高は上がっているんですけどね。
違いがあるとすれば、日差しが出てきたことくらいでしょうか。

勢溜ノ壇からさらに上の段へ登っていきます。

そこは御蔵屋敷跡。上段、下段の2段あり、ここはその上段です。
ネーミング的に、倉庫か何かがあったんでしょうか。

御蔵屋敷跡のさらに上へ。


二の丸に到着。ようやく城の中心部に近づいてきました。

二の丸の奥のさらに一段高まったところに本丸があります。

本丸に到着。元就はこの場所に居住していたようです。


本丸の奥はさらに一段高くなっています。
郡山の標高は401m。案内板によれば、比高は約190m。比高だけ見れば岩国城と同じくらいですが、急登がなかった分だけ吉田郡山城の方が登りやすかったです。

本丸の最高地点から、本丸、二の丸方面を見下ろして。

続いて、二の丸の東側にある三の丸へ。

この写真だとわかりにくいですけど、三の丸は大きく東段、南段、西段の3つの段に分かれています。吉田郡山城はこんな感じの構造が多いですね。

さらに東の方へ下っていくと、厩の壇に到着。この下の段に馬場と呼ばれているエリアがあることから、その名の通り厩舎があったと考えられています。

ここも尾根に沿って、段々に曲輪が下まで続いています。

どこまでも下りて行けそうでしたけど、ほどほどの所で引き返してきました。

厩の壇から、本丸の下の方を回り込んで北へ進みます。

釜屋の壇に到着。

釜屋の壇から北東方面に進むと、ここもまた例によって細かく段々になっています。

釜屋の壇の先には羽子の丸があります。

途中、大きな堀切跡があります。

この辺りも例によって細かく段に分かれています。この右側のエリアは腰曲輪になっています。

羽子の丸に到着。ここは本丸から北東方面に伸びている尾根の先端にあります。
吉田郡山城は全体的によく整備されているのですが、羽子の丸へのルートだけは若干未整備っぽかったですね。歩けないほどではないですけど。

釜屋の壇まで戻り、ちょっと西へ移動していくと、姫の丸があります。

姫の丸は本丸から北に伸びている尾根の根本あたりにあります。

ここも例によってふもと方面に段があり、ふもとの方まで下りて行けそうだったのですが、やめておきました。

姫の丸から見上げる本丸方面。結構な崖になっています。

姫の丸から本丸の下を回り込んで南西方面へ。


釣井の壇に到着。


釣井の壇にはその名の通り井戸がありました。

釣井の壇の隣には御蔵屋敷があります。これで本丸の周囲をぐるりと1周してきました。

下山前に、もう一回本丸へ。

下山は登ってきたのとは異なるルート、毛利元就の墓所への道を下っていきます。


最初だけちょっと急な山道でしたが、途中から整備された道になりました。

途中、郡山第一号古墳があります。

ただ、いまいちどれが古墳なのかはよくわかりませんでした。看板の先のこんもりとした小山がそれですかねぇ。


もうひとつ、郡山第二号古墳もあるのですが、同じくちょっとわかりにくいです。

嘯岳禅師の墓。
嘯岳禅師は二度も明に渡って修行した僧侶。元就は嘯岳禅師をしばしば招いており、元就が亡くなった際には葬儀の導師も務め、元就の菩提寺である洞春寺も開きました。

嘯岳禅師の墓から少し下ると、登山道も終了。ふもとに到着です。

登山道入り口から少し下ったところに、毛利元就の墓があります。
この辺りは元就の菩提寺である洞春寺があった場所です。洞春寺は輝元が居城を広島城に移した際、それに合わせて広島城下に移りましたが、墓所はこの場所に残されました。

墓の手前には、百万一心の石碑があります。
百万一心は元就が吉田郡山城を築いた際に用いられた言葉で、「一日一力一心」とも読めるように書かれています。
元々はこの言葉を刻んだ石を人柱の代わりに使用し、姫の丸の礎石として用いていました。その礎石は長州藩士・武田泰信が発見し、「百万一心」の文字を拓本で写し取り、豊栄神社に奉納しました。後にその礎石が捜索されましたが発見されず、この石碑は拓本を元に復元されたものです。

その奥に元就の墓があります。

元就の墓の近くに、毛利一族の墓所もあります。
郡山城内や城下にあったそれぞれの墓を、明治時代にこの地に移したものです。

洞春寺跡の入口。

さらにふもとへ下りたところに、毛利隆元の墓があります。

毛利隆元の墓。
これはこれで立派だけど、なんで毛利一族の墓と一緒にしなかったんだろう?

さらに下りて行った辺りに、郡山城の石垣が残されています。
この石垣の上も曲輪跡で、こんなふもとまで吉田郡山城の一部として整備されていたことが分かります。

さらに下って、郡山城址の石碑。
今更ですが、一般的には墓所の方から登っていくのが正ルートなんですかね。

その近くに、居館跡の石碑がありました。

その近くに毛利元就の像もあるのですが、何かの施設の敷地の中にあり、門のところにチェーンもついていたので、中に入るのはやめておきました。

その近くに、三矢の訓の碑もあります。

三矢の訓の碑も何かの施設の敷地内にあるのですが、こちらは入ってもいいよと書かれているので、遠慮しいしい入っていきます。

と、言うわけで、三矢の訓の碑。かなり巨大です。

最後に、安芸高田市歴史民俗博物館へ。
ここは毛利氏と吉田郡山城を中心に、安芸高田市の民俗や文化に関する展示がなされています。

ここの入口に、日本100名城のスタンプが設置してあります。
図案は郡山と百万一心の碑。シンプルで力強くて結構好きです。

外には、毛利元就と毛利隆元の顔出し看板がありました。
2023年は、元就の郡山城入城500年と、隆元の生誕500年だったそうで。

最後に、ふもとの安芸高田市役所前から郡山を見上げて。展望台の所に掲げられている一文字三星が見えます。
予定よりは早く終わったので、帰りは吉田口駅まで歩いて電車で戻ろうかとも思ったのですが、日差しが出てきて気温が高くなってきたのでやめ、素直に市役所前のバス停からバスで広島市まで戻りました。

清神社スタート、毛利元就公墓所参道終点で、行動時間は1時間43分、移動距離は3.7㎞、累積上りは338m、累積下りは311mでした。
本文中でも書きましたけど、山歩きとして観た場合にはあまり急登が無く、岩国城よりも歩きやすかったです。気温が比較的涼しかったということもあったかもしれませんけれど。
吉田郡山城は郡山全体が城郭化されていて、歩いていてとても楽しかったですね。ひたすら出てくる曲輪、曲輪、曲輪。雰囲気がよく、さまよい甲斐がありました。
で、山登り自体はそれほど苦労しませんでしたが、やっぱり終盤は気温が上がってきて、ちょっときつくはありました。疲労のピークが歴史民俗博物館に着いた頃にやってきて、あまり冷房がガンガン効いているという感じでもなかったので、普段はあまり一生懸命見ない映像の展示の前に座って、ずっと休んでいました。
吉田郡山城から5㎞ほど離れたところに多治比猿掛城があり、時間に余裕があれば寄りたかったのですが、東京に帰る日だったのでそこまでの余裕はありませんでした。でも時間があったとしても、暑くて5㎞の道のりを往復するのはキツかったかもしれません。
他にも郡山合戦での尼子軍の陣跡とか、青山城なんかもあったのですが、それらはまた機会があれば、ですかね。
そんなわけで、2泊3日の広島旅行も終了。最大の目的だったカープ戦は見事勝利を見届けることができましたし、プラスして4城見て回ることができたので、満足度の高い旅行となりました。
ただ、やっぱり3日間通して暑かった。いずれも午前中はやや曇りだったものの、昼前くらいから日差しが出てきてとにかく暑い。そこだけは本当にキツかったですね。
去年が特別暑かったというのはあると思うんですけどね。9月って休日もあるし、旅行へ行くには適当なシーズンかと思うのですが、これだけ暑くなるかと思うとちょっと二の足を踏んでしまう部分もあります。今年はどうしようかなぁ。
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