百醜千拙草

何とかやっています

僧侶に向けられた銃

2007-10-02 | Weblog
クーデターで軍事政権が確立して以来、英語による国名の正式名称が変わり、現在ではミャンマーと呼ばれていますが、私ビルマの竪琴のビルマと覚えていますので、ここではビルマと呼びたいと思います。中国とインド以外の大陸アジアの国々については私には大した知識はなかったのですが、今回のビルマでの反政府運動とその弾圧でビルマについて多少の知識を得ました。十数年前、ノーベル平和賞受賞者でビルマの民主化運動家のスーチーさん弾圧の事件は一時日本でもさかんに報道されていましたが、当時は私は海外の政治に全く興味が無く、遠い国の自分とは関係ないできごとと思っていました。ビルマの軍事政権により、彼女は1989年から軟禁状態に置かれているそうです。今回も私のよく知らない外国での騒動と思いつつニュースを見ていましたら、政府側がデモを行っていた僧侶に対してまで、威嚇発砲を行ったとのことで注意を引かれました。ビルマは9割が仏教徒なのだそうです。私たちがテレビなどでよく目にするような、シュプレヒコールが飛交うような激しいデモではなく、僧侶が読経しながら行進するという穏やかなデモだったそうです。私は人類の幸福を願い、人間の精神的規範を示すべく人々のために修行している僧侶の人に向かって、軍事力を後ろ盾にした政府が、威嚇とはいえ発砲したという蛮行にショックを受けました。
 最近の日本の特に都会では托鉢僧の姿を見ることは滅多になくなりましたが、以前はちょくちょく街角で見かけることがありました。僧侶の人たちは朝早くから厳しい戒律にのっとった質素な生活を行い、精進し、世の人の幸福のために祈って下さっているのだと思うと、自然にありがたい思いで頭が下がるような気がします。少なくとも私は、仏法を行じ精進する、とりわけ若い僧侶の人々に対してそんな風に思っています。托鉢に布施をするという行為は、お互いの感謝を表し、人間として生きていることを確認する行為であると思っています。僧侶の人たちは、自分のできないことをかわりにやってくれている人々であると私は思っています。(同様の思いは、私にはわからない難しい学問を真摯に追求している学者の人にも持っています。彼らの仕事は、現時点で直接自分たちに役立つということは少ないですが、そうした仕事を地道に続けていく事が、将来の世界の文化的豊かさを保っていく上で非常に重要であると信じています。ですから、そうした人々は自分にはできないことを将来の人類のためにやってくれているのだというように私は思っています)僧侶の人々というのは、私に限らず多くの人にとって尊敬の対象であると思います。まして、仏教国であるビルマが彼らを蔑ろにするはずがないと思うのです。軍事力、即ち人を殺し物を破壊する力を頼んで成り立っているビルマの政府が、人類の幸福のために修行している僧侶の人々に銃を向けるということは、ビルマのみならず、世界の人類の幸福を破壊しようとする行いであると思います。クーデターによる独裁政権が長続きしたためしはありませんし、人類の幸福を踏みにじらんとするような野蛮な政府が支持されるはずもありません。今回、政府の一方的かつ法外な政策が、この民主化運動に油を注いだようですが、おそらく権力に奢った政府が民衆を甘くみたのでしょう。これは、独裁国家の末期的兆候であり、まもなくビルマの政府は倒されるであろうと私は確信します。
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