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永江朗著「ベストセラーだけが本である」(筑摩書房)

2006-06-26 | 世界地理
世紀末、最大の事件はブックオフだった
     永江 朗

古本の世界は広がった
かつての古本屋は特別な世界で、慣れた人以外は入りにくい雰囲気があった。一般読者のなかにも、「赤の他人が読んだ本なんて、不潔そうで気持ち悪い」という人が少なからずいた。
ところが時代は変わった。古本も古本屋も、けっして特別な世界ではなくなった。きっかけのひとつは、ブックオフをはじめとするリサイクル型古本屋、別名新古本屋の登場だ。
当初、ブックオフについて出版界は冷淡だった。バカにすらしていた。
「素人に古本商売ができるわけない」
「いくら安くても、いらない本はいらない」
「フランチャイズ制なんて、儲かるのは本部だけ。手を出すのは素人だけ」
ブックオフを否定する根拠はだいたいこの3点だった。早晩、行き詰まるだろうと予想する人も多かった。それがあれよあれよという間に全国に店舗が広がり、海外にも進出した。2002年末で699店だ。
ブックオフはこれまで古本屋に足を踏み入れたことのない人を主な客にした。この功績は大きい。蛍光灯で明るくした店内にスチールの本棚。まるでコンビニのような店舗は、従来の暗くて狭い古本屋とはまったく違う。仕入れた商品は、アルコールで拭いて、独自に開発した機械で天地・小口を削り、新品同様にして店頭に出す。「古本は汚い」「古本は不潔」という概念を破った。
実は新刊書店に並んでいる本だって、いちど書店から返品されると、天地・小口を削り、カバーと帯を掛け替えて再出荷されている。これを改装と呼ぶけれども、ブックオフでやっていることと大差ない。なのに新刊書店では定価通りで売り、ブックオフでは定価の半額で売られる。
街の古本屋がブックオフで本を仕入れるということもある。いわゆるセドリというやつだ。逆に、街の古本屋が不要な在庫をブックオフに売るということも行なわれているようだ(当人たちはあまり認めたがらないが)。古本屋というのは大量の本を捨てる商売だ。客から買い取った本のすべてが商品になるとは限らない。「ツブす」といって、商品にならない本は廃棄する。しかし、店が捨てるゴミは「事業ゴミ」として、有料回収になる。これがバカにならない。それでブックオフに持ち込むのである。
しかし、本の価値を、内容に関係なく、発行されてからの時間に還元してしまうブックオフ方式に反発する人は多い。
「いくら安くても、いらないものはいらない」という声はその典型だ。しかしブックオフの成功は、「安けりゃ読む」という本、「安いから買う」という人も大量にあるのだ、という現実を示した。
「いくら安くても、いらないものはいらない」「必要な本なら、どんなに高くても売れる」「本は大根や石鹸とは違う」という言葉は、必ずしも誰にでも通じる真理ではなかったのだ。
もちろんブックオフ方式が古本界すべてを支配したわけではない。プレミア本には高い値段をつけ、ありふれた本(供給過剰な本)にはすごく安い値段しかつかないという従来の古本の値段のシステムは生きている。しかし、それとブックオフ型のシステムが共存するようになった。そしてそれは、私たち読者にとっては、本を買う選択の幅が広がったということである。

過剰在庫を新古本屋に売る出版社
ブックオフは「新古本屋」ともいわれる。新古本とはなにか。それは自動車販売の「新古車」と同じだ。ディーラーがメーカーに対して販売実績を作るために、陸運局への登録はしたものの、客は買っていないというクルマ。実際には新車なのだけど、法的には中古車となるクルマ。それと同じく、ブックオフに並んでいる本のなかには、出版社が作ったものの、読者に売られることなく、出版社から持ち込まれた本もある。
ウワサによると、数百の出版社がブックオフに本を持ち込んでいるという。その陰には、出版社の過剰在庫という問題がある。
1980年代からこっち、日本の出版界では出版点数がどんどん増えた。ここ数年は年間6万点から7万点のあいだで推移している。しかし、読者はそんなに増えていない。作ったものの、売れない本というのが大量に生まれることになる。
従来は断裁処分していた。解体して、ドロドロに溶かして、再生紙の原料にするのだ。ところが古紙価格が暴落して、断裁処分にはお金がかかるようになった。ならばブックオフに売った方がいくらかマシ、と考える出版社があっても当然だろう。
ただし、新刊書店は出版社がブックオフに直接本を売ることに猛反発している。そりやそうだ。まったく同じ本が、しかもピッツカピカの新品が、ブックオフでは半額だの100円均一だので売られているんでは、新刊書店はたまらない。


カジュアルな街の古本屋が増えている
私は6年前の1年間、『東京人』という雑誌で古本屋のある街を散歩するというテーマでコラムを連載した。あちこちの街を歩いてみて驚いたのが、小さな古本屋が増えていること。それも若い人が始めた店が増えている。ちょっと見には従来型の古本屋に似ているけれども、棚をよく見ると違う。もっと店主の趣味を全面に出した品揃えなのだ。映画や音楽の本ばかりの店、幻想文学や詩の本の店、人文書をずらりと並べた店、絵本と児童書の店などなど。品揃えの感覚は古本屋というよりも中古レコード屋や古着屋に近い。「自己実現」のための古本屋、「自己表現」のための古本屋である。
古本屋は比較的簡単に始められる商売だ。役所への届出関係でいえば、警察で古物商の鑑札をとるだけ。新刊本屋ならば、取次(問屋)と取引するためにいろいろ難しいこともあるが、古本屋にはそんな面倒なことは一切なし。3坪でも5坪でも始められる。
バブル崩壊以降、店舗用の物件はどんどん値下がり続けているから、店の保証金さえ集められれば、あとは自分の手持ちの本を並べるところからでも始められる。古本屋がカジュアルになった。


本屋がつまらないから古本屋が増える
ブックオフが繁盛し、カジュアルな古本屋が増えた最大の理由は、新刊書店があまりにもつまらないからだ。新刊本屋はあまりにも新刊偏重でありすぎた。どこの本屋も同じような品揃えで、しかもここ数か月ぐらいの本しか並んでいない。ちょっと前に出た本はよほど大きな本屋に行かないと見つからない。その結果、どの本屋の棚も品揃えに奥行きを失い、ひどく薄っぺらになってしまった。
たとえばある著者の新刊が出る。読んでおもしろければ、同じ著者が過去に書いた本を読みたくなる人も多いだろう。ところが、一人の著者の本を揃え、わかりやすく並べている本屋は少ない。あるいは、ひとつの本に関連した本を並べる本屋も少ない。もちろん皆無ではない。たとえば東京・千駄木の往来堂書店は、わずか30坪足らずの店内に、意識的に関連書を並ベている。素晴らしい書店だけど、逆にいうと、往来堂書店が話題になるのは、そうした本屋が珍しいからでもある。
たとえブックオフであっても、古本屋に行くと発見がある。「こんな本があったのか」と思ったり、「この本のこと、忘れていたよな」と思ったり。

新刊書店だけでは満足な読書はできない
本は新刊書店で買うもの、という常識が崩れつつある。一人の読者が、ブックオフやカジュアル古本屋、従来型古本屋を覗いて回り、新刊書店も覗く。雑誌はコンビニやキヨスクで買うこともあるだろう。真夜中にインターネットでオンライン書店を利用することもあるだろう。書評サイトを覗いたり、出版社から新刊案内のメールを受け取ることもあるだろう。検索エンジンで著者やテーマについて調べたり、オンライン書店で本を検索して、そのプリントアウトを片手に図書館に行くこともあるだろう。
私たちの読書生活は、この数年で一気に多様化した。本に出会うチャンネルが一気に増えた。その中で、従来の新刊書店のポジションは相対的に低くなってきている。逆に言うなら、もう新刊書店だけでは、満足な読書生活は送れない。
街の小さな書店の店長が「うちみたいな本屋には、売れそうな本は来ない。聞いたこともない出版社の、明らかに3匹目か4匹目のドジョウを狙ったような、ロクでもない本は山ほど送ってくるくせに」といっていた。
世の中には、作っている編集者すら、コイツはゴミだ、と思っているような本がゴマンと出ている。そういう本でも出しさえすれば、取次からお金がまわるからだ。その結果、ゴミみたいなくせに部数ばかり多い本が、全国の書店に出回る。

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ながえあきら(1858~)の『ベストセラーだけが本である』(筑摩書房)より。






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