百醜千拙草

何とかやっています

建前の裏

2016-08-23 | Weblog
いつまでも駆け出しのつもりでいたら、知らぬ間に友人たちは出世し、若手の特典もすっかりなくなり、自分は10年前と変わらない毎日なのに、外部からはいつまでもウダツの上がらないヤツという目で見られるようになってしまいました。私の母の住む田舎は古い小さな城下町で、古い商家だった建物があり、そういう家にはいまだに「ウダツ」が残っております。それを見ながら、ウダツなど単なる見栄だわナ、といじけた気持ちになったこともありました。が、もうそんな気持ちもすっかりなくなり、ま、楽しい毎日です。

とはいうものの、家族を養う身であれば、ウダツの高さは別にして、研究するのも渡世のシノギ、それなりの立場を確保していかねばなりません。
あいにく現在は、研究費にしても一流紙の紙面にしても、奪い合うものであり、資本主義の原理により金持ちはより金持ちになり、権力者はより強い権力を得ていくわけで、そんな中で「フェア」な競争など最初からありえないわけで、建前と本音をうまく使い分けながら、世の中をうまく渡っていくのも研究者の才覚だと、明言はしなくても多くの人は思っていることでしょう。(そういうことを堂々というと、ハシタナイですからね)

そこで、弱者は弱者なりの知恵を出して生き残りを図り、野党共闘みたいなことが起こります。少数の立場の弱い研究者が独立分断していては、強者のモノポリーは止まらず格差は広がりdiversityは失われるということで、立場の弱い研究者同士が互助的に協調して勢力を保つわけです。もちろん互助活動は、研究協力のような明朗なものから、そうとは言い難いようなものものまであります。

ところが、これは、本来、弱者の生き残りのために行われていたわけですが、一部の互助グループが近年、かなりの勢力を拡大してきて、本来、アンフェアな競争に対抗する弱者の方策であったのに、今や逆にアンフェアに競争を支配せんばかりになりつつあり、結果として、立場の弱い本当の少数派はますます弱い立場に追いやられつつあるという状況に陥りつつあるように思います。

そうなると、建前ばかりに拘泥している場合ではなく、われわれにしても、何らかの身を守るための方策を考えなければならないわけです。フェアネスを望む弱者は、汚い手を使っても勝てば官軍だ、と思っているような連中とマトモにやりあっては勝負になりません。(一般国民と日本政府みたいなものですかね) 現在の厳しい研究環境の中では、いい研究をしていれば自然とカネはついてくると鷹揚に構えている場合ではなくなってきました。第一に、いい研究かどうかを決めるのはわれわれではないし、そもそもカネがなくてはいい研究などできないわけですから。

しかし、皆が、スレスレのことをやりだすと、ピア レビュー依存する科学活動のクオリティー チェックが働かなくなり、結局は科学界そのもののintegrityが損なわれることになってしまうでしょう。同じ業界で同じ研究基金によってサポートされているというだけで、コンフリクトがあるわけで、思うに、研究資金の分配や論文の評価はそもそもフェアに行うことは不可能です。多数がガマンできる程度が維持できれば良しとすべきなのでしょう。(55年体制時の自民党のような感じですかね)

実は、科学界のintegrityに関連して、しばらく前に開発された新しいゲノム編集技術、NgAgoのスキャンダルを話題にするつもりでしたが、時間となりましたので。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 経済崩壊を前提に | トップ | わきまえない »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事