新府城を訪れたのち、甲府市に戻り、甲府駅前にある甲府城へ行ってきました。
武田氏の滅亡と本能寺の変が立て続けに起こった後、天正壬午の乱を経て甲斐は徳川の支配地となります。その徳川も北条征伐の後に江戸へ国替えとなり、その後は豊臣配下の大名が入ることになります。徳川時代にも甲府城の建築計画自体はあったようなのですが、豊臣時代に甲斐の新たな中心として甲府城が築かれたようです。
江戸時代になると甲府には家康の八男・仙千代が入りますが、仙千代はすぐに亡くなってしまいます。その後には家康の九男・義直が入りますが、義直も数年後に尾張へ移封。次いで徳川秀忠の三男・忠長が入りますが、素行不良のため改易。結局甲斐は、幕府の直轄領となります。
1651年に徳川家光の三男・綱重が入り、甲府藩が成立します。しかし甲府徳川家は家康の直系だったこともあり、綱重の長男・綱豊は継嗣のいなかった5代将軍・綱吉の後継者に指名されます。綱豊は家宣と改名して江戸城に入り、家宣に代わって綱吉の側用人だった柳沢吉保が甲府に入ります。
しかし吉保の長男・吉里の代になると、享保の改革により柳沢家は大和郡山に国替えとなり、甲府は再び幕府の直轄領になります。大火があって御殿などが焼失したりもしましたが、そのまま幕末を迎えることになります。
幕末には、甲州鎮撫隊と名を変えた新選組が入って官軍と一戦交える予定だったのですが、官軍の動きが一歩早く、甲州鎮撫隊が到着する前に甲府城は無血開城して官軍の手に渡り、戦の舞台にはならずに済みました。
1873年に廃城。現在は舞鶴城公園として整備されています。

JR中央本線の甲府駅からスタート。そもそも、甲府駅も甲府城の中なんですけどね。

甲府駅前には武田信玄の銅像があります。
結構でかくて迫力があります。甲府城と直接は関係ない人ですけどね。

甲府駅から徒歩1、2分くらいで舞鶴城公園の北西部に到着します。激近です。中央本線で甲府に来ると、電車の中からもこの石垣がよく見えます。
甲府城は、白い城壁が重なり合う様子から舞鶴城とも呼ばれていたそうです。残念ながら、今はその白い城壁は一部分しか見ることはできません。


入ってすぐのところにあった案内板。
稲荷曲輪、稲荷櫓、数寄屋曲輪、鍛冶曲輪、二の丸と外側をぐるっと回って、最後に本丸から天守へ行くという感じですかね。

本丸の北にある、稲荷曲輪。奥に見えるのは稲荷櫓です。

稲荷曲輪にある井戸跡。

これはただのトイレです。

稲荷曲輪から本丸へ上っていくルートもあるのですが、こちらは後回し。

城の北東部を守る、稲荷櫓。元は武具蔵として使用されていたもので、2004年に再建されました。

稲荷櫓の中は展示場になっていて、甲府城に関するあれやこれやが展示されています。入場は無料です。

稲荷櫓の中で、日本100名城のスタンプを押すことができます。
図案はこの稲荷櫓ですかね? 外からの風景ですが、そういえばこの角度からの稲荷門は見ていませんね。

石を割るための矢穴があけられた石垣も展示されています。

稲荷櫓から見る天守台。

稲荷櫓の南側の広場。

広場の北側には二重の石垣があります。
解体工事の結果判明したもので、最初の石垣の外側に、改めてもう一つの石垣を積み直したものだそうです。

石垣の上から。

稲荷曲輪から数寄屋曲輪へ下りていきます。

数寄屋曲輪。これは稲荷曲輪方面を見ています。

数寄屋曲輪から鍛冶曲輪を見下ろして。
目の前の平地が鍛冶曲輪で、右の石垣の上が天守曲輪、そのさらに上が本丸になります。
鍛冶曲輪には年貢や作事、普請移管する事務を取り扱う会所(勘定書)があったそうです。

このまま鍛冶曲輪に下りてもいいのですが、一旦稲荷曲輪に戻り、そちらから鍛冶曲輪に下りるための稲荷曲輪門を通っていきます。

稲荷曲輪門を外側から。
この門は江戸時代の火災でも残っており、明治に廃城になった際に破却されましたが、1999年に復元されたものです。

稲荷曲輪門を通って鍛冶曲輪へ下りていきます。

発掘調査によって見つかった、水溜跡。文字通り水をためておくための所ですが、何のためのものなのかは、正確には分かっていないそうです。
しかし、金魚が泳いでいるとあんまり遺構に見えませんね。

鍛冶曲輪から数寄屋曲輪を見上げて。
右側の角の辺りに数寄屋櫓(巽櫓)があり、古写真にも残っていて、明治期までは残っていたそうです。

鍛冶曲輪から、本丸を見上げて。

舞鶴城公園の南にかかる遊亀橋を渡って、一旦公園の外へ。

甲府城の南側を守る、中堀跡。

この鶴の像は、元々大正天皇の即位記念として造られたものでしたが、戦争の際に取り壊されました。しかし山梨県かいじ国体を記念して再現されたものです。噴水はありませんけどね。

枯山水の日本庭園。
解説板があったかどうか不明なのですが、多分、比較的近年になってから造られたものじゃないでしょうか。

鍛冶曲輪をずーっと西に移動して、舞鶴城公園の南西隅へ。ここには鍛冶曲輪門があります。
今は残っていませんが、現在山梨県庁ある辺りにあった楽屋曲輪へ通じる門です。

鍛冶曲輪門を外側から。

鍛冶曲輪から二の丸へと移動します。左へ行くと鍛冶曲輪門、右へ行くと二の丸に通じています。
正面の壁が途中でブツ切りになっていて、舞台のセット感が凄いですね。

二の丸へと通じる、坂下門跡。左へ行くと二の丸、右へ曲がっていくと天守曲輪から本丸へと通じています。

二の丸には武徳殿があります。
1933年に建てられたもので、現在も武道場として使用されています。

二の丸の南側は立ち入り禁止になっています。はっきりと憶えていませんが、まだ調査中だったか、発掘したものを一時的においている場所だったか、そんな感じだったと思います。

天守曲輪へ上っていきます。
ちゃんとした写真を撮っていませんでしたが、この階段を登り切ったところが天守曲輪で、そこから左側の階段を上っていったところが本丸となっています。

天守曲輪から本丸へ。ちょっと新しいこの門は鉄門(くろがねもん)。これも火災の難を逃れ、明治まで生き残り破却されたもので、2013年に復元されました。
甲府城には火災での焼失を免れた建物も結構あるのですが、それらもみんな、明治に1回破却されています。もったいなくはあるのですが、現在復元されているのは大体そういった経緯の建物なので、復元するにしても明治期まで残ってある程度資料が存在するということが重要なんですよね。

鉄門をくぐって本丸へ。
本丸の東側には、天守台があります。

天守台からは、広く四方を見渡すことができます。こちらは南の鍛冶曲輪方面で、鉄塔と少し重なっていますが、正面に富士山が見えます。
なお、ここは「甲府駅周辺からの富士」として、なぜか128あることでおなじみの関東の富士見百景の一つに選定されています。

本丸から少し稲荷櫓方面に下りたあたりから見上げる天守台。

本丸北側の本丸櫓跡。
石垣の内部に水が溜まるのを防ぐため、中に排水のための暗渠が造られているそうです。

そして、いままで載せてきた写真にもチラチラ写り込んでいましたが、本丸の片隅にそびえ立つ巨大オベリスク。こいつ、めちゃくちゃ目立つので、甲府城跡に来てからずっと気になっていたんですよね。
コレの正体は「謝恩碑」。明治44年に、山梨県内にあった皇室の山林を山梨県に下賜されたことを記念して建てられたのだそうです。
皇室関係だし、これ自体まあまあ歴史もあるし、あんまりケチをつけるのも憚られるのですが、甲府城と関係ないどでかい建造物を本丸に建てちゃうのもどうなんですかね。もうちょっとささやかだったらまだいいんですけどね。甲府城の天守が復元されていないこともあって、どうしても甲府城のシンボル的なものに見えちゃうんですよね。

本丸から北西側へ下りる、銅門(あかがねもん)跡。

銅門から下りて、南へ行けば二の丸方面に出ます。そのまま北西へ下りていくと、内松陰門(うちまつかげもん)から公園の外へ出ます。今は痕跡はありませんが、ヨドバシカメラのあたりが、かつての屋形曲輪になります。

本丸方面を見上げて。

内松蔭門へ。ここも明治まで残っており、1999年に復元されました。

外から見た内松陰門。
これで一通り舞鶴城公園の中を見て回りましたが、甲府城の遺構は公園の外でもまだ見ることができます。
まずは近くにある「山梨県防災新館」の地下にある、甲府城石垣展示室へ。
普通に大きな商業ビルの地下にあって、エレベーターで下りないといけないのに特に案内板的なものも無かったので、入っていくのがちょっとためらわれました。
山梨県防災新館を建設する際に発掘調査を行ったら石垣が出てきたらしく、その石垣が移築されています。移築と言っても屋内の部屋の中なので、ちょっと変な雰囲気ではあります。それでも結構でかでかと置かれているので、割と見ごたえはあります。
そして、甲府駅を通り抜けて、中央本線の北側へ。駅のすぐ近くにある甲府市歴史公園に、山手渡櫓門と、山の手門が復元されています。

こちらは山手渡櫓門。山の手門は甲府城の北側にあり、大体この辺りに位置していました。櫓の中は武器庫なっていたようです。

山手渡櫓門に入って、内側から。

90°横を向くと、山手門があります。

山手門を外から眺めて。

櫓門の中は展示室になっていて、甲府城に関する展示があります。入場は無料です。
また、展示室を通り抜けて、門の上に出ることもできます。

屋根の上というか、屋根の裏というか、壁の外側にある構造物の上、ですかね。

屋根の上から山手門を見下ろして。
めちゃくちゃ駅近で行きやすい城跡。駅前の公園化している城跡なので、もっと遺構は少なめかと思っていたのですが、かなり状態良く残っていますね。櫓や門など復元されているものもありますし、多層的に連なる石垣も見ごたえがありました。
駅前の観光地なんですけど、観光客の他にも、散歩したりのんびりしたりしている地元の人っぽい人も多かったですね。なんとなくのどかな雰囲気で、近くにあったらちょいちょい訪れたくなりそうです。
ただ、一つ言うなら、やっぱりあのオベリスク、邪魔なんだよなー。もうちょっと別のところに建ててくれていればよかったんですけどねー。
武田氏の滅亡と本能寺の変が立て続けに起こった後、天正壬午の乱を経て甲斐は徳川の支配地となります。その徳川も北条征伐の後に江戸へ国替えとなり、その後は豊臣配下の大名が入ることになります。徳川時代にも甲府城の建築計画自体はあったようなのですが、豊臣時代に甲斐の新たな中心として甲府城が築かれたようです。
江戸時代になると甲府には家康の八男・仙千代が入りますが、仙千代はすぐに亡くなってしまいます。その後には家康の九男・義直が入りますが、義直も数年後に尾張へ移封。次いで徳川秀忠の三男・忠長が入りますが、素行不良のため改易。結局甲斐は、幕府の直轄領となります。
1651年に徳川家光の三男・綱重が入り、甲府藩が成立します。しかし甲府徳川家は家康の直系だったこともあり、綱重の長男・綱豊は継嗣のいなかった5代将軍・綱吉の後継者に指名されます。綱豊は家宣と改名して江戸城に入り、家宣に代わって綱吉の側用人だった柳沢吉保が甲府に入ります。
しかし吉保の長男・吉里の代になると、享保の改革により柳沢家は大和郡山に国替えとなり、甲府は再び幕府の直轄領になります。大火があって御殿などが焼失したりもしましたが、そのまま幕末を迎えることになります。
幕末には、甲州鎮撫隊と名を変えた新選組が入って官軍と一戦交える予定だったのですが、官軍の動きが一歩早く、甲州鎮撫隊が到着する前に甲府城は無血開城して官軍の手に渡り、戦の舞台にはならずに済みました。
1873年に廃城。現在は舞鶴城公園として整備されています。

JR中央本線の甲府駅からスタート。そもそも、甲府駅も甲府城の中なんですけどね。

甲府駅前には武田信玄の銅像があります。
結構でかくて迫力があります。甲府城と直接は関係ない人ですけどね。

甲府駅から徒歩1、2分くらいで舞鶴城公園の北西部に到着します。激近です。中央本線で甲府に来ると、電車の中からもこの石垣がよく見えます。
甲府城は、白い城壁が重なり合う様子から舞鶴城とも呼ばれていたそうです。残念ながら、今はその白い城壁は一部分しか見ることはできません。


入ってすぐのところにあった案内板。
稲荷曲輪、稲荷櫓、数寄屋曲輪、鍛冶曲輪、二の丸と外側をぐるっと回って、最後に本丸から天守へ行くという感じですかね。

本丸の北にある、稲荷曲輪。奥に見えるのは稲荷櫓です。

稲荷曲輪にある井戸跡。

これはただのトイレです。

稲荷曲輪から本丸へ上っていくルートもあるのですが、こちらは後回し。

城の北東部を守る、稲荷櫓。元は武具蔵として使用されていたもので、2004年に再建されました。

稲荷櫓の中は展示場になっていて、甲府城に関するあれやこれやが展示されています。入場は無料です。

稲荷櫓の中で、日本100名城のスタンプを押すことができます。
図案はこの稲荷櫓ですかね? 外からの風景ですが、そういえばこの角度からの稲荷門は見ていませんね。

石を割るための矢穴があけられた石垣も展示されています。

稲荷櫓から見る天守台。

稲荷櫓の南側の広場。

広場の北側には二重の石垣があります。
解体工事の結果判明したもので、最初の石垣の外側に、改めてもう一つの石垣を積み直したものだそうです。

石垣の上から。

稲荷曲輪から数寄屋曲輪へ下りていきます。

数寄屋曲輪。これは稲荷曲輪方面を見ています。

数寄屋曲輪から鍛冶曲輪を見下ろして。
目の前の平地が鍛冶曲輪で、右の石垣の上が天守曲輪、そのさらに上が本丸になります。
鍛冶曲輪には年貢や作事、普請移管する事務を取り扱う会所(勘定書)があったそうです。

このまま鍛冶曲輪に下りてもいいのですが、一旦稲荷曲輪に戻り、そちらから鍛冶曲輪に下りるための稲荷曲輪門を通っていきます。

稲荷曲輪門を外側から。
この門は江戸時代の火災でも残っており、明治に廃城になった際に破却されましたが、1999年に復元されたものです。

稲荷曲輪門を通って鍛冶曲輪へ下りていきます。

発掘調査によって見つかった、水溜跡。文字通り水をためておくための所ですが、何のためのものなのかは、正確には分かっていないそうです。
しかし、金魚が泳いでいるとあんまり遺構に見えませんね。

鍛冶曲輪から数寄屋曲輪を見上げて。
右側の角の辺りに数寄屋櫓(巽櫓)があり、古写真にも残っていて、明治期までは残っていたそうです。

鍛冶曲輪から、本丸を見上げて。

舞鶴城公園の南にかかる遊亀橋を渡って、一旦公園の外へ。

甲府城の南側を守る、中堀跡。

この鶴の像は、元々大正天皇の即位記念として造られたものでしたが、戦争の際に取り壊されました。しかし山梨県かいじ国体を記念して再現されたものです。噴水はありませんけどね。

枯山水の日本庭園。
解説板があったかどうか不明なのですが、多分、比較的近年になってから造られたものじゃないでしょうか。

鍛冶曲輪をずーっと西に移動して、舞鶴城公園の南西隅へ。ここには鍛冶曲輪門があります。
今は残っていませんが、現在山梨県庁ある辺りにあった楽屋曲輪へ通じる門です。

鍛冶曲輪門を外側から。

鍛冶曲輪から二の丸へと移動します。左へ行くと鍛冶曲輪門、右へ行くと二の丸に通じています。
正面の壁が途中でブツ切りになっていて、舞台のセット感が凄いですね。

二の丸へと通じる、坂下門跡。左へ行くと二の丸、右へ曲がっていくと天守曲輪から本丸へと通じています。

二の丸には武徳殿があります。
1933年に建てられたもので、現在も武道場として使用されています。

二の丸の南側は立ち入り禁止になっています。はっきりと憶えていませんが、まだ調査中だったか、発掘したものを一時的においている場所だったか、そんな感じだったと思います。

天守曲輪へ上っていきます。
ちゃんとした写真を撮っていませんでしたが、この階段を登り切ったところが天守曲輪で、そこから左側の階段を上っていったところが本丸となっています。

天守曲輪から本丸へ。ちょっと新しいこの門は鉄門(くろがねもん)。これも火災の難を逃れ、明治まで生き残り破却されたもので、2013年に復元されました。
甲府城には火災での焼失を免れた建物も結構あるのですが、それらもみんな、明治に1回破却されています。もったいなくはあるのですが、現在復元されているのは大体そういった経緯の建物なので、復元するにしても明治期まで残ってある程度資料が存在するということが重要なんですよね。

鉄門をくぐって本丸へ。
本丸の東側には、天守台があります。

天守台からは、広く四方を見渡すことができます。こちらは南の鍛冶曲輪方面で、鉄塔と少し重なっていますが、正面に富士山が見えます。
なお、ここは「甲府駅周辺からの富士」として、なぜか128あることでおなじみの関東の富士見百景の一つに選定されています。

本丸から少し稲荷櫓方面に下りたあたりから見上げる天守台。

本丸北側の本丸櫓跡。
石垣の内部に水が溜まるのを防ぐため、中に排水のための暗渠が造られているそうです。

そして、いままで載せてきた写真にもチラチラ写り込んでいましたが、本丸の片隅にそびえ立つ巨大オベリスク。こいつ、めちゃくちゃ目立つので、甲府城跡に来てからずっと気になっていたんですよね。
コレの正体は「謝恩碑」。明治44年に、山梨県内にあった皇室の山林を山梨県に下賜されたことを記念して建てられたのだそうです。
皇室関係だし、これ自体まあまあ歴史もあるし、あんまりケチをつけるのも憚られるのですが、甲府城と関係ないどでかい建造物を本丸に建てちゃうのもどうなんですかね。もうちょっとささやかだったらまだいいんですけどね。甲府城の天守が復元されていないこともあって、どうしても甲府城のシンボル的なものに見えちゃうんですよね。

本丸から北西側へ下りる、銅門(あかがねもん)跡。

銅門から下りて、南へ行けば二の丸方面に出ます。そのまま北西へ下りていくと、内松陰門(うちまつかげもん)から公園の外へ出ます。今は痕跡はありませんが、ヨドバシカメラのあたりが、かつての屋形曲輪になります。

本丸方面を見上げて。

内松蔭門へ。ここも明治まで残っており、1999年に復元されました。

外から見た内松陰門。
これで一通り舞鶴城公園の中を見て回りましたが、甲府城の遺構は公園の外でもまだ見ることができます。
まずは近くにある「山梨県防災新館」の地下にある、甲府城石垣展示室へ。
普通に大きな商業ビルの地下にあって、エレベーターで下りないといけないのに特に案内板的なものも無かったので、入っていくのがちょっとためらわれました。
山梨県防災新館を建設する際に発掘調査を行ったら石垣が出てきたらしく、その石垣が移築されています。移築と言っても屋内の部屋の中なので、ちょっと変な雰囲気ではあります。それでも結構でかでかと置かれているので、割と見ごたえはあります。
そして、甲府駅を通り抜けて、中央本線の北側へ。駅のすぐ近くにある甲府市歴史公園に、山手渡櫓門と、山の手門が復元されています。

こちらは山手渡櫓門。山の手門は甲府城の北側にあり、大体この辺りに位置していました。櫓の中は武器庫なっていたようです。

山手渡櫓門に入って、内側から。

90°横を向くと、山手門があります。

山手門を外から眺めて。

櫓門の中は展示室になっていて、甲府城に関する展示があります。入場は無料です。
また、展示室を通り抜けて、門の上に出ることもできます。

屋根の上というか、屋根の裏というか、壁の外側にある構造物の上、ですかね。

屋根の上から山手門を見下ろして。
めちゃくちゃ駅近で行きやすい城跡。駅前の公園化している城跡なので、もっと遺構は少なめかと思っていたのですが、かなり状態良く残っていますね。櫓や門など復元されているものもありますし、多層的に連なる石垣も見ごたえがありました。
駅前の観光地なんですけど、観光客の他にも、散歩したりのんびりしたりしている地元の人っぽい人も多かったですね。なんとなくのどかな雰囲気で、近くにあったらちょいちょい訪れたくなりそうです。
ただ、一つ言うなら、やっぱりあのオベリスク、邪魔なんだよなー。もうちょっと別のところに建ててくれていればよかったんですけどねー。
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