100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(1)
吉祥寺にある行きつけの古書店。その廉価本の棚で、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』(200年朝日選書)を見つけて購入した。値段は僅か100円。ちなみに定価は1200円+税である。
この本の著者である武田佐知子氏は、大阪外国語大学教授。日本古代史を専攻する歴史学者である。本書は、歴史家の目から見た母親武田道子(1996年に死去)の一生をたどったものである。結婚前は女学校教師、結婚後は永らく専業主婦として5人(1男4女)の子供を育て、サラリーマンの夫に”仕え”(著者はこの用語を使っている)、生涯を終えた。ほぼ子育てを終えてから高校の講師をつとめ、短歌に書道に才能を発揮。一人の人間として常に向上心をもち自己実現させていく。
この女性の生涯を、第三者が読んで、何が面白い。そう考えるのが当たり前かもしれない。しかし、本書の原型は朝日新聞大阪版の夕刊に1997年4月3日から10月30日まで30回にわたり掲載された「母の履歴書」に手を加えたもの。もともと、一般読者を対象とした読み物として書かれた。1冊の本として十分読み応えはある。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(2)
当初、著者は母の残した短歌の遺作集を編纂しようと考えていていた。ところが、作品を探す過程で、木製のみかん箱に収納された母の日記、小学校から女学校を経て女子師範学校在学中の日記、結婚前に夫となる人に出した手紙の下書き等の史料が出てきた。戦災や度重なる転居に関わらず生き残った史料の数々。その中には、母が語ることのなかったことが凝縮されていた。このことが著者に知的刺激を与え、本書が出来上がった。娘が歴史家であったことから、母の残した史料に基づいてできあがった本書は、女性史、家庭史、教育史という観点から価値ある作品となっている。また、写真(大正15年の小学校の卒業証書など)が多数挿入されていて読者の理解を助け、また本書の資料的価値を高めている。
日記、手紙等の引用もたびたびあり、その点から、故人とはいえプライバシー侵害すれすれという問題もあろうが、実の娘が引用するのだから構わない。そういってもよかろう。著者の母道子は、天国で本書の存在を知り、「いややわ、でもしゃーない」などと、つぶやいているかもしれない。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(3)
さて、本書のページをめくりながら武田佐知子の母松井道子の生涯をたどってみよう。
著者の母である松井道子は、1913年(大正2年)11月に大阪市北区天神橋筋3丁目で漆器道具を商う店を経営する父清三、母ナラエの長女として生まれた。堀川幼稚園、堀川尋常小学校を経て1926年(大正15年)、大阪府立大手前高等女学校に入学する。 女学校1年の夏休み、甲子園の浜で水泳訓練に熱中した。4年生の夏休みには、学校が主催する絵の講習会に参加。指導は後に日展の審査員をつとめた斉藤与里、ヌードモデルを使った本格的なものだった。これは、1939年(昭和4年)のこと、ちょっとビックリというところ。この年、東京に修学旅行。帝室博物館(現東京国立博物館)前で撮影した集合写真が本書には収録されている。
女学校を卒業した道子は奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)に入学する。大手前女学校の卒業生111名中、進学者89名、22名が就職した。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に3名、奈良女子高等師範学校に4名、府立女子専門学校に6名、神戸女学院に4名、東京女子医学専門学校(現東京女子医大)に2名が進学した。当時の奈良女子高等師範学校は、自宅通学が可能であっても寮に入らなければならない。
こんな記録がある。奈良公園で女高師の韓国留学生と京都大学の学生が集会を開いていた。女高師の日本人学生の中には韓国での生活経験があり現地の言葉を解するものがいた。この集会は韓国の独立運動に関するものであったという。一学年上には左翼運動に身を投じ退学処分になった長谷川という学生がいた。これは後年「反戦エスペランティスト」として有名になった長谷川テルのことであることは、容易に推測がつく。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(4)
1935年(昭和10年)、女高師を卒業した道子は広島県立加茂高等女学校の国語科教諭として赴任する。この女学校のある場所は、現在の東広島市。広島大学や空港がある。女学校は、現在広島県立加茂高等学校となっている。武田佐知子は、この地を訪れ、母の教え子たちに面談し母の日記を生情報でh即しているが、この辺りはさすが歴史家の行動力だ。月給は50円。道子は毎月1円ずつ貯金した。その通帳の写真も本書に収録されていた。
このあたりで、『娘が語る母の昭和』の50%ぐらいまできた。まだまだ、これからが面白い。なお、本書には若き女性の悩みや遠い知らない場所で働くことへの不安等メンタルな部分も記載されているが、ここでは省かせてもらう。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(5)
女学校教師になって3年目の1937年10月5日に、道子は「お見合い」をする。相手は西条の出身、東京帝国大学法科を出て大阪海上火災に勤務する武田実郎。道子は心を決める。
その後結婚までの6ヶ月、2人は手紙を交わす。実郎から道子宛の手紙44通が、先に言及した木製のみかん箱から出てくる。それを、娘の佐知子が読んで、この本に引用している。
ブログ読者のみなさん、大切な手紙であっても、頭がしっかりしているうちに処分した方がいいかもしれませんね。今日はこれで終わり。あと40%ぐらい残っている。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(6)
武田実郎と松井道子は1938年4月29日に大阪ガスビルで挙式する。新婚旅行は白浜。女学校は退職、道子は夫とともに東京・渋谷区代官山にある同潤会アパートに住む。偶然にも、私たち夫婦が新婚直後数年間住んだところだ。1970年、大阪万博が開催された年だ。
1944年、実郎の勤務先である大阪海上は旧住友海上と合併、勤務先の社名は大阪住友海上(10年後、住友海上と社名変更、その後三井海上と合併し三井住友海上に)となる。同時に、実郎は大阪に転勤する。住居は阿倍野区北畠。
1948年、三女佐知子(本書の著者)が生まれ、1951年には妹和子が生まれた。道子は一男四女の母となる。このとき37歳。まもなく、道子は短歌を本格的に勉強しようと思い立つ。この時期、一家の住居は埼玉県浦和市。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
1949年、戦争も終わり、生活にもやっと一息。道子は、「妻として母として」ではなく、自分自身の生き方の模索を始める。1951年4女出産。37歳の道子は5人の子の母となる。幸福な一家に見えたが、この頃、夫の健康状態が危ぶまれていた。
限られし父の命を知らずして生まれいでむとする吾子の胎動
これは、4女和子が胎内にいたときの道子の作品である。
4女出産のあと、道子は本格的に短歌をやろうと決心する。
1953年、奈良女高師の同期会の文集(ガリ版刷り)に、道子は「進水風景」という題で七首の短歌を寄せている。以下は、その冒頭の歌。
進水の船見ゆる工場のどの窓にも輝く瞳あり油染みつつ
夫は損害保険会社で海上保険を担当していたようだ。船会社からの招待で夫妻そろって進水式に招待されたのであろう。この時期の住まいは前述のように浦和(多分社宅)。道子39歳。5人の子供は、上から中1、小6、小4、4歳(佐知子=著者)、2歳。小4が、男の子。あとは女子だ。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
僅か100円で買った古本であるが、長時間楽しめる。道子が、歌人五島美代子が主宰する『立春』に参加したのが、1951年頃のこと。この本、母道子が40歳をこえると急に駆け足となる。著者の父が(多分大阪支店に)転勤したので、浦和から兵庫県西宮市に転居した(年月不明)。武田家の5人の子供のうち上から3人までは、県立神戸高校に通う。これは越境入学だが、当時は公然と行われていたので、珍しいことではない。道子は、この高校の書道の教諭だった吉井辰雄について書を習う。
1960年、所謂「60年安保」の頃、道子は毎日新聞(6月15日付)に「東大と京大の女子学生のお母さん」として紹介される。このとき、道子46歳。神戸高校から東大文学部に進み安保騒動の犠牲となった樺美智子。同じく神戸高校から東大に進んだ著者の次姉(武田)玲子のコースの類似性から取材を受けたらしい。
樺美智子の父樺俊雄は、当時中央大学教授(前任は神戸大学教授、専攻は社会学)。「文藝春秋」1960年3月号に「全学連に娘を奪われて」という手記を載せていた。
この記事を私(植村)は読んだ。当時、私は神戸高校3年生であった私は、丁度大学受験の直前の頃。高校の先輩の樺美智子の過激な政治活動を知り、ショックを受けた。しかも、3ヶ月後に起きた樺美智子の死。大学生になったばかりの私は、フランス語の翻訳小説かなんかを読んでいた。突然母が背後から「樺さんが死んだよ」と声をかけた。暗い声だった。あのときの状況は、いまだに忘れられない。時の総理大臣は岸信介。その孫が、あの頼りなかった「僕ちゃん総理」だ。太平洋戦争の戦犯岸信介という人物は、どうも好かん。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
引き続き(植村の)自分史に脱線する。当時、神戸・御影にあった我が家には、まだテレビはなかった。というか、購入直前だった。「樺さんが死んだよ」と勉強中の背後から母が情報提供してくれた。このときの(植村の)母の情報源は、テレビではなくラジオだったと思う。そのことを確認しようにも、私の母はこの世にはいない。
少々、脱線が続いた。次回は武田家に初めてテレビが来たときのことを紹介しよう。
武田家にテレビが入ったのは、1963年。「父が勤める海上保険会社から海難品として払い下げられた、アメリカ産GE社製大型テレビ(中略)ブラウン管のフレームが割れていて、海難品であることをものがたっっていた」と著者は(佐知子)は、回想している。この時期にテレビを買うというのは、”遅い方”だと思う。武田家の方針で、「テレビは教育に悪い」といった考えがあったのだろうか。
道子の夫(著者の父)が勤務する会社の独身寮が駒場にあった。寮生が会社に対して「寮にテレビを置いてほしい」との要請をしたところ「寮は勉強をするための施設であり、テレビは不要」と断られた。そこで、寮生たちがお金を出し合いテレビを買った。そんな”伝説”があった。この時期は、恐らく1963年の頃に違いない。私(植村)は、この会社に1964年4月に入社する。植木等のスーダラ節華やかな時代である。入社時研修の際、文書課長が「サラリーマンは気楽な稼業ではないぞ」と訓示したことを思い出す。もっとも、課長の目は笑っていた。サラリーマンが気楽な稼業と思っているような新入社員はいなかったに違いない。
私(植村)は38年間同じ会社に勤めたが、たった1度だけ(武田家と)似た体験を持つ。火事で焼けたレコード店の商品(ジャケットが消防の注水で水ぬれした)であるレコードを社員に格安で販売したことがあった。そのとき、買ったレコードが1枚あったが、まだ聞いたことがない。LPレコードの時代は終わってしまったことだし、無駄な買い物をしたものだ。約30年前のこと。支払ったのは300円ぐらいだったか。曲目は、誰かが作曲したファゴット協奏曲だったと思うが、「どうでもよい」ことである。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
1964年(昭和39年)、夫の転勤で東京に戻った道子は、神田女子学園・高校で国語科の非常勤講師をつとめる。
高校生急増対策に我が得しは教ふることの喜びにして
これは、その当時の短歌。道子の教師生活は1980年まで。18年間続く。
1989年、金婚記念に出た手作り文集に、道子は「私と書道」という文章を寄稿する。母(道子)の最晩年、佐知子は母に尋ねた。「なぜ、記念の文集にやや趣旨に添わないと思われる書道をテーマにした文章を書いたのか」と。
その回答は、「妻として母として果たして来た役割以外にも、してきたことがある」ということをみんなにわかってもらいたかったからだという。この場合の”みんな”というのは、夫、5人の子供たち、そして孫たちということになる。
道子は、1913年(大正2年)生まれ。教養あるキリリとした女性である。5人の子供の母となり、夫を見送り、1996年に死去した。
なお、冒頭で述べたとおり、この本は僅か100円で吉祥寺の古本屋で購入した。僅か100円であったが、十分楽しませてもらった。道子さん有り難う。気がつけば、あなたは私の父の1歳年上ですね。
吉祥寺にある行きつけの古書店。その廉価本の棚で、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』(200年朝日選書)を見つけて購入した。値段は僅か100円。ちなみに定価は1200円+税である。
この本の著者である武田佐知子氏は、大阪外国語大学教授。日本古代史を専攻する歴史学者である。本書は、歴史家の目から見た母親武田道子(1996年に死去)の一生をたどったものである。結婚前は女学校教師、結婚後は永らく専業主婦として5人(1男4女)の子供を育て、サラリーマンの夫に”仕え”(著者はこの用語を使っている)、生涯を終えた。ほぼ子育てを終えてから高校の講師をつとめ、短歌に書道に才能を発揮。一人の人間として常に向上心をもち自己実現させていく。
この女性の生涯を、第三者が読んで、何が面白い。そう考えるのが当たり前かもしれない。しかし、本書の原型は朝日新聞大阪版の夕刊に1997年4月3日から10月30日まで30回にわたり掲載された「母の履歴書」に手を加えたもの。もともと、一般読者を対象とした読み物として書かれた。1冊の本として十分読み応えはある。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(2)
当初、著者は母の残した短歌の遺作集を編纂しようと考えていていた。ところが、作品を探す過程で、木製のみかん箱に収納された母の日記、小学校から女学校を経て女子師範学校在学中の日記、結婚前に夫となる人に出した手紙の下書き等の史料が出てきた。戦災や度重なる転居に関わらず生き残った史料の数々。その中には、母が語ることのなかったことが凝縮されていた。このことが著者に知的刺激を与え、本書が出来上がった。娘が歴史家であったことから、母の残した史料に基づいてできあがった本書は、女性史、家庭史、教育史という観点から価値ある作品となっている。また、写真(大正15年の小学校の卒業証書など)が多数挿入されていて読者の理解を助け、また本書の資料的価値を高めている。
日記、手紙等の引用もたびたびあり、その点から、故人とはいえプライバシー侵害すれすれという問題もあろうが、実の娘が引用するのだから構わない。そういってもよかろう。著者の母道子は、天国で本書の存在を知り、「いややわ、でもしゃーない」などと、つぶやいているかもしれない。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(3)
さて、本書のページをめくりながら武田佐知子の母松井道子の生涯をたどってみよう。
著者の母である松井道子は、1913年(大正2年)11月に大阪市北区天神橋筋3丁目で漆器道具を商う店を経営する父清三、母ナラエの長女として生まれた。堀川幼稚園、堀川尋常小学校を経て1926年(大正15年)、大阪府立大手前高等女学校に入学する。 女学校1年の夏休み、甲子園の浜で水泳訓練に熱中した。4年生の夏休みには、学校が主催する絵の講習会に参加。指導は後に日展の審査員をつとめた斉藤与里、ヌードモデルを使った本格的なものだった。これは、1939年(昭和4年)のこと、ちょっとビックリというところ。この年、東京に修学旅行。帝室博物館(現東京国立博物館)前で撮影した集合写真が本書には収録されている。
女学校を卒業した道子は奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)に入学する。大手前女学校の卒業生111名中、進学者89名、22名が就職した。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に3名、奈良女子高等師範学校に4名、府立女子専門学校に6名、神戸女学院に4名、東京女子医学専門学校(現東京女子医大)に2名が進学した。当時の奈良女子高等師範学校は、自宅通学が可能であっても寮に入らなければならない。
こんな記録がある。奈良公園で女高師の韓国留学生と京都大学の学生が集会を開いていた。女高師の日本人学生の中には韓国での生活経験があり現地の言葉を解するものがいた。この集会は韓国の独立運動に関するものであったという。一学年上には左翼運動に身を投じ退学処分になった長谷川という学生がいた。これは後年「反戦エスペランティスト」として有名になった長谷川テルのことであることは、容易に推測がつく。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(4)
1935年(昭和10年)、女高師を卒業した道子は広島県立加茂高等女学校の国語科教諭として赴任する。この女学校のある場所は、現在の東広島市。広島大学や空港がある。女学校は、現在広島県立加茂高等学校となっている。武田佐知子は、この地を訪れ、母の教え子たちに面談し母の日記を生情報でh即しているが、この辺りはさすが歴史家の行動力だ。月給は50円。道子は毎月1円ずつ貯金した。その通帳の写真も本書に収録されていた。
このあたりで、『娘が語る母の昭和』の50%ぐらいまできた。まだまだ、これからが面白い。なお、本書には若き女性の悩みや遠い知らない場所で働くことへの不安等メンタルな部分も記載されているが、ここでは省かせてもらう。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(5)
女学校教師になって3年目の1937年10月5日に、道子は「お見合い」をする。相手は西条の出身、東京帝国大学法科を出て大阪海上火災に勤務する武田実郎。道子は心を決める。
その後結婚までの6ヶ月、2人は手紙を交わす。実郎から道子宛の手紙44通が、先に言及した木製のみかん箱から出てくる。それを、娘の佐知子が読んで、この本に引用している。
ブログ読者のみなさん、大切な手紙であっても、頭がしっかりしているうちに処分した方がいいかもしれませんね。今日はこれで終わり。あと40%ぐらい残っている。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(6)
武田実郎と松井道子は1938年4月29日に大阪ガスビルで挙式する。新婚旅行は白浜。女学校は退職、道子は夫とともに東京・渋谷区代官山にある同潤会アパートに住む。偶然にも、私たち夫婦が新婚直後数年間住んだところだ。1970年、大阪万博が開催された年だ。
1944年、実郎の勤務先である大阪海上は旧住友海上と合併、勤務先の社名は大阪住友海上(10年後、住友海上と社名変更、その後三井海上と合併し三井住友海上に)となる。同時に、実郎は大阪に転勤する。住居は阿倍野区北畠。
1948年、三女佐知子(本書の著者)が生まれ、1951年には妹和子が生まれた。道子は一男四女の母となる。このとき37歳。まもなく、道子は短歌を本格的に勉強しようと思い立つ。この時期、一家の住居は埼玉県浦和市。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
1949年、戦争も終わり、生活にもやっと一息。道子は、「妻として母として」ではなく、自分自身の生き方の模索を始める。1951年4女出産。37歳の道子は5人の子の母となる。幸福な一家に見えたが、この頃、夫の健康状態が危ぶまれていた。
限られし父の命を知らずして生まれいでむとする吾子の胎動
これは、4女和子が胎内にいたときの道子の作品である。
4女出産のあと、道子は本格的に短歌をやろうと決心する。
1953年、奈良女高師の同期会の文集(ガリ版刷り)に、道子は「進水風景」という題で七首の短歌を寄せている。以下は、その冒頭の歌。
進水の船見ゆる工場のどの窓にも輝く瞳あり油染みつつ
夫は損害保険会社で海上保険を担当していたようだ。船会社からの招待で夫妻そろって進水式に招待されたのであろう。この時期の住まいは前述のように浦和(多分社宅)。道子39歳。5人の子供は、上から中1、小6、小4、4歳(佐知子=著者)、2歳。小4が、男の子。あとは女子だ。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
僅か100円で買った古本であるが、長時間楽しめる。道子が、歌人五島美代子が主宰する『立春』に参加したのが、1951年頃のこと。この本、母道子が40歳をこえると急に駆け足となる。著者の父が(多分大阪支店に)転勤したので、浦和から兵庫県西宮市に転居した(年月不明)。武田家の5人の子供のうち上から3人までは、県立神戸高校に通う。これは越境入学だが、当時は公然と行われていたので、珍しいことではない。道子は、この高校の書道の教諭だった吉井辰雄について書を習う。
1960年、所謂「60年安保」の頃、道子は毎日新聞(6月15日付)に「東大と京大の女子学生のお母さん」として紹介される。このとき、道子46歳。神戸高校から東大文学部に進み安保騒動の犠牲となった樺美智子。同じく神戸高校から東大に進んだ著者の次姉(武田)玲子のコースの類似性から取材を受けたらしい。
樺美智子の父樺俊雄は、当時中央大学教授(前任は神戸大学教授、専攻は社会学)。「文藝春秋」1960年3月号に「全学連に娘を奪われて」という手記を載せていた。
この記事を私(植村)は読んだ。当時、私は神戸高校3年生であった私は、丁度大学受験の直前の頃。高校の先輩の樺美智子の過激な政治活動を知り、ショックを受けた。しかも、3ヶ月後に起きた樺美智子の死。大学生になったばかりの私は、フランス語の翻訳小説かなんかを読んでいた。突然母が背後から「樺さんが死んだよ」と声をかけた。暗い声だった。あのときの状況は、いまだに忘れられない。時の総理大臣は岸信介。その孫が、あの頼りなかった「僕ちゃん総理」だ。太平洋戦争の戦犯岸信介という人物は、どうも好かん。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
引き続き(植村の)自分史に脱線する。当時、神戸・御影にあった我が家には、まだテレビはなかった。というか、購入直前だった。「樺さんが死んだよ」と勉強中の背後から母が情報提供してくれた。このときの(植村の)母の情報源は、テレビではなくラジオだったと思う。そのことを確認しようにも、私の母はこの世にはいない。
少々、脱線が続いた。次回は武田家に初めてテレビが来たときのことを紹介しよう。
武田家にテレビが入ったのは、1963年。「父が勤める海上保険会社から海難品として払い下げられた、アメリカ産GE社製大型テレビ(中略)ブラウン管のフレームが割れていて、海難品であることをものがたっっていた」と著者は(佐知子)は、回想している。この時期にテレビを買うというのは、”遅い方”だと思う。武田家の方針で、「テレビは教育に悪い」といった考えがあったのだろうか。
道子の夫(著者の父)が勤務する会社の独身寮が駒場にあった。寮生が会社に対して「寮にテレビを置いてほしい」との要請をしたところ「寮は勉強をするための施設であり、テレビは不要」と断られた。そこで、寮生たちがお金を出し合いテレビを買った。そんな”伝説”があった。この時期は、恐らく1963年の頃に違いない。私(植村)は、この会社に1964年4月に入社する。植木等のスーダラ節華やかな時代である。入社時研修の際、文書課長が「サラリーマンは気楽な稼業ではないぞ」と訓示したことを思い出す。もっとも、課長の目は笑っていた。サラリーマンが気楽な稼業と思っているような新入社員はいなかったに違いない。
私(植村)は38年間同じ会社に勤めたが、たった1度だけ(武田家と)似た体験を持つ。火事で焼けたレコード店の商品(ジャケットが消防の注水で水ぬれした)であるレコードを社員に格安で販売したことがあった。そのとき、買ったレコードが1枚あったが、まだ聞いたことがない。LPレコードの時代は終わってしまったことだし、無駄な買い物をしたものだ。約30年前のこと。支払ったのは300円ぐらいだったか。曲目は、誰かが作曲したファゴット協奏曲だったと思うが、「どうでもよい」ことである。
100円の古本、武田佐知子著『娘が語る母の昭和』を読む(7)
1964年(昭和39年)、夫の転勤で東京に戻った道子は、神田女子学園・高校で国語科の非常勤講師をつとめる。
高校生急増対策に我が得しは教ふることの喜びにして
これは、その当時の短歌。道子の教師生活は1980年まで。18年間続く。
1989年、金婚記念に出た手作り文集に、道子は「私と書道」という文章を寄稿する。母(道子)の最晩年、佐知子は母に尋ねた。「なぜ、記念の文集にやや趣旨に添わないと思われる書道をテーマにした文章を書いたのか」と。
その回答は、「妻として母として果たして来た役割以外にも、してきたことがある」ということをみんなにわかってもらいたかったからだという。この場合の”みんな”というのは、夫、5人の子供たち、そして孫たちということになる。
道子は、1913年(大正2年)生まれ。教養あるキリリとした女性である。5人の子供の母となり、夫を見送り、1996年に死去した。
なお、冒頭で述べたとおり、この本は僅か100円で吉祥寺の古本屋で購入した。僅か100円であったが、十分楽しませてもらった。道子さん有り難う。気がつけば、あなたは私の父の1歳年上ですね。