かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

終戦の日の思い出

2014-10-22 | 気ままなる日々の記録

 

昭和20年8月15日、オソマツ君は小学校3年生だった。だから夏休み中ということだ。この日正午から大切な放送があるのでラジオを聞くようにという知らせがあったようで、前の家(うち)のオジサンとオバサンが家へ来ていた。何でも前の家はラジオの調子が悪くて雑音が多く、聞きとりにくいとかだった。それに便乗して近所のオバサンも幾人か家へ来ていた。ラジオで何かよくわからないことを言ったらどうすればいいか、うちのお爺ちゃんに聞こうという魂胆だったそうだ。そのお爺ちゃんは、出かけていて、間もなく正午だというのにまだ家に帰っていなかった。家には祖母と両親、兄と妹がいた。一番よく覚えていることは、放送が始まったら大人たちが急に「気を付け!]をしてラジオに向かって礼をしたことだ。ラジオでそうするように指示されたようだったが、オソマツ君は近所のおばさんたちを見ていて聞きもらしていた。ただよく覚えていることはおばさんたちが急に姿勢を正しラジオに向かって最敬礼をするという異様な雰囲気だったことである。そのうちに聞こえて来たのは奇妙な声と変な抑揚の声だった。この放送のことを玉音放送という。昭和天皇が直接マイクの前にお立ちになり『終戦の詔勅をお読みになった声の録音盤の放送だった。天皇は皇居内の神社で祝詞をお読みになるようにお読みになったとかで、よく聞き取れなかった。それで、放送が終わった時も大人たちはキョトンとしていた。『ほんで、なんだった?』と誰かが言ったら父が「戦争が終わったようだ。日本が負けて」と云った。またみんな、キョトンとしていた。

 オソマツ君がよく覚えていることはその日の夜から「燈火管制」が無くなり部屋の中が急に明るくなったことだ。「燈火管制」が分からない人も多いだろう。家内も知らないという。「燈火管制」というのは。夜電灯の明かりが外に漏れないように白熱球とその上にあった傘に黒い布のスカートをはかせて光が屋外に漏れないようにすることである。夜空襲に来た敵機に住宅のありかを知られないようにするためである。

 このころは、毎夜空襲があった。空襲と云えばオソマツ君は昼間の空襲二つと夜の空襲一つをよく覚えている。警戒警報が発令されると役場の屋根の上にあったサイレンがなり授業は打ち切り、生徒は急いで帰宅した。その日帰宅後、家で遊んでいると友達が来て『火の見櫓に少し登ると名古屋の空襲が見えるそうだ、観に行こう。と誘ってくれた。急いで付いて行って火の見櫓に少し登って南を見るとまっすぐに伸びた白煙が見えた《御嶽山の白煙に似ていた》後日聴くと名古屋城の天守閣が空襲でやられたとのことだった。(昭和20年5月14日》あの時の煙の形は今もよく覚えている。二つ目の昼空襲は昭和20年6月22日の各務原飛行場の爆撃である。ここには陸軍の飛行場があって関連施設も多く集中的に爆弾攻撃を受けた。このときは爆弾の炸裂音まで聞こえた。立ち上る砂煙は我が家の裏からよく見え炸裂音が聞こえると恐怖で体が震えた。夜の空襲は昭和20年7月28日の一宮の炎上である。夜、西の空が真っ赤になっていた。

 夜空襲警報が出ると子供たちは防空壕に入ることになっていたが我が家の防空壕は藪の中にあり夏場はあまり入らなかった。藪の中に掘った横穴は竹の根によって天井が崩れ落ちないのでいいと褒められていたが、藪の中の穴には夏の間は蛙、蛇、ムカデが出るので注意が必要だ。蚊も実に多かった。明るいうちによく点検をして中で蚊取り線香に点火しておき、新しい蓆を敷いておく必要がある。蚊取り線香を焚いておくと蛇も蛙もムカデも出ない。

 一宮空襲の夜は裏の田圃の方へ廻って西空を見ていた。恐ろしさでガタガタ震えていた。舞い上がる火の粉までみえた気がする。この夜流れ弾が浅井町や古知野町に落ち、消防車(消防団の人たちによる人力消防車)も走った。

 後日母が罹災した一宮の親戚の家に届けるために衣類や食料品を自転車の後ろに積んで出かけた。その帰りに道に落ちていたと云って焼夷弾の燃えカスを拾ってきた。私たちに見せるために。長さが6~70センチの六角柱で六角形の外接円の半径は5~6センチだった。こんなものに油をつめて空からばらまき火を点けられては木と紙で作られた日本の家は堪らない。この拾得物は後日鍛冶屋さんに持って行って大きな塵取りに再加工されつい先日まで使っていた。

 オソマツ君は日本はどうして勝てるはずがない戦争に 突入していったのか軍縮問題か、満州放棄の問題か、我が国のリーダーたちは何を考え、どこで判断を間違えたのか知りたいと思う。世に云われている一部の軍人たちの所為だけではないような気がする。(立花隆の名著『天皇と東大』参照)外交も実にまずかった《今もそうだが)と思える。賢兄がよくいうように「人間は見たいものしか見ない(シーザーの言葉)」からだろうか。日本人はとくにそのようだ。

 翌16日は登校日だった。最初に朝礼集会があった。整列が終わると『皇居遥拝』の号令がかかる。全生徒がサッと東を向く。「礼!」の号令によって、最敬礼をする。天皇陛下への忠誠を誓う意味である。「直れ!」の号令で指令台の方へ向き直る。「学校長訓辞」で、この日は校長先生に代わって教頭先生が登壇され、マイクの前で悲痛な声をあげられた。「日本は戦争に負けました!」しかし天皇陛下のお言葉にあったように「堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び「、なお日本人としての誇りを失うことなく。祖国再建のために頑張らなければなりません。皆さんがしなければならないことはよく勉強することと、お父さんお母さんのお手伝いをよくすることであります。明日からと云わず今日から力一杯頑張ってください」と云われたこの「堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」、はしばらく流行語になった。朝礼が終わって教室に入ったら担任の先生がお見えになりお話しされた。先生はお若い女の先生でしたが、何度も声を詰まらせ、涙を流して「日本は負けました」と云われました。生徒たちは先生の目から大粒の涙が零れ落ちるのをはじめて見て、どうやら大変な事が起こったらしいとは思いましたが、どうして先生がこんなに泣かれるのかわかりませんでした。生徒たちは、喧嘩でも負けた方が泣くから、日本が負けたなら日本は泣かなければいけないのかなあ、といった程度の理解しかできませんでした。

その後猛烈なインフレ・食糧難が日本を襲い、旧円封鎖・食糧配給制(これは戦争中から)など、直接死活につながる難問が大人たちを襲いますが、幸い我が家は、自作農の端くれとして田畑を耕していたので子どもたちは食糧難も何も知らずに育つことができた。
 どうして戦後食糧難になったか。主な理由は農家の働き手が兵隊に取られて戦死して生産力が急激に落ちたためである。どうして急激なインフレになったのか。数年前、日米戦争を想定した政府は利率の良い短期国債を発行して民間から円を集めそれで軍備を増強しました。その国債が満期を迎え債権と引き換えに大量に円が市中に流れ込んだためです。そこで政府は1946年2月16日付けで閣議決定《国会審議なし》で金融緊急措置令をだし①旧紙幣の流通停止②預金封鎖③国債等の支払い猶予④新紙幣の発行等の政策を決定・発表しました。銀行預金の引き出しにも家族の人数によって一か月月の上限が設けられその金額分の証紙が発行され従来の紙幣でもこの証紙が貼られておれば有効とするという臨時措置も実行されました。大量の国債発行や金融緩和政策が何をもたらすか日本人は終戦直後によく学習しました。また、
この旧円に貼る証紙の横流しの噂がたえませんでした。今では銅貨になって小銭入れの中でじゃらじゃらしている十円ですが戦後のインフレ前までは立派なお札で今の千円札のように財布の中で大切に挟まれていました。旧拾円札がもっと重々しかったので発行当時は悪評でした。ネットで旧十円札として検索すると古紙幣市場へたどり着き懐かしい紙幣の図版を多く見ることができます。参考までに書きました 


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