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名古屋城鯱鉾の金盗まれる

2006-04-04 05:59:40 | Weblog
名古屋城鯱鉾の金盗まれる

名古屋城は1610年(慶長15年)に徳川家康の命により着工、1620年に完成した。以後、金鯱のきらめきをのせた壮大華麗な天守閣は、広く天下にいる。明治維新は、名古屋城の危機であった。1870年(明治3年)、管理維持に莫大な経費がかかることから、名古屋藩知事徳川慶勝は新政府に城の取り壊しを申請した。このとき、金鯱は天守閣から降ろされて宮内庁に献上された。その後、紆余曲折を経て名古屋城は姫路城とともに政府の手による保存が決定する。名古屋城は1945年(昭和20年)に戦災で焼失した。金鯱は溶解状態で焼跡から発見された。この金は“茶釜”となって二の丸庭園にある茶亭で使用されているという。1959年(昭和34年)に名古屋城の大・小天守閣がコンクリートで再建された。
名古屋城の金鯱は、これまで三回の盗難禍にあっている。最初は江戸時代の中期。金助と称する盗賊が、強風に乗じて大凧に体を縛りつけ金鯱の鱗を剥ぎ取ったという“伝説”がある。次いで、1871年(明治4年)に地上に降ろされた金鯱に目がくらんだ番兵がうろこ三枚を剥ぎ取った。そして、1937年(昭和12年)に起きたのが、これから紹介する金鯱盗難事件である。
1937年(昭和12年)1月8日、新年早々の東京朝日新聞が、名古屋城金鯱盗難事件を報じている。「無残 名古屋城の金鯱 鱗58枚剥奪さる 40萬円の空中怪盗」というのが、その見出し。この時期、名古屋市は大規模な天守閣の実地調査を進めていた。前日7日の朝、名古屋市の技手が、金鯱の調査にかかった際、雄の金鯱の金網の一部が破られ、胴体の部分の金の鱗58枚がペンチで剥ぎ取られているのを発見する。この新聞報道では、金鯱を作ったのは加藤清正、明治中期にウィーンの博覧会で展示、1930年(昭和5年)国宝に指定された。このように、金鯱の輝かしい歴史とともに過去の盗難禍にも言及していた。「洋行した国賓」「大凧の金助以来」というユーモラスな見出しも目を惹く。
“昭和金助”と称された犯人は、同年の1月27日夜、大阪市住吉区の自宅で逮捕された。犯人逮捕のきっかけは、1月23日にあった。この日、大阪市東区平野町の貴金属時計店に、売却目的で金の延べ棒6本が持ち込まれた。この事件は全国手配中であり、ここで足が付いた。犯人は40歳のミシン職工。この男は18歳のとき強盗で懲役6年の刑を受けるなどの犯罪歴がある。2度の刑務所入りの後、大阪でミシン職工をしていた。かつて見物した名古屋城の金鯱を盗む計画を立てた。夕方、見物人の一人とし名古屋城小天守に入り、大箱の影に身を潜める。夜になってから“猿のように“足場を伝って大天守へ。そして屋根にまで登りつめ、ペンチで金網を破り鱗を剥ぐ。剥ぎ取った鱗は、持参した風呂敷に入れて、再び足場伝いに降りる。犯人は、自宅に戻ってから坩堝(るつぼ)を購入し、金の延べ棒に仕立てた。1月29日付東京朝日新聞では、「”昭和金助”大阪で就縛」の見出のもと事件の終結を報じている。また、損害額は(当初の40萬円ではなく)5~6000円であるとも記されていた。