館山城跡を見学した後、房総半島のさらに奥にある勝浦城へと向かいました。
勝浦城は築城年代は不明なのですが、安房の里見氏と敵対していた真里谷武田氏により築かれました。しかし里見氏との争いの中、里見配下の正木時忠により、勝浦城は落とされてしまいます。
その後、大多喜城主・正木憲時が反乱が発生し、一時的に正木憲時に勝浦城を奪われたりもしましたが、正木憲時の反乱は鎮圧され、勝浦城は時忠の子・頼忠の手に戻ってきます。
しかしながら、小田原攻めの際に里見氏が秀吉の不興を買ったために領地を没収。それに伴い、勝浦城も関東一円を支配する徳川軍に攻められて落城し、廃城となってしまいました。
落城する際に、頼忠の娘・お万が白布を伝わって40mの崖を下りて逃げのびたという「お万の布晒し」の伝説が生まれました。お万は後に徳川家康の側室となり、紀州徳川家の初代・徳川頼宜、水戸徳川家の初代・徳川頼房を生むことになります。何気にものすごい玉の輿に乗っていますね。
JR外房線・勝浦駅からスタートします。

勝浦駅には、年末なのにひな人形が飾られていました。
元々、徳島県の勝浦町で「ビッグひな祭り」というイベントが開催されていたのですが、名前が同じ千葉県勝浦市でも「かつうらビッグひな祭り」と言うイベントが開催されるようになったそうです。もう一ヶ所、これまた同じ名前の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「南紀勝浦ひなめぐり」というイベントもあります。


ひな人形の顔出し看板と、外房線の顔出し看板(とは違うか)もありました。

今回歩く予定のコースは、関東ふれあいの道の千葉コース18番「荒磯のみち」を参考にしています。勝浦城がメインターゲットなのですが、その後いくつかの観光ポイントも巡る予定です。

勝浦城は勝浦湾に突き出した八幡岬の上に築かれています。現在は八幡岬公園として整備されています。
この地図で言うと、駐車場の辺りが三郭、中央にある子供の広場が二郭、岬先端の展望広場が本郭となっていたようです。


駐車場から少し行ったところに展望台があったのですが、ススキが邪魔でちょっと微妙。

そこからもう少し行った辺りから、海を見渡すことができました。

二郭の手前に、八幡神社へと登る階段があります。

登り切ったところには八幡神社が。この場所は勝浦城の中でも最も高い位置にあり、天守台があったそうです。

二郭は子供の広場となっており、遊具が設置されています。この日も親子連れが遊んでいました。

子供の広場には、日清戦争、太平洋戦争の戦死者を慰霊する忠霊塔もあります。

ここから本郭へは、まっすぐ階段で行くルートと……。

自然散策路で行くルートがあります。
多少なりとも山歩き気分を味わうため、自然散策路を登ります。



子供の広場の整備具合から、もう少し綺麗な道を想像していたのですが、思っていたより野性味あふれる道でした。

それほどの距離ではありませんが、ある程度登ると本郭に到着します。




本郭は八幡岬の先端部。広く海を見渡すことができます。めちゃくちゃいい景色が広がっています。


また、初めの方でも少し触れた、「お万の布晒し」伝説で知られるお万の銅像も建てられています。

戻りは階段から。こちらはとても歩きやすくなっています。

二郭と三郭の途中から見える風景。

よく見ると海上に鳥居がありますね。
どうやら堀切跡なんかもあったみたいなのですが、事前調査が足りていなかったので、未確認です。
勝浦城は見終わりましたが、「荒磯のみち」に沿って、もう少し歩いていきます。

まずは、勝浦城から東へ1㎞ ほどのところにある、勝浦灯台へ。勝浦城本郭からも見えていましたね。

ただ、ここの入り口までは来たのですが、なぜか灯台までは行かなかったんですよね。なんでだっけ? このときは入れないと思ったような気がするのですが、今写真を見る限りでは、別にそういうわけでもないよなぁ。

勝浦灯台から眺める勝浦城。この岬の先端部が丸々城郭になっています。

「お万の布晒し」の舞台となったのは、八幡神社の東側の崖だそうなので、岬の付け根近くの一番高くなっているあたりから崖を下りたということになりますね。まあ、凄いところを下りたものです。
もしここでお万が命を落としていたら、紀州藩と水戸藩が今知られているような形ではなくなり、八代将軍吉宗や、十五代将軍慶喜もいなくなるわけですから、何気に日本の歴史にも大きな影響を与える出来事だったわけです。

続いて、勝浦平和観音像へ。道の端にある急な階段を登っていきます。

太平洋戦争で撃沈した駆逐艦・沖風の船員を供養するために建てられた像です。

平和観音のある所からの風景。

これは特にどこと言うでもないところ。それでもなんか、良いと思える風景です。
最後の目的地は官軍塚です。


五稜郭の戦いに援軍を送るために熊本藩は品川から船で藩兵を送り出しますが、暴風雨に遭って勝浦沖で難破、多数の死者が出てしまいます。救助に当たった地元の人たちの手により、犠牲者はこの場所に埋葬・供養されたそうです。

官軍塚の近くに展望台があります。



勝浦城からここまで、どこを切り取ってもなかなか良い眺望が広がっていました。
「荒磯のみち」はここからさらに海岸に沿って東へと進んでいくのですが、ここから先はあまり見所がない上、バスで戻らなくてはならないので、ここから勝浦駅へと引き返していきます。
勝浦城は本当に岬の突端に築かれており、三方どころか十二方中十一方くらいを崖に囲まれていて、攻め手をかなり限定させることができます。その代わりに逃げ場も無いので、守る方からすれば背水の陣みたいなもので、なかなか大変そうではありますね。みんながみんな、お万みたいなアクロバティックな逃げ方ができるわけじゃないでしょうしね。
短期ならともかく、長期の籠城戦になったらキツそうだなぁ。
勝浦城は築城年代は不明なのですが、安房の里見氏と敵対していた真里谷武田氏により築かれました。しかし里見氏との争いの中、里見配下の正木時忠により、勝浦城は落とされてしまいます。
その後、大多喜城主・正木憲時が反乱が発生し、一時的に正木憲時に勝浦城を奪われたりもしましたが、正木憲時の反乱は鎮圧され、勝浦城は時忠の子・頼忠の手に戻ってきます。
しかしながら、小田原攻めの際に里見氏が秀吉の不興を買ったために領地を没収。それに伴い、勝浦城も関東一円を支配する徳川軍に攻められて落城し、廃城となってしまいました。
落城する際に、頼忠の娘・お万が白布を伝わって40mの崖を下りて逃げのびたという「お万の布晒し」の伝説が生まれました。お万は後に徳川家康の側室となり、紀州徳川家の初代・徳川頼宜、水戸徳川家の初代・徳川頼房を生むことになります。何気にものすごい玉の輿に乗っていますね。
JR外房線・勝浦駅からスタートします。

勝浦駅には、年末なのにひな人形が飾られていました。
元々、徳島県の勝浦町で「ビッグひな祭り」というイベントが開催されていたのですが、名前が同じ千葉県勝浦市でも「かつうらビッグひな祭り」と言うイベントが開催されるようになったそうです。もう一ヶ所、これまた同じ名前の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「南紀勝浦ひなめぐり」というイベントもあります。


ひな人形の顔出し看板と、外房線の顔出し看板(とは違うか)もありました。

今回歩く予定のコースは、関東ふれあいの道の千葉コース18番「荒磯のみち」を参考にしています。勝浦城がメインターゲットなのですが、その後いくつかの観光ポイントも巡る予定です。

勝浦城は勝浦湾に突き出した八幡岬の上に築かれています。現在は八幡岬公園として整備されています。
この地図で言うと、駐車場の辺りが三郭、中央にある子供の広場が二郭、岬先端の展望広場が本郭となっていたようです。


駐車場から少し行ったところに展望台があったのですが、ススキが邪魔でちょっと微妙。

そこからもう少し行った辺りから、海を見渡すことができました。

二郭の手前に、八幡神社へと登る階段があります。

登り切ったところには八幡神社が。この場所は勝浦城の中でも最も高い位置にあり、天守台があったそうです。

二郭は子供の広場となっており、遊具が設置されています。この日も親子連れが遊んでいました。

子供の広場には、日清戦争、太平洋戦争の戦死者を慰霊する忠霊塔もあります。

ここから本郭へは、まっすぐ階段で行くルートと……。

自然散策路で行くルートがあります。
多少なりとも山歩き気分を味わうため、自然散策路を登ります。



子供の広場の整備具合から、もう少し綺麗な道を想像していたのですが、思っていたより野性味あふれる道でした。

それほどの距離ではありませんが、ある程度登ると本郭に到着します。




本郭は八幡岬の先端部。広く海を見渡すことができます。めちゃくちゃいい景色が広がっています。


また、初めの方でも少し触れた、「お万の布晒し」伝説で知られるお万の銅像も建てられています。

戻りは階段から。こちらはとても歩きやすくなっています。

二郭と三郭の途中から見える風景。

よく見ると海上に鳥居がありますね。
どうやら堀切跡なんかもあったみたいなのですが、事前調査が足りていなかったので、未確認です。
勝浦城は見終わりましたが、「荒磯のみち」に沿って、もう少し歩いていきます。

まずは、勝浦城から東へ1㎞ ほどのところにある、勝浦灯台へ。勝浦城本郭からも見えていましたね。

ただ、ここの入り口までは来たのですが、なぜか灯台までは行かなかったんですよね。なんでだっけ? このときは入れないと思ったような気がするのですが、今写真を見る限りでは、別にそういうわけでもないよなぁ。

勝浦灯台から眺める勝浦城。この岬の先端部が丸々城郭になっています。

「お万の布晒し」の舞台となったのは、八幡神社の東側の崖だそうなので、岬の付け根近くの一番高くなっているあたりから崖を下りたということになりますね。まあ、凄いところを下りたものです。
もしここでお万が命を落としていたら、紀州藩と水戸藩が今知られているような形ではなくなり、八代将軍吉宗や、十五代将軍慶喜もいなくなるわけですから、何気に日本の歴史にも大きな影響を与える出来事だったわけです。

続いて、勝浦平和観音像へ。道の端にある急な階段を登っていきます。

太平洋戦争で撃沈した駆逐艦・沖風の船員を供養するために建てられた像です。

平和観音のある所からの風景。

これは特にどこと言うでもないところ。それでもなんか、良いと思える風景です。
最後の目的地は官軍塚です。


五稜郭の戦いに援軍を送るために熊本藩は品川から船で藩兵を送り出しますが、暴風雨に遭って勝浦沖で難破、多数の死者が出てしまいます。救助に当たった地元の人たちの手により、犠牲者はこの場所に埋葬・供養されたそうです。

官軍塚の近くに展望台があります。



勝浦城からここまで、どこを切り取ってもなかなか良い眺望が広がっていました。
「荒磯のみち」はここからさらに海岸に沿って東へと進んでいくのですが、ここから先はあまり見所がない上、バスで戻らなくてはならないので、ここから勝浦駅へと引き返していきます。
勝浦城は本当に岬の突端に築かれており、三方どころか十二方中十一方くらいを崖に囲まれていて、攻め手をかなり限定させることができます。その代わりに逃げ場も無いので、守る方からすれば背水の陣みたいなもので、なかなか大変そうではありますね。みんながみんな、お万みたいなアクロバティックな逃げ方ができるわけじゃないでしょうしね。
短期ならともかく、長期の籠城戦になったらキツそうだなぁ。
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