かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

舞露愚事始め

2011-02-04 | 随想

舞露愚(ブログ)事始め 

 

 

インターネット上で溢れているブログに「愚かさを露出して、それでも、楽しく舞うもの」という意味を込めて、こんな字を当ててみました。その上、その愚かな舞を私も始めてしまいましたので、その経緯と効用を初心者の目で書いてみます。

ブログとは何のことでしょう。実は英語の造語で、インターネット(Wb)上で記録(Log)するという意味で初めはWb log(ウェブログ)と呼ばれていた分野が、いつの間にか短縮されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになったものです。ちなみにLogの意味は、①丸太、②航海日誌、③運転記録、などです。つまりログ・ハウスのログに日誌とか記録という意味もありました。しかし、これではまだ何のことか分かりません。手短に命名すれば「公開日記」のことです。

ブログの最大の特徴は筆者の匿名性と読者の不特定多数性ということでしょう。中にはタレントや政治家・評論家などが実名でブログを出している場合もありますが、圧倒的に多いのは簡単なプロフィールとニックネームで公開している人たちです。

作り方は簡単です。トイレット・ペーパーのような長い巻紙を思い浮かべて下さい。最初に、筆者だけが書き込めるようにパスワード決めて登録します。続いて、業者が用意した表紙の写真やページのレイアウトなど指定し、タイトル入力すると、自動的に目次や索引が表示されます。つまり、これだけでもう「公開日記」の装丁ができあがりました。後は、中央部分にお気に入りの写真を載せたり文章を書き込んだりすれば完成です。出来上がったブログは、インターネット上の巨大な無料公開図書館に並べられます。こうした図書館は世界中に沢山あって、例えばヤフーやグーグルにも日本語対応コーナーが用意されていまが、私はNTT系の「goo:グー」を使っています。実は、この図書館は上記の巻紙、つまり書き込むだけでカッコいい日記帳になるノートを無料で貸してくれるのです。業者は、ブログの両サイドに企業の広告を小さく載せ、その広告料で儲けています。

 

最初に書きましように、ブログは今、日本中に溢れています。最近の話題と言えば「毎日新聞英語版事件」でしょうか。「ちょっと見てよ。許せない!」とブログで若い女性が声をあげました。対象は毎日新聞社が海外向けに英語で配信している『毎日デイリーニュース』で、そこには「ファストフード店で女子高校生が性的狂乱」とか「息子の成績向上のために、勉強時間の前に性的関係をもつ母親」とかいう低俗な記事が溢れていました。最初のブログを見た読者が『毎日デイリーニュース』で確認し、自分のブログにも「許せない!」と書きました。こうして英字紙を気楽に読む女性たちの怒りは頂点に達します。「日本人を貶めている」「三大紙の一つが何たることか」。そんな中で「この英語版に広告を出している企業に抗議と不買のメールをしよう!」と呼びかける人が現れ、この提案が爆発的な支持を集め広告主へ抗議が殺到、ついに企業は広告掲載を中止します。ちょっとお粗末なのは当の毎日新聞で、事態の推移にまったく気づかず、どう対処すべきかも分からぬまま時間を浪費しました。労組の中には「報道の自由」を盾に担当のオーストラリア人記者を守ろうとする声もあったとか。途中で「毎日新聞は名誉棄損など、明らかな違法行為に対しては、法的措置を取る方針」という声明を出したから治まりません。炎はますます燃え上がり、結局、担当記者が懲戒休職3ヵ月、担当常務も減給となりました。この事件以後も「ブログ論壇」ともいうべき世界は盛況で、中国漁船衝突映像や米国公文書の漏洩事件も、こうしたブログ世界でのありふれた小さな出来事の一つと見るべきでしょう。[参考文献:文春新書「ブログ論壇の誕生」佐々木俊尚著]

 

それはさておき、現在一番多いグログは、猫や犬などペットの日常を紹介するもの、外食した料理を写真入りで論評したもの、自宅の庭の草花を自慢げに公開しているものなど、いかにも庶民的な自画自賛型のブログです。読んでいてそれほど面白くもありませんが、書いている人は多分ワクワクして書いているだろうなあと思えるものたちです。自画自賛型のブログは、あるいは、路傍の名もなき小さな草花にも似て、道行く人は誰も目にとめてくれませんが、一生懸命咲いている、と言えるかもしれません。そして私が始めたブログも、もちろんこの自画自賛型で、昨日こんな庭仕事をしたとか最近こんなことを思っているということを淡々と書いています。

 私は、自分のブログのタイトルと接続方法を、兄と子どもたち及び親しい友人に知らせています。千葉と兵庫に住む子どもたちへの近況報告であり、兄や友人への心境報告でもあるのです。ブログのいいところは、電話や手紙あるいはメールと違って押しつけがましくない点です。子どもたちは、私のブログを見ているのかいないのか、会ったときも直接話題にすることはありません。しかし、帰省して夕餉の食卓で杯を汲みかわしている時などに、突然「『聞く』と『訊く』くらいはきちんと使い分けてよ」とか「うちの生垣はイヌマキだよな」と言うのは子どもたちだし、「接ぎ木をした柿の木を見せてよ」というのは我が家に立ち寄った兄嫁です。こんな時、一瞬戸惑いますが、すぐにブログに書いたことを思い出し、なぜか訳もなく嬉しいものです。

 

 私がブログを始めたのは、近くに住む84歳の「野菜作りの師匠」に教えて貰ったからです。この人の職業は農業兼撚糸業、74歳のときにワードを覚え、「これは面白い!」とパソコンを購入、基本操作を自学自習。2年後にはブログを開かれました。私は数年前、この人と一緒にある仕事をしたのを機会に親しくなり、それ以後この人を野菜作りの師匠と仰ぎ、季節ごとに、播種・施肥・耕作と何から何まで教えを乞うようになっていました。ある時師匠が「わし、ブログをやっとるで、見てちょう」とのこと。見せて頂くと、農作業や野菜の生育状況が写真入りでていねいに書いてありました。とくに使った肥料の袋や散布した薬剤の瓶の写真などは、本当にありがたい教科書です。この人のブログの定期閲覧者は今では1000人を超えているとのことです。

 

 分析哲学の泰斗大庭健氏の著書に『私はどうして私なのか』(岩波現代文庫)という名著があります。私たちの世代は、自我について、デカルトの「われ思う、ゆえに我あり」から始まると教わったものですが、どうやらそれは間違いのようです。詳しくは本書に譲るとして、正しくは、まず他者の存在を認識し、その他者が自分をどう見ているかを考える中で自我が芽生える、というのです。つまり「他者あり、ゆえに我あり」だというのです。世俗を捨て、孤独を愛し、独自の美意識の中で日常を過ごそうとする自我も、実は他者の存在を意識しての自我であるという指摘には、重いものがあります。「人間は社会的な存在である」と言われる所以です。

悪化する自分の病状を克明に報告しているブログもあります。ブログを始めたら、草花や昆虫を見る目が冴え、日々が発見の連続であると書いている高齢者のものもあります。そうしたブログには出会った時は、自ずと頭が下がります。

 私たちの世代は今、未だ経験したことのない年齢を積み重ねながら毎日を送り、そのことを意識する年齢になりました。その上、私たちを取り巻く「世の中」は世界的な怒涛にさらされ大きく変貌しつつあります。そしてこの変貌は、誰の性でもないのに、私たちが今まで安心して身を置いていた「人の(ぬく)もり」という台地を揺るがし、身を寄せていた「常識としての価値観」という柱さえ引き抜こうとしています。こんなとき「ブログを書く」ということは、改めて自分の毎日を確認し、時には鳥の目で自分を眺めて見るということ役立つのではないか、毎日充実呼び寄ないか、と考えています。ブログ更新200閲覧者訪れてくだってい

これからブログをお始めになる会員の方、もしよろしかったらそっとアドレスを教えて頂けませんか。私もお教えします。

 

(本稿は、所属する同好会の機関紙に寄せた一文を、一部加筆・修正したものです)