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飯田大火ー昭和22年

2007-10-07 12:15:34 | Weblog
長野県飯田市は、伊那盆地南部にある城下町。江戸時代は城下町。また、交通運輸の要地という性格も備えていた。地場産業が盛んで、水引、元結(もとゆい)、つむぎ、凍豆腐の産地と知られ、近年は電子部品、精密機械工業が発展してきた。既に1937年(昭和12年)に市制を敷いたという伝統ある市である。今年、伊那史学会編『飯田市の70年』(長野・一草社、4286円)という本が出版された。本書の58ページから59ページにかけて「飯田大火」の記録が6枚の写真入りで掲載されている。

1947年(昭和22年)4月20日、午前11時40分、知久町にある八十二銀行の裏手から出火した。市内各地で消火栓が開かれたことから水圧が落ち、初期消火に失敗した。悪いことには、折からの松川から吹き上げる風が勢いを増し、火は四方へ飛び散り、手がつけられない状況になった。「怒号、怒声が飛び交い、猛火を逃れる人々の群れで城下町の狭い路地は大混乱を呈した」と、『飯田市の70年』では当時の状況を物語っている。火は午後8時頃になって、ようやく鎮火した。焼けだされた市民の上に冷たい雨が降り、4月というのに雨は霙(みぞれ)に変わり、更に雪となり非情に降り注いだ。市街地の大部分を焼失した大火であったが、昼間の火災であったため、死傷者の数が少なかったのが不幸中の幸いであった。

飯田大火の焼失面積は約67万平方キロメートルに及んだ。罹災戸数3,577戸、罹災世帯数4,010世帯、17,800人が焼けだされた。損害額は、当時の金額で15億円。この時点で戦後最大の大火であった。この記録は、1952年(昭和27年)の鳥取大火により破られた。前年の7月15日、飯田駅前から出火した198戸を焼失した火災があり、相次ぐ2度の火災により古い城下町飯田の様相は一変してしまう。

復興後の飯田市の市街地は整然と区画され、都市計画のモデルといわれた。また、防火帯に植えられたリンゴ並木は全国的に話題を呼ぶ。このリンゴ並木は、飯田市立飯田東中学校の生徒達の発案に始まり、今日まで幾世代に渡り生徒達自らの手で育てられてきたもの。大火から5年を経た1952年(昭和27年)夏、同中学の松島八郎学校長が、北海道で開かれた全国中学校学校長会に出席した。帰校した校長は、9月の全校朝会で、札幌の町の道路の広く立派なこと美しく涼しげな街路樹が印象的だったことを話した。更に、校長は、飯田市の焼け跡のことにもふれ、街路樹が必要なことを訴えた。ヨーロッパには、リンゴ並木があるという校長の言及もあった。この話が生徒の心を打ち、紆余曲折のすえ、今日に至るまで飯田東中学校は、全校をあげてりんご並木を守り続けている。「並木で町を美しくするだけではなく、心まで美しくしたい」という当時の中学生の思いは現在に至るまで連綿と引き継がれている。