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永井龍男と火災保険証券

2006-05-08 05:21:11 | Weblog
永井龍男と火災保険証券  


 一九九〇年十月十三日、作家・永井龍男(ながい・たつお 一九〇四年生まれ)は、横浜の栄共済病院で死去する。八十六歳だった。一九二七年(昭和二年)、横光利一の紹介で文藝春秋社に入社した永井龍男。戦前、戦中期に同社で編集の仕事に携わり、「オール讀物」「文藝春秋」などの編集長を務めた。戦後間もない一九四六年(昭和二十一年)に、永井龍男は同社を辞め文筆活動に専念する。短編集『一個その他』(一九六五年刊)で野間文芸賞、芸術院賞を受賞、一九六九年に芸術院会員に推され、一九八一年には文化勲章を受賞した。また、東門居(とうもんきょ)の号を持つ俳人でもある。

 おだやかな作風、私生活を大事にする生き方。そんな永井龍男の生涯の中で、少々異彩を放ったのが、芥川賞選考委員の辞任劇である。一九七七年、池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞受賞に反対し、その受賞決定後に芥川賞選考委員を辞したのだった。久米正雄(一八九一~一九五二)、大佛二郎(一八九七~一九七三)、小林秀雄(一九〇二~一九八三)、高見順(一九〇七~一九六五)などの諸先輩に連なる鎌倉文士の一人として知られていた永井龍男である。鎌倉に住みはじめたのは一九三四年(昭和九年)のこと。今日出海(一九〇三~**)の手引だった。永井龍男の生まれは東京・神田。かつて夏目漱石が在学していた錦華小学校を経て、一ツ橋高等小学校を卒業し、蛎穀町の米穀取引所仲買店林松次郎商店に奉公に出た。この店の近くに谷崎商店(谷崎潤一郎の生家、後に町名変更)もあったそうだ。
 文学の出発は早い。一九二〇年(大正九年)十六歳の時、「活版屋の話」が「サンエス」誌に掲載されたというのがスタート。「サンエス」という雑誌は、同名の万年筆の会社が宣伝を兼ねて出していた文芸誌であった。 永井龍男の随筆(自分では「雑文」と呼んでいた)の一つに火災保険証券が登場する。それは「北風」という作品の中。この作品は、朝日新聞に掲載された他の随筆とともに『落葉の上に』(一九八七年・朝日新聞社)に収録されている。永井龍男は、「北風」の中で神田が火事が多い町であったことを回想する。そのあとで次のような形で火災保険証券が登場してくる。

 …北風が吹きすさんで、横丁の裏店のトタン屋根までガタピシ突っ込んでくる冬の夜は、お袋はまず位牌と火災保険の証書を枕もとに置き、シャツ・モモヒキ類は、火急の際にも身に付けられるように命令を下した。
 それに加えて、私は学校のカバンと学帽、はかまに足袋を忘れてはならない。汚れ放題のはかまなどには愛着はなかったが、左右とも親指のむき出しになる古足袋は、冬中私を悲しませた。大晦日の晩に、正月用として渡してもらう一足のほかには、お袋の給与はないのである。
そのお袋は、生命保険のことなどこれっぱかりも知らないが、火災保険だけは無理に無理をして再契約していた。
 町の要所要所には、梯子を町屋の横に一脚立て、そのてっぺんに、半鐘がつるしてあった。番所へ出火の知らせが入ると梯子をあがって鳶の若い衆が半鐘を打つ。

 「北風」の最後の部分には、火災保険をたっぷりかけていたおかげで焼け跡にすぐ家を建て直した金持ちが描かれている。この人物は、周囲から「ごらん焼け太りの見本だよ」と後ろ指をさされたという。そんなエピソードも紹介されている。「北風」に出てくる火災保険は、永井龍男の生年と年齢等から推測すると、明治から大正に元号が変わった一九一二年前後のことであろうと思われる。「焼け太り」というコトバはけっこう長い歴史があるようだ。

 永井龍男は一九八四年(昭和五十九年)八月十九日から九月十七日迄、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載する。その中にもごく僅かであるが火災保険に関する叙述を見つけることができる。

 北風の強い夜は、位牌や保険証書の類を枕許に、シャツ股引は布団と布団の間に挟んで温め、いつでも役に立つよう用意して寝る。昼の疲れでぐっすり眠っていても、遠い半鐘の音が聞こえると、必ず一家のうちの誰かが眼を覚した。

 「私の履歴書」は、永井龍男の死後一九九一年になって単行本となる。永井龍男の手によって、新聞連載時のもの多少の手が加わっているらしい。本のタイトルは『東京の横丁』。講談社から出版された。


1 コメント

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Unknown (kemukemu)
2008-06-02 19:53:04
こんにちは。
サンエスという万年筆の昔の広告をみつけました。

http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611
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