読書と著作

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株式会社アモール・トーワ

2006-05-08 05:11:48 | Weblog
株式会社アモール・トーワの牽引車となったのは、なんといっても代表取締役田中武夫氏の個性・熱意・リーダーシップである。
1970年代から80年代の繁栄を享受していた東和銀座商店街。しかし、相次ぐ大型店の駅前進出に伴い客足は次第に減少、空き店舗が目立つようになる。株式会社アモール・トーワは、このような現状を「何とかしよう」という強い思いから商店街の有志41名の出資により設立されたものである。加えて、「地域の維持・発展のためには、地元の商店街がしっかりしていなければならない」という理念が、この会社には存在する。すなわち、自分たちの利益追求のみを求めて、この会社が設立された訳ではない。遠くまで歩いて買い物に行けないお年寄り、寝たきりや一人暮らしのお年寄り、地域で働く場所を見つけたい障害者やその父兄、母親が働いている小学校低学年の子供たち。これらの人々にとって、地域の商店街は不可欠な存在。また、災害時の助け合いや、不作による米不足の際の「商店と固定客とのあいだの商品の融通」、お祭りや盆踊りに代表される地域のイベント等は、地域の商店街により維持されていく。健康で文化的そして安全な地域住民の生活は、地元商店街が支えているといってよい。残念ながら、このことを当の地域住民が認識しておらず、価格と品揃えが多い大型店に商品・サービスをもとめてしまう。これも現実だ。

東和銀座商店街から魚屋やパン屋が廃業によりなくなってしまう。商店街の魅力が激減してしまう。そんな危機感から株式会社アモール・トーワが設立された。商店街が協同して魚屋やパン屋を維持していこう。そこから始まった事業が宅配弁当(高齢者用・イベント用)の製造・供給、地元周辺の学校給食の受託(現在13校)、ビル管理(清掃等)、商店街の空き店舗を利用した学童保育所と広がっていった。この広がりは一朝一夕に出来上がったものではない。着実に一つ一つの仕事を成し遂げていき、信用を勝ち得ていった株式会社アモール・トーワだからこそ成し遂げられたもの。組織形態は株式会社であるが、「あくなき利潤の追求」は行わない。地域のため、地域あっての商店街だからだ。しかし、会社が経営破綻に陥っては元も子もない。商店街経営者のボランティア精神、パート主体の労働力等様々な努力が重ねられ、これまでの13期中10期が「有配当」となっている。会社が行う多種多様の事業は、有機的に結びついてプラスを生む。廃業した時計店の店主は株式会社アモール・トーワが行うビルメンテナンス事業に転進した。学校給食や宅配弁当の食材は(結果的に)商店街の商店から供給を受けることがあり、これは商店の売り上げ増に結びつく。学童保育のため毎日商店街に来る小学校低学年の生徒たちは、将来の顧客だ。

JR常磐線亀有駅前にある大型店で働く人たちは、しょせんサラリーマン。支店長は顧客の顔を見てはいるが、究極的には「本店」に顔を向けている。採算に合わなければ店舗撤退ということもありうる。そんな「地元無視」は、突如として起きる。そのような体験を経て、株式会社アモール・トーワやその母体の東和銀座商店街の経営者たちの熱い思いは、少しずつ地元に浸透していく。

株式会社アモール・トーワには全国各地の商店街から見学者が来る。田中代表も講演を頼まれる。しかし、第2第3のアモール・トーワが他の地域には生まれていない。形式だけを取り入れようとしても成功には至らない。地域商店街は地域のためには必要不可欠の存在。そのような強い確信と(自分たち目先の利益でなく)「地元のため」という強い思いがなければ成功する訳がない。強力なリーダーシップも不可欠だ。田中武夫氏(滋賀県草津市生まれ)の資質や育った環境、そして八幡商業学校(旧制、卒業時は八幡商業高校)入学時の最初の一ヶ月に徹底的に仕込まれた「商人の魂」。1950年に高校を卒業して勤務した東京日本橋の繊維問屋での10年弱の労働体験。これらが渾然一体となってアモール・トーワを牽引するバックボーンとなっているのだろう。

江戸時代以前から脈々と伝わってきた、いわゆる近江商人の精神とスキル(マーケティング、企業会計、人事管理)。そんな「DNA」のごときものがある。これが田中代表に会ったときの印象である。

(参考)
小倉栄一郎「近江商人の系譜」(1980年・日経新書)によると、日本橋繊維問屋街に滋賀県出身者が多いのは、徳川時代初期に遡る。徳川幕府が江戸開府とともに八幡商人に土地を与えたことに始まる。



神戸時代の小森和子さん

2006-05-08 05:09:35 | Weblog
神戸時代の小森和子さん

「おばちゃま」の愛称で呼ばれていた小森和子さんが今年一月八日に亡くなった。東京生まれ、東京育ちの小森さんが神戸にやって来たのは昭和の初期のこと。外国映画、ダンスが好き。英語、タイプライターが得意。外国にあこがれた小森さんは、横浜で働いてお金をため外国に行こうと考えた。時代背景を考慮すると、「とんでもない」お嬢さんだった訳である。当時、外国へは船で行く。港町横浜で働いてお金をためよう。そう思った。ところが、横浜は東京に近く、両親に連れ戻される可能性が大きい。そこで同じ港町の神戸に行くことにした。神戸では、イギリスの船会社のタイピストとして雇われる。後に秘書に昇格、けっこう良い給料を貰い、オシャレのために出費することもできた。神戸の生活は二十二歳から三十二歳までの十年。ハイカラな港町神戸で「外国の空気」を存分に吸った。これが、戦後になって映画評論家として活躍する下地となったに違いない。
神戸時代の体験については、自伝『流れるままに、愛』(一九八四年、集英社)があり、その中で詳しく述べられていた。また、神戸のタウン誌「神戸っ子」(一九八五年、六月号)に、「第二の青春」というタイトルのエッセイを寄稿している。そこには、中国人の下着専門店、ユーハイム、ドンバル、元町、トーアロード、トーア・ホテル等、神戸時代を回顧した様々なキーワードがちりばめられていた。その頃から、映画は一人で見るのが好きだった由。小森和子さんが、映画評論家としてのスタートを切るのは、戦後東京に戻ってきてからのこと。映画評を書き、淀川長治さんに何度も書き直しを命じられたのも、東京に戻ってきてからのことだ。


『破綻国家の内幕』

2006-05-01 00:54:01 | Weblog
東京新聞取材班『破綻国家の内幕』

サブタイトルに、公共事業、票とカネ、天下り、利権の構造といったキーワードが並ぶ。
本書は元々東京新聞の連載企画として一九九九年十二月にスタートした。当時は小渕内閣が公共工事を中心に大型予算を組もうとしていた時期である。記者たちは、当時の政治の状況に関して “強い危機感”を持つ。これが新聞連載開始の引き金になった。東京新聞(中日新聞)社会部の記者たちは、政・官・財の厚い壁に阻まれながら全国各地に飛び、地道な取材と読者をはじめとする多数の協力者のもと連載を続ける。この連載は好評だった。二〇〇二年夏に角川書店から単行本として刊行され、更に二〇〇五年になって角川文庫の一冊として出版される。
目次を見てみよう。ここでは目次の概要を紹介するより、どんなテーマが並んでいるかを見ていただきたい。

天下り官僚の聖域
諫早湾干拓事業の真相
林業土木事業をめぐる利権構造
建設業保証会社をめぐる権益
近畿郵政局の選挙違反事件
ノルマに苦しむ郵便局員
東北ゼネコン談合の病理
道路ビジネスをめぐる談合疑惑
遠のく地方分権

納税者として、国民として腹が立つばかりである。それにしても、記者たちの取材の肉迫ぶりは素晴らしい。本書に記録されている“事実”の数々を一人でも多くの人に知ってほしい。これが本書を「本とのつきあい」に紹介した動機である。例えば、「建設業保証会社をめぐる権益」(一〇四ページ以下)を見てみよう。
建設業保証会社というのは、一般にはなじみがない。簡単にいうと、公共工事に関する保証ビジネスを行う会社である。官公庁から工事業者に前払いされた工事代金の保証を行う。これが建設業保証会社の業務だ。東日本建設業保証株式会社(本社:東京)、西日本建設業保証株式会社(本社:大阪)、北海道建設業信用保証株式会社(本社:札幌)の三社が地域独占のかたちで並立している。問題なのは天下り。旧建設省時代から東日本建設業保証社と西日本建設業保証社に多数の大物キャリア官僚が社長や役員のポストについている。北海道建設業信用保証社は、旧北海道開発庁からの天下りを受け入れる。一九九九年の数字をみると、東日本建設業保証社の保証料収入は百八十億円。一方、事故による弁済は二十四億円強で、その割合は約13.5%ときわめて低い。西日本建設業保証社の数字を見ても、11.9%、北海道建設業信用保証社に至っては4.0%に過ぎない。保証料を下げる気配はない。これら3社は、巨額の寄付金を他の旧建設省関連の公益法人に対して行う。これら公益法人には、多数の天下り役員が送り込まれてきた。よくあるパターンである。このようにして、国民の支払った税金は無駄に使われていく。
(二〇〇五年、角川文庫、六六七円+税)