日本の風景 世界の風景

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山口瞳著「礼儀作法入門」新潮文庫

2006-06-27 | 世界地理
 卒業式・入学式
                山口 瞳

やまぐちひとみ(1826~95)はサラリーマンと作家の両立を続けながら、1962年、『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞した。これは新潮文庫『礼儀作法入門』による。
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「仰げば尊し」は辛い歌だ
「卒業式の日に「仰げば尊し」を歌わせない学校があった。その学校は、小学校・中学校・高等学校・短期大学を含むところの、一貫した教育が行なわれる学校である。
なぜ卒業生に「仰げば尊し」という卒業式の歌を歌わせないかというと、教師にとってあれくらい辛い歌はないからだと校長が言った。また、卒業式は、生徒よりも教師にとって、より一層辛い日であるという。
なぜならば、それは、教師が、未完成な作品を上級の学校へ、あるいは社会へと送り出す日だからである。教師としてはああもしたかった、こうもしたかったという、その三割か四割かのことしかしてやれなかった作品(卒業生)を見ているだけで辛く悲しい。 後悔と慚愧とで胸が一杯になっている。そこへ「仰げば尊し、わが師の恩…⊥と歌われるのではたまったものではない。
なるほど、そう言われてみると、校長の気持ちがわかるような気がする.というより、私は、その話を聞いたとき感動した。ちょうどその日は卒業式のあった日で、夜になって、校長と二人の教師と私とで酒を飲んだ。校長は、毎年、卒業式の夜には大酒を飲むという。まあ、そうでなくても酒を召しあがる方ではあるが。
別の日に、その校長は、こんなことを言った。
校庭に一人だけ、ポツンと生徒が立っている。たとえば土曜日の暮れ方であったとする。その生徒は、そうやって、英語の単語でも暗記しようとしているのかもしれない。校長は、そういう姿を見るとたまらなくなる。その生徒は、家庭的に恵まれない子どもである。あるいは体の丈夫でない子どもである。あるいは自分の志望する学校に進学できなくて、浪人中であって、母校にふらふらと入ってきてしまった生徒である。
校長は、そういうとき、仕事を放りだして校庭へ駈けてゆくという。
そうして「おい!」と声をかける。「おい、××君!どうしている?」。肩をたたくこともある。「おい××君、勉強しているかい?」
どうしてもそうせずにはいられないそうだ。そうして、教育とは、教育の役目とは、そのことに尽きるのではないかと言う。教育とは生徒に声をかけてやることではないか。校長は、むしろ絶望的な調子で、それ以上のことはできないと言った。
私はこのふたつの話に感動した。この話をモトにして長い小説を書いた。


おたがいに「声をかけあう」
3月の初め、振袖を着た美しいお嬢さん方の群れに出会うことがある。まったく何事かと思う。そうして、すぐに卒業式だなと思う。娘をもった親は大変だなと思う。30万円も40万円もする振袖をつくるくらいなら、15万円の洋服をつくったほうがよっぽどいいのにと思う。親の気持ちはそうもいかないのかもしれないが。
そのとき、いつも、このなかに、教師に「おい、どうしている?」という親身な声をかけられた生徒が何人いるかと思う。ちかごろは、どこもマンモス学校になっている。あるいは受験校である。進学率第一主義である。教師と生徒との間の断絶が言われている。私は、ついに「おい××君!」という声をかけられずに卒業してしまう生徒の数が圧倒的に多いのではないかと思う。失意のときに教師に慰められ激励されるということがないのではないか。私からするならば、そういう教育は骨ぬきである。
100人の卒業生のうち50人が国立大学へ進学するということよりも、一人の不良学生、一人の気持ちの荒れた生徒を世の中に送り出さないということが真実の教育なのではあるまいか。
私の理想とする学校は寺小屋であり塾である。生徒を一人の人間としてその全体をとらえ、その生徒の性格と才能の向いているところをとらえ、ひきだしてやることが教育だと思っている。いまの学校はそういう具合になっていない。
もし、教師の側に、卒業式のエチケットがあるとするならば、せめてその日ぐらいは、できるだけ大勢の生徒に声をかけてあげることだ。それには、今のような、型通りの大がかりな卒業式でないほうがいい。それは、せいぜい、第一回のクラス会といった規模でありたいと思う。  
生徒の側のエチケットも同じことだ。教師の側も淋しいのである。
最初に書いた学校は、男子校もあるけれど、それは高校までであって、女子を主体とする学校である。したがって、生徒が卒業してしまうと、どうしても疎遠になってしまうと校長は欺くのである。さらに、自分の教えた学問が、女子の場合は活用される機会が少ないので残念であるという。
私は、在学中にも、卒業式の日にも、卒業の後も、おたがいに「声をかけあう」のが大切であり、それが学校の礼儀作法であるような気がしている。(諸君!これを読んで、そうだと思ったら、恩師に手紙を書こう)


服装で自分を自立たせるな
ちかごろは学生服を着る人が少ないから、大学の入学式というのは、背広を着る最初の日といっていいかもしれない。在学中を学生服とか替上着とかジャンパーなどで過ごしてきた人は、卒業式が、背広を着る最初の日になるだろう。すでにして就職はきまっている。それを着て会社へも行くわけである。
最初に背広をつくるにはどうしたらいいだろうか。
背広の色は、濃紺か灰色だと思ったほうがいい。むろん、無地のものである。私は紺サージ(学生服の布地)が好きであるが、あれはすぐに膝のあたりが光ってくるので、かえって高価な贅沢なものになるという考え方もある(度々着ていると一年で駄目になってしまう)。だから、紺サージの感じに近い丈夫な布地を選べばいいと思う。
灰色の背広というのはフラノのことである。しかし、これも好き好きであるから、灰色の無地にちかいものなら何でもいいと思っている。
このふたつと思っていれば間違いがない。これは、長年にわたって体得したことであるから、どうか、そのまま信用してもらいたい。紺の背広、灰色の背広が一着ずつあれば、あとは各人の好き好きで、茶色でも、赤系統のものでも、縞柄でもチェックでも何でもいいと思う。最初は、とにかく濃紺、次に灰色とおぽえていただきたい。
オシャレとは何であろうか。
多分、人前に出て、その人のセンスがひと目でもわかるような、個性的な、目立つ服装という答えがかえってくると思う。これは間違いである。否、正反対である。オシャレとは、人前に出て目立たぬ服装をすることである。私はそう思っている。
これは極端な例として言うのであるけれど、薄汚れた背広、クシャクシャの派手なネクタイ、臭くて穴のあいている靴下で会合に出席すれば、その人は目立ってしまう。私が目立たぬ服装がオシャレだと言うのはそういう意味である。
間違っても黒の背広はつくらないように・・・。ところが、この間違いを若い人はやってしまうんだな。黒はカッコイイと思いこむ。黒は渋くて地味だと思ってしまう。しかし、黒と白ぐらい派手な色はないのである。黒の三つ揃い、襟は大きくて三角にとがっている。赤いネクタイ、長髪で愁い顔。これがいいと思ってしまう。電車のなかなどに、こういう青年がいるじゃありませんか。計算通りに、これは目立つのである。ただし、どうにも泥臭い。アラン・ドロンがこういう恰好でパリの下町を歩いたら颯爽として見えるかもしれない。しかし、それは映画のなかの話である。アラン・ドロンでもふだんはこういう恰好をしないだろう。武者人形が町を歩いている姿だと思っていただきたい。
私の言いたいことは、いい若い者が、新入生が、新入社員が服装で自分を目立たせようなんて考えるなということに尽きる。服装で目立たせようとするのは老人のすることである。かりに、卒業式一日だけ人目をひいたとしても、それが何になる。
私はほとんど紺無地の背広しか着ないが、困ることもある。洋服ダンスをあけてみると紺一色。いったい、どれがいつつくった背広であるかわからなくなってしまう。今後は、背広の裏に何か目印をいれようと思う。そうでないと、痩せていたときの洋服を取りだして、オヤ、また太ったかな、なんて思ってしまう。
私も洋服では失敗する。
去年の暮れに、白と黒のホームスパンで全体として薄灰色に見える背広をつくった。その余り布で鳥打帽をつくった。これは考えとしては悪くなかったと思う。いい感じである。年が明けて、その恰好で競馬場へ行った。まだ黒っぽい服装の多い時期である。私は頭から足もとまでグレイ一色。これは目立ったネエ。

永江朗著「ベストセラーだけが本である」(筑摩書房)

2006-06-26 | 世界地理
世紀末、最大の事件はブックオフだった
     永江 朗

古本の世界は広がった
かつての古本屋は特別な世界で、慣れた人以外は入りにくい雰囲気があった。一般読者のなかにも、「赤の他人が読んだ本なんて、不潔そうで気持ち悪い」という人が少なからずいた。
ところが時代は変わった。古本も古本屋も、けっして特別な世界ではなくなった。きっかけのひとつは、ブックオフをはじめとするリサイクル型古本屋、別名新古本屋の登場だ。
当初、ブックオフについて出版界は冷淡だった。バカにすらしていた。
「素人に古本商売ができるわけない」
「いくら安くても、いらない本はいらない」
「フランチャイズ制なんて、儲かるのは本部だけ。手を出すのは素人だけ」
ブックオフを否定する根拠はだいたいこの3点だった。早晩、行き詰まるだろうと予想する人も多かった。それがあれよあれよという間に全国に店舗が広がり、海外にも進出した。2002年末で699店だ。
ブックオフはこれまで古本屋に足を踏み入れたことのない人を主な客にした。この功績は大きい。蛍光灯で明るくした店内にスチールの本棚。まるでコンビニのような店舗は、従来の暗くて狭い古本屋とはまったく違う。仕入れた商品は、アルコールで拭いて、独自に開発した機械で天地・小口を削り、新品同様にして店頭に出す。「古本は汚い」「古本は不潔」という概念を破った。
実は新刊書店に並んでいる本だって、いちど書店から返品されると、天地・小口を削り、カバーと帯を掛け替えて再出荷されている。これを改装と呼ぶけれども、ブックオフでやっていることと大差ない。なのに新刊書店では定価通りで売り、ブックオフでは定価の半額で売られる。
街の古本屋がブックオフで本を仕入れるということもある。いわゆるセドリというやつだ。逆に、街の古本屋が不要な在庫をブックオフに売るということも行なわれているようだ(当人たちはあまり認めたがらないが)。古本屋というのは大量の本を捨てる商売だ。客から買い取った本のすべてが商品になるとは限らない。「ツブす」といって、商品にならない本は廃棄する。しかし、店が捨てるゴミは「事業ゴミ」として、有料回収になる。これがバカにならない。それでブックオフに持ち込むのである。
しかし、本の価値を、内容に関係なく、発行されてからの時間に還元してしまうブックオフ方式に反発する人は多い。
「いくら安くても、いらないものはいらない」という声はその典型だ。しかしブックオフの成功は、「安けりゃ読む」という本、「安いから買う」という人も大量にあるのだ、という現実を示した。
「いくら安くても、いらないものはいらない」「必要な本なら、どんなに高くても売れる」「本は大根や石鹸とは違う」という言葉は、必ずしも誰にでも通じる真理ではなかったのだ。
もちろんブックオフ方式が古本界すべてを支配したわけではない。プレミア本には高い値段をつけ、ありふれた本(供給過剰な本)にはすごく安い値段しかつかないという従来の古本の値段のシステムは生きている。しかし、それとブックオフ型のシステムが共存するようになった。そしてそれは、私たち読者にとっては、本を買う選択の幅が広がったということである。

過剰在庫を新古本屋に売る出版社
ブックオフは「新古本屋」ともいわれる。新古本とはなにか。それは自動車販売の「新古車」と同じだ。ディーラーがメーカーに対して販売実績を作るために、陸運局への登録はしたものの、客は買っていないというクルマ。実際には新車なのだけど、法的には中古車となるクルマ。それと同じく、ブックオフに並んでいる本のなかには、出版社が作ったものの、読者に売られることなく、出版社から持ち込まれた本もある。
ウワサによると、数百の出版社がブックオフに本を持ち込んでいるという。その陰には、出版社の過剰在庫という問題がある。
1980年代からこっち、日本の出版界では出版点数がどんどん増えた。ここ数年は年間6万点から7万点のあいだで推移している。しかし、読者はそんなに増えていない。作ったものの、売れない本というのが大量に生まれることになる。
従来は断裁処分していた。解体して、ドロドロに溶かして、再生紙の原料にするのだ。ところが古紙価格が暴落して、断裁処分にはお金がかかるようになった。ならばブックオフに売った方がいくらかマシ、と考える出版社があっても当然だろう。
ただし、新刊書店は出版社がブックオフに直接本を売ることに猛反発している。そりやそうだ。まったく同じ本が、しかもピッツカピカの新品が、ブックオフでは半額だの100円均一だので売られているんでは、新刊書店はたまらない。


カジュアルな街の古本屋が増えている
私は6年前の1年間、『東京人』という雑誌で古本屋のある街を散歩するというテーマでコラムを連載した。あちこちの街を歩いてみて驚いたのが、小さな古本屋が増えていること。それも若い人が始めた店が増えている。ちょっと見には従来型の古本屋に似ているけれども、棚をよく見ると違う。もっと店主の趣味を全面に出した品揃えなのだ。映画や音楽の本ばかりの店、幻想文学や詩の本の店、人文書をずらりと並べた店、絵本と児童書の店などなど。品揃えの感覚は古本屋というよりも中古レコード屋や古着屋に近い。「自己実現」のための古本屋、「自己表現」のための古本屋である。
古本屋は比較的簡単に始められる商売だ。役所への届出関係でいえば、警察で古物商の鑑札をとるだけ。新刊本屋ならば、取次(問屋)と取引するためにいろいろ難しいこともあるが、古本屋にはそんな面倒なことは一切なし。3坪でも5坪でも始められる。
バブル崩壊以降、店舗用の物件はどんどん値下がり続けているから、店の保証金さえ集められれば、あとは自分の手持ちの本を並べるところからでも始められる。古本屋がカジュアルになった。


本屋がつまらないから古本屋が増える
ブックオフが繁盛し、カジュアルな古本屋が増えた最大の理由は、新刊書店があまりにもつまらないからだ。新刊本屋はあまりにも新刊偏重でありすぎた。どこの本屋も同じような品揃えで、しかもここ数か月ぐらいの本しか並んでいない。ちょっと前に出た本はよほど大きな本屋に行かないと見つからない。その結果、どの本屋の棚も品揃えに奥行きを失い、ひどく薄っぺらになってしまった。
たとえばある著者の新刊が出る。読んでおもしろければ、同じ著者が過去に書いた本を読みたくなる人も多いだろう。ところが、一人の著者の本を揃え、わかりやすく並べている本屋は少ない。あるいは、ひとつの本に関連した本を並べる本屋も少ない。もちろん皆無ではない。たとえば東京・千駄木の往来堂書店は、わずか30坪足らずの店内に、意識的に関連書を並ベている。素晴らしい書店だけど、逆にいうと、往来堂書店が話題になるのは、そうした本屋が珍しいからでもある。
たとえブックオフであっても、古本屋に行くと発見がある。「こんな本があったのか」と思ったり、「この本のこと、忘れていたよな」と思ったり。

新刊書店だけでは満足な読書はできない
本は新刊書店で買うもの、という常識が崩れつつある。一人の読者が、ブックオフやカジュアル古本屋、従来型古本屋を覗いて回り、新刊書店も覗く。雑誌はコンビニやキヨスクで買うこともあるだろう。真夜中にインターネットでオンライン書店を利用することもあるだろう。書評サイトを覗いたり、出版社から新刊案内のメールを受け取ることもあるだろう。検索エンジンで著者やテーマについて調べたり、オンライン書店で本を検索して、そのプリントアウトを片手に図書館に行くこともあるだろう。
私たちの読書生活は、この数年で一気に多様化した。本に出会うチャンネルが一気に増えた。その中で、従来の新刊書店のポジションは相対的に低くなってきている。逆に言うなら、もう新刊書店だけでは、満足な読書生活は送れない。
街の小さな書店の店長が「うちみたいな本屋には、売れそうな本は来ない。聞いたこともない出版社の、明らかに3匹目か4匹目のドジョウを狙ったような、ロクでもない本は山ほど送ってくるくせに」といっていた。
世の中には、作っている編集者すら、コイツはゴミだ、と思っているような本がゴマンと出ている。そういう本でも出しさえすれば、取次からお金がまわるからだ。その結果、ゴミみたいなくせに部数ばかり多い本が、全国の書店に出回る。

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ながえあきら(1858~)の『ベストセラーだけが本である』(筑摩書房)より。





きだみのる「気違い部落周游紀行」(冨山房)

2006-06-21 | 世界地理
きだみのる、本名山田吉彦(1885~1975)の『気違い周游紀行』は東京郊外恩田村でのできごとから生まれた文学的社会学的作品である。戦後日本の表面的民主化を鋭く批判した。1948年刊行、現在は冨山房百科文庫に収録されている。きだみのるは慶応大学中退後、パリ大学社会学を学んだ。国内の流浪の生活は、岩手県の直木賞作家三好京三が『子育てごっこ』に描いた。青年時代の生活は『人生逃亡の記録』(中公新書)に、きだ自身が書いている。

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法の厳格な適用はしばしば非常な害悪をもたらす 
正義正義とは何かと問われ、そして正義の具体的表現が、巡査の制服であると断定されたとき、これを即座に納得し得る人は少ないであろう。それは正義がそんなに手近かにあるものと我々は感情することに慣れず、何か雲の彼方の後光の前に正義を置くことを望むためかも知れない。従って正義の代表者に巡査を持って来ることは正義に対する冒瀆のように考えられるのだ。これはしばしば真実であることもなくはない。
西の方のでこんなことが起った。そこは濁酒の密造の盛んな箇所である。
ある日、民さんの子供である五つの兄と四つの妹とが河原で草花を摘んで遊んでいた。そこに駐在がやって来て、傍に腰を下ろしながら云った。
「花摘みかよ、どれ、沢山摘んだじゃねえか」
子供たちはこれに返事はしなかった。二人は駐在が来たので気持が窮屈になり、兄は妹に小声で
「あっちへ行くべえや」
と誘って駐在を遠ざかりかけた。しかし駐在の声が二人の足を止めた。
「もうちょっと、ここで花を摘めや。そしておじさんに教えてくれやなあ。おとうはよ。晩方になると何かくさいものを飲むべえ。そしてそれを何杯か飲むと顔が赤くなるべえ。そうだなあ」
二人の子供は立ちすくんだようになって、互に顔を見合わせた。そして兄の方は首を振りながら辛うじて云った。
「ううん」
駐在は子供たちの動作から推して、二人は家人から「云ってはならぬ」と教えられているのだと判断した。で彼は、草の葉を指先でもてあそびながら云った。
「いやなあ、おじさんは知っているのだよ。おとうはよ。毎晩くさい臭いのする白い水みたいなものを二三杯飲む。するとおとうの顔は段々赤くなってくるのをな」
そして彼はもっと優しい語調に変えた。
「ほんとのことを教えてくれたら、おじさん、うめえものをやるよ。ほら」
そう云って彼は制服のポケットからキャラメルを一箱取り出して、幼い二人の兄妹の眼の前にちらつかせた。長い間甘味に餓えた子供たちの眼は欲しさに輝いた。「今だ」と駐在は見て取った。
「なあ。おじさんの云うことはみんなほんとだろう。教えてくれたらこれをみんなやるよ。そうだろう。飲むべえ」
子供は暫しためらった後でうなずいた。言葉に表現しさえしなければ秘密のままに終るとでも思ったかのように。
駐在はキャラメルの封を切って渡し、
「食ってみな。うめえよ」
兄はそれを受け取り、一つを自分の口に入れ、妹にも先ず一つ渡し、それから中身の半分を妹に渡そうと全部を出しかけると、
「いや、待てよ。おじさんにね。も一つ教えてくれたら、もう一箱やるよ。ほら、ここにあるだろう。これもやるよ」
そう云って駐在はもう一箱出した。
「そのな、おとうの飲む水をょ。おとうはどこから出して釆るかょ・・・物置からかよ」
子供たちは首を振った。
「台所かよ」
同じ子供たちの動作。
「じゃあ、どこだんべえ。押入れかな」
子供たちはうなずいた。一箱のキャラメルがその代償として二人の手に渡された。
駐在は所要のことは十分に聞いたので立ち上って歩き出した。子供たちは漠然とした不安があるので、駐在の後について岸に上り、家に帰って行こうとした。
「俺はねえ、署に帰るから、もっとここで遊んでいな。キャラメルでも食ってよ」
二人の子供はそこで河原に残ってキャラメルをしゃぶりながら兄は妹に云った。
「うめえな。うめえだろ」
「うん。うめえよお」
子供たちに云った巡査の言は真実ではなかった。彼はまっすぐに民さんの家に行き、押入れの中に濁酒の瓶を発見し、そして民さんを野良から署に連れて行った。
キャラメルの残りを懐に大切にしまった二人の幼い兄妹が父のいない家にもどったのは、それから間もなくであった。

以上はシン英雄が私に伝えてくれた話である。
私は二人の幼童の、特に兄の方がこれからの長い一生負い続けねばならぬ精神的負担を悲しみを以て想った。
「子供がかええそうだよ、なあ、先生」
そうシン英雄も付言した。


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お寺の先生、ヒエと蝸牛(カタツムリ)を常食として英雄たちを驚かすこと  
お寺の先生と呼ばれる私は何回か方々の国を旅行した。そしてイタリアではうどんの同類であるマカロニとスパゲッチで、モロッコでは小麦を挽き割って作ったクスクスで、蒙古では麦こがしをこねて二つの石の間で焼いた餅で、フランスやドイツではパンで、ギリシャやトルコの田舎では、プラトンやソクラテスが対話しながら舌鼓を打ったであろう麦粉餅で健康に暮らして来たので、私の胃袋は食物に対する偏見が割に少なかった。
日支事変から輸入の統制がはじまり、オートミールが手に入り難くなったとき、ヒエイスムのチャンピオンである英さんこと井上勝英子爵がヒエを推薦した。多くのイスムが観念論という精神の競技、しかも卜占に類する難解を誇る競技であるとき、英さんのヒエイスムのイデオロギーが最も単純な表現に於ては、「最安価にして最大の健康はヒエを喰うことによって得られる」というにあるので、私は世の中のイスムの中にもこのような単純の美を持つもののあるのに感心した。そして小笠原長生子が学徒挺身隊のとき、臆面もなく華族の子弟の惰弱さを新聞に告白しているとき、英さんの紅顔強躯の具体的表現に信頼して、私はヒエを喰い、この穀物のまずくないことを発見した。
主食の統制がはじまったとき、私はお米を止めてヒエを喰うことにした。お寺に移住してから、私の主食は麦ぞっき(麦だけの)の麦かヒエであった。私は麦しか実らないこんな高原でお米を喰うことは意味のないことのように思えた。
副食物として肉や魚が手に入らないと、よい季節には蝸牛(カタツムリ)を捜し、一日二日ワラで養った上でセリを微塵に切り、油とねり合わせて殻の口につめた上、焼いて副食物とし、蛋白質を補給した。これはパリの料亭エスカルゴのブルゴーニュ蝸牛のダース皿に劣ることはない。
ある日、私はこんな食事の仕度をし、箱お膳を出そうとしていた。
箱お膳というのは読者も知っていられるように、重箱を大きくしたようなもので、食事が済んだら茶碗や何かの道具は そのまましまっておける。これは男暮しの不精には持って来いの家具だ。これをヨシ英雄の許で発見したとき、私は讃歎し、彼に割愛して貰って愛用しはじめた。大体に於て、人間は自分自身のものを汚いとは感じないものである。
で、この箱お膳を明けたところに、門口を通る足音が聞える。
「先生、いてかあ」
サダ英雄の声である。
「お茶でも飲めよ」
と私が応じると、玄関の障子が開いて、英雄の鬚面が現れる。ウサギ打ちの支度をしている。彼は火じろに足を踏み込み、半ば開いた釜の中を覗いて、
「何よ。これあ」
「ヒエだよ。一つどうだ。山歩きには疲れないというぜ」
「そうか。じゃ一杯貰って喰ってみべえ」
ヒエの白さがこの英雄を驚かせる。
「どうだ。これもやるかね」
私は蝸牛を出してやる。
「いやあ。先生は蝸牛を喰うのかよ。いやこりゃどうも」
サダニイは箸を止めて感嘆したが、その方には上から横から眺めるだけで、尻込みして手は出さない。
サダニイはヒエを喰い終わると外へ出る。犬は待ち切れずに里へ下りたのか、見えない。暫く犬を無益に呼んだ後で、彼も下りて行く。私は彼の姿が杉林の向うに隠れるのを見送った後で、バケツを下げて谷川に水を汲みに行き、次で日課の杉葉拾い、その後で庫裡の前にある畑の世話。
サダニイが帰って二時間もすると、シン英雄が自転車を押して大門を杉林に沿うて上って来るのが見られた。
「先生」と包みをぶら下げたシン英雄が云う。
「お茶でも入れるかね」
「お茶はわしはええです」
私は彼を縁側に招じ、いろりから茶道具を運んだ。
「他人の家に来たら、まあ茶ぐらいは飲むものだよ」
「いま飲んで来たばかりだから、ええですょ。先生」
 私は彼の前に茶碗を出した。
「シンサン、君はお茶は好きだったじゃないか」
「そうでさ。お茶は好きでさ」
そして、シン英雄は非常に当惑したような表情で茶碗と私を見較べながら続ける。
「はあて、困ったなあ」
「何が困るのかよ」
「いや、お茶は嫌いじゃねえですがよ、余所で飲まんわけはねえですがね。・・・ですがね、先生のとこじゃ何を飲まされるか解らねえからよ。蝸牛まで喰っとるちゅうじゃねえですか。何でまたあんなものを喰うですか」
それで解った。わがシン英雄は私の飲むお茶は蛸牛の穀か狐の尻っぽを焙じて入れたとでも思っているのだ。しかし私がどんなに骨折ってそれは玉露であると、現品まで見せ、急須の蓋もとって納得させようとしても、シン英雄の先入観念を抜き取ることは出来なかった。
「いや、お茶はええです。家へ帰れば間違いのねえのがあるから」
彼はなお言葉を続ける。
「それから、先生は蝸牛をおかずにしてヒエを喰うとるちゅじゃねえですか。あれは、先生、鶏の喰うものだんべ。さっき下のおこうちゃんが、先生は蝸牛とヒエを喰ってたとサダニイのとこで聞いてね、先生は何ちゅうものを喰っているのかとたまげて、わしのとこにおっ走って教えてくれたのでさ。わしもたまげてね。いや先生、この村にいるうちはヒエと蝸牛は止めてお貰い申してえですよ。村に来て痩せられたんじゃ、でえ一わしは東京のかみさんに申し訳はねえし、この村も面目がねえでさ。おこうちゃんにもそのとき云ったでさ。先生がそんなに食物に不自由しているのなら、何でわしに云わねえのかと。その話を聞いたんで、わしゃちっとべえ米と丸干しを持っておっ走って来たでさ」
そう云って、わがシン英雄は風呂敷包みを渡した。私はその素朴なな好意の表現に感動した。
「いや有難う。だがねシンサン。ヒエってそんなにまずいものじゃねえと思うがな」
「まずかあねえかも知れねえけんど、鶏の喰いものだから体によかああんめえ」
「そうでもなさそうだよ。それからよ、俺は外国にいて十年も米飯は喰ったこたああんめえ。だから俺はあんな両端のとがったもの喰っているわけに行かねえんだ」
「はあ、そうかよ。お米は両端がとんがっているかよ。だが、とんがっていて困るかよ」
「何か胃袋をつっつくように思うんだ。だからね、ヒエだの麦だのうどんだの、とがらねえものが喰いたくなるのだよ」
「でもよ、先生。麦は両端がとんがっていべえ」
「麦はとんがっているがね。麦飯に炊いちまえは丸くならあ」
「それはそうだ。成る程なあ。米は両端がとがっているか。成る程なあ」
「いや、今度米が喰いたくなったら、あんたのを頂戴するよ」
「そうしておくんなさい」そう云ってから、彼は何か感心したように繰り返す。
「いやあ。米は両端がとんがっているか。成る程なあ」
やがてわがシン英雄はお茶には手もつけないで
「成る程なあ、お米は両端がとんがっているか」
となお絞り返しながら、庫裡の前、大杉の下の石段を下りて行った。
数日後、シン英雄はヒエは昔、村でも喰っていたことを知らせてくれた。
「お婆さんに聞いたらよ。村じゃ団子にして喰っていたと教えてくれたよ。わしも、へえだんごを灰の中で焼いて喰ったこたあ覚えていただけんど、灰の中で焼くから、へえだんごと云うのだと思っていたのよ。それから上の角山さんに聞いたら昔のヒエ倉の跡がまだ三つばかり残っているそうだよ。先生」
かくして私はシン英雄に心配をかけることなく、お寺でヒエを喰えるようになった。そればかりではなく、若干の英雄たちはお寺にヒエの種子をもらいに来た。