日本の風景 世界の風景

日本と世界各地の景観を、見直します。タイトルをクリックすると、目次(1)(2)(3)になります。

ジャン=ピーエル・ポリス「暗黒物語」作品社 ④綿花

2006-05-10 | 世界地理
Jean-Pierre Boris著(林昌宏訳、作品社2005年)
「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」
生産者を死に追いやるグローバル経済

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●綿花の主要生産国(万トン。2003年)
中国 520
アメリカ 397
インド 210
パキスタン 169
ウズベキスタン 96
トルコ 95
ブラジル 73

●綿花の主要輸出国(万トン。2003年)
アメリカ 269
ウズベキスタン 79
オーストラリア 46
ギリシャ 28
マリ 23

●綿花の主要輸入国(万トン。2003年)
中国 110
トルコ 56
インドネシア 52
メキシコ 44
タイ 41

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●アフリカの綿花栽培
ブルキナファソでは綿花栽培農家の平均面積が5ha以下である。国営企業ソフィテックスが高品質の綿花のみを買い上げる。買われなかった綿花を栽培した農家は、肥料・農薬などの代金を支払うことができず、借金を背負うことになる。
チャドではフランスの営農指導を受けた農家が良質の綿花を栽培する。低賃金で低コストの綿花を輸出するが、アメリカ産綿花が補助金を受けてさらに安く輸出するため、世界の綿花市場に食い込めない。つまり、チャドは綿花を輸出できないのである。
マリは輸出金額が多いが、政府の流通・価格への統制が厳しい。これが政府・公務員の汚職につながっている。アメリカ政府・フランス政府は、マリ政府が綿花産業への干渉をやめるように求めている。しかし、マリ政府は、アメリカ政府とEUが綿花農家に多額の補助金を出し、綿花の輸出価格を引き下げ、アフリカの綿花農家を苦しめていることを批判し、WTOに提訴した。

●フランスによるアフリカの組織化
フランス旧植民地の綿花栽培を組織化する、フランスの行政組織ダグリスは、アフリカの流通機構を整備した。アフリカ各国政府は、自国産綿花の価格決定に大きな影響力を持つようになった。
しかし、IMFと世界銀行つまり実体はアメリカの国際金融機関は、ダグリスとアフリカ各国政府に、綿花産業の民営化を要求した。これはアフリカ各国に綿花栽培をやめることを要求することに等しかった。
フランスのダグリスは、IMF・世銀の要求に反対しながらも、アフリカ各国政府の腐敗堕落に手を焼いていた。アフリカの政府要人は、売り上げの一部を横取りするために、自国産綿花の輸出価格を高く設定した。高くて売れず、在庫がたまった段階で安売りして大損害を被ることが再三くりかえされた。

●アメリカの補助金
綿花栽培農家への補助金は、アフリカではない。
スペイン・ギリシャは、EUからの補助金がある。
アメリカは、政府から毎月補助金がある。アメリカ政府の、綿花関連補助金の総額は年40億ドルである。補助金が多いので、大規模農場で大型機械を使い、綿花を安く輸出できる。インド・中国に安く輸出し、低賃金で綿製品をつくらせ、それを輸入している。
もし、アメリカで綿花関連の補助金40億ドルが全廃されると、国際綿花相場が15%は上昇し、アフリカの綿花は国際市場で競争できるようになる。しかし、アメリカには国内綿花栽培農家への補助金を廃止する予定はない。
アメリカは、アフリカの石油資源開発援助に積極的だが、援助の条件が、アフリカ各国の綿花市場の自由化である。もし、自由化が進むと、アフリカ各国の安売り競争で、綿花栽培は行きづまり、共倒れになることが確実である。



●ブラジルの綿花栽培増加
ブラジルでは綿花栽培が増加したが、国際相場の低迷で利益が少なかった。ブラジルはアフリカのベナン・チャドとともに、アメリカの綿花補助金は自由貿易を阻害しているとして、WTOに協議を求めた。
ブラジル南部の綿花栽培は1農場が1千~3万haの広さで、機械化が進んでいる。生産コストも低く、アメリカとの競争力はあった。将来、アメリカと並ぶ綿花輸出国に成長する可能性が高い。そのため、WTOへの協議申請を途中で取り下げた(2003年)。

●アフリカの将来
アフリカの人件費は世界最低だが、綿花の品質は悪い。また、アメリカ・EUの補助金がアメリカ・スペイン・ギリシャの輸出競争力を強めている。
アフリカの綿花栽培農家に何らかの補助金がなければ、輸出競争力を回復できない。品質向上の意欲もわかないだろう。綿花栽培は、半乾燥地域の現金収入源として適している。しかし、アフリカの綿花栽培は、ブラジル・アメリカの最新の栽培技術と規模拡大のに負けてしまい、減少に向かう。







ジャン=ピーエル・ポリス「暗黒物語」作品社 ③カカオ

2006-05-09 | 世界地理
Jean-Pierre Boris著(林昌宏訳、作品社2005年)
「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」
 生産者を死に追いやるグローバル経済

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コートジボワールのカカオ産業



コートジボワールの黄金期(1960~93年)
コートジボワールは1960年にフランスから独立、ウフェボワニ大統領の独裁が続いた。大統領が死去する1993年まで、カカオ産業は順調に発展した。
輸出するカカオに課税して、輸出量と価格を操作した。カカオの国際価格が上がった時には税率を下げて輸出量を増やし、国際価格が下がった時には税率を上げて輸出量を減らした。この輸出税の収入を、カカオの安定化基金とした。輸出港はアビジャンとサンペドロであった。
コートジボワール政府の輸出量操作で輸出価格が安定し、安定基金の一部は農民の肥料・農薬購入補助金に充てられた。カカオ栽培農家の収入は増え、ウフェニボワニ大統領は、農民の絶大な支持を受けた。
カカオ生産量は年間150万トン、世界生産合計の40%を占めた。

カカオ栽培の危機(1980年~)
1980年には、コートジボワールの熱帯雨林地帯では、大半の農家がカカオ栽培を始めた。カカオのモノカルチャー経済となった。
国内外でカカオの生産過剰に陥り、コートジボワール政府は輸出品の税率を上げて輸出を減らした。安定化基金で農民からカカオの買い入れを続けたので国内の在庫が増えた。輸出が縮小すると税収が減り、1985年には安定化基金が底をついた。

我慢くらべ(1988年)
コートジボワール政府は、フランスの砂糖貿易会社に、在庫40万トンを売却して在庫を減らした。それでもカカオの国際価格の値下がりが続いたので、コートジボワール政府はカカオ20万トン以上を国内在庫として抱え込んだ。
イギリス・アメリカ・ドイツなどの貿易商人はヨーロッパに在庫が十分にあり、コートジボワールが安値でカカオを輸出する時を待った。ついにコートジボワールはカカオを国際市場価格で放出して、大損害を受けた。在庫の豊富な国を相手に、価格操作はできない時代になっていた。

世界銀行による民営化圧力(1990年)
アメリカのチョコレート資本は、貿易赤字に陥ったコートジボアール政府に、世界銀行を通して、カカオ産業の民営化を要求した。マーズ、ハーシー、キャドバリのチョコレート資本に、さらに穀物メジャーのカーギルも加わった。カーギルはフランス系流通会社JAGを買収し、フランスの影響力を排除していた。
世界銀行・IMFは、カカオ安定化基金の透明性と情報公開を求めた。カカオ安定化基金を潰し、自由貿易に転換させる意図が露骨であった。

ウフェボワニ大統領の死(1993年)
1960年の独立以来、カカオ産業でコートジボワールに繁栄をもたらしたウフェボワニ大統領が、1993年に死去した。
カカオ安定化基金は、消滅した。その理由として
①大統領を含む公務員が、安定化基金を個人的に流用していた。
②高級品を高く輸出しても、2級品カカオを安く輸出したことにし、差額を公務員が横領したこと。
③世界的にカカオの豊作と値下がりが続いたため、自国産カカオの輸出価格維持に安定化基金からの支出が多くなったこと。
④貿易商人が輸出税の高いコートジボワールを避け、ガーナ・ブラジルなどとの取引を増やした。このため、安定化基金の収入が減った。

カカオ安定化基金の消滅(1999年)
価格の高いコートジボワールのカカオは売れず、在庫が増える一方であった。農民の反発を覚悟で、市場価格で輸出をして在庫を減らした。しかし、価格は下がり、安定基金からの補給金も廃止されたため、カカオ農民の暮らしは苦しくなった。
国内政治が不安定になり、軍部の反乱と内乱が続いた。
2002年には、北部の砂漠地帯の貧しい住民が反乱軍を組織し、比較的裕福な南部のカカオ農民を襲撃した。イギリスアルマジャロ社のアンソニーワードが、反乱軍に武器を与え、南部を攻撃させたものであった。ワードは内戦でカカオの価格が暴落した機会に40万トンを買い占め、大きな利益を得た。
このため、フランス軍と国連軍が南部と北部の境界線に駐留するようになったが、今度はワードなど貿易商人の介入がなくても、カカオの残された利権を求め、内戦がくりかえされるようになった。カカオの安定輸出ができず、コートジボワールのカカオ収入は激減した。国民の生活レベルは低下した。

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以下のガーナについての記述は、「暗黒物語」にはない。
ガーナの失敗
ガーナがカカオのモノカルチャー経済で失敗した20年後、隣国コートジボワールは同じようにカカオのモノカルチャー経済で失敗した。20年前の出来事は、政治指導者には忘れるほど古い歴史なのだろうか。
アフリカ独立の父エンクルマ 
ガーナのエンクルマ(1909~1972年)は、イギリスとアメリカに留学後、イギリス植民地ガーナの独立運動を指導した。1947年に統一ゴールドコースト会議書記長になり、1949年には会議人民党を組織した。
1957年にガーナの独立を達成すると、初代ガーナ大統領に就任した。エンクルマは、アフリカの多くの国が独立する理論的精神的なバックボーンになって、アフリカ独立の父といわれた。1960年には多くの国が独立し、「アフリカの年」といわれた。
しかし、ガーナの社会主義的経済政策は失敗した。1966年の中国訪問中にクーデターが発生して、エンクルマ大統領は失脚した。エンクルマ大統領は終生ガーナに戻ることができず、ギニアで亡命生活を送った。
エンクルマ大統領の社会主義政策 
エンクルマはガーナの独立(1957年)から、クーデターで大統領の座を追われる(1966年)まで独裁政治を続け、社会主義的イデオロギーにもとづいた経済政策を実施した。アフリカの新興独立国が経済的自立を達成するためのモデルであった。
しかし、エンクルマのいずれの政策も、ガーナの財政を圧迫した。独立によってガーナ国民は自由を得たが、その代償としてガーナ国民は深刻な貧困に襲われた。
公共投資
カカオのモノカルチャー経済では財政収入が少なく、国家の運営が難しかった。エンクルマ大統領はガーナの近代化のために工業化路線を選択した。港湾・空港・アコソンボダムを建設し、産業基盤整備の整備を進めた。
工業化政策
植民地時代の収奪のため、ガーナ国内に民間資本(企業)は存在しなかった。独立直後の新興国家には、外国資本も進出しなかった。
エンクルマはガーナの工業化のため、国営企業を設立した。国営企業は、輸入代替型の軽工業と、アコソンボダムの水力発電を利用したアルミニウム製造が中心であった。
国営企業保護のため、競合する工業製品の輸入を規制したり、外資の進出を禁止したりした。また、政府からは国営企業に潤沢な補助金が支出された。
これらの結果として民間企業が育成されず、非効率の国営企業が増加した。国営企業幹部とガーナ政府には、汚職と腐敗が広がった。
カカオ産業国有化の失敗
ガーナ国内の失業者20万人をカカオ関連事業に雇い入れ、給料を支払った。農民の出荷するカカオの価格はガーナ政府が保証し、農民の生活は安定したかのように見えた。しかし、工業への支出が膨らんだり、カカオの値下がりのため、カカオ関連の公務員に賃金を払うことができなかった。
カカオ栽培農家と公務員が手を結び、政府に公務員への賃金支払いを求めたが、必然的に反政府運動、エンクルマ大統領追放運動へ、さらに軍部のクーデターへと発展した。エンクルマ大統領は、外遊中に失脚した。


ジャン=ピーエル・ポリス「暗黒物語」作品社 ②コメ

2006-05-07 | 世界地理
Jean-Pierre Boris著(林昌宏訳、作品社2005年)
「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」
 生産者を死に追いやるグローバル経済

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コメの生産と消費

●20世紀までのコメの保存と輸送。
コメの貿易量は年間1千万トン、小麦の1割である。コメは日本ではモミで保存する。常温で3年間は保存可能である。最近は玄米を低温倉庫で保存する。保存費用はかかり、食味が落ちるが、3~5年間は保存可能である。
しかし、10年前まで、貿易用のコメは、ほとんどが白米(精米)であり、野菜同様、10日で虫がわきはじめ、1か月で腐敗した。コメを輸入する発展途上国には低温保存倉庫がないため、ひどく味の落ちた、家畜のえさ以下のコメを食べた。
コメ輸送船も、エアコン設備のないボロ船であった。その船が1万~5万トンのコメを積み、アフリカ沿岸を航行しながら、買い手の現れるのをひたすら待った。日数が経つほどコメの劣化腐敗が進んでも、高い値段で売れた。

●21世紀のコメの流通。
コメの在庫が減った国では、貿易会社がインターネットで公開される世界の白米供給状況を調べ、輸入注文を出す。コメが劣化する前に到着し、家畜のえさのようなコメを食べることはなくなった。
コメの国家管理をしている国は少なく、コメは大半の国では、他の工業製品のように自由に売買されている。20~30人の零細な貿易会社が、コメを買い集めて、船を手配し、注文のあった国に送るのである。20世紀のような、政治家と公務員によるヤミ取引が姿を消し、公明正大で儲けの少ない貿易になった。
コメを扱う大企業は、フランスのルイ・ドルフェスだけである。

●コメとマネーロンダリング。
2003年、アフリカ諸国は内乱に疲れ果てていた。コメもコムギも、当然、自国通貨もない。武器を購入するためにダイヤモンドが密輸され、その代金のドルだけはあった。
レバノン人貿易商タドジェデェンは30万トンのコメを、アンゴラ・西サハラ・コンゴ・モザンビーク・マダガスカルなど、内乱が治まったばかりの国に、安く売り歩いた。売った相手はパキスタン人商人であった。支払いには、ドルが使われた。
タドジェデェンの目的は、カネの出所を明らかにするためのマネーロンダリングであった。これまで、このようにして得たカネの一部がイスラム過激派に渡り、2001年11月の貿易センタービル攻撃の資金になった疑いがあった。2003年、一時マダガスカルで身柄を拘束されたが、政府はイスラム過激派の攻撃を恐れてすぐ解放した。

●アフリカのコメ栽培はむずかしい。
フランス植民地ベトナム・ラオス・カンボジアに派兵されたアフリカ人が、コメの味を覚えていて、故郷アフリカに戻ってコメを求めた。
アフリカのコメの栽培は困難である。水の管理も難しいが、コメを内陸産地からトラックで輸送よりも、外国特に中国などから輸入する方が安いからである。輸入港では、関税徴収も容易である。
コメの輸入許可は公務員・政府要人へのワイロが必要であった。その輸入米が余れば、人道団体にコメを売りつけ、貧しい者に配給させた。国内にはコメ輸入の利権が多く、国内でコメを本気になって栽培すれば、利権を失う公務員・政治家が多い。アフリカでコメの栽培面積を増やすことはむずかしい。


●中国の動向が、世界のコメ価格を動かす。

中国は食料の安定供給をめざし、コメの国内在庫を増やしている。コメの豊作年には、大量の古米在庫を放出する。世界のコメ価格は暴落する。
中国の在庫放出の情報を素早く手に入れた貿易商人は自分の在庫を処理した上で、中国の安いコメを入手できる。これをアフリカで転売すると、大きな利益をえることができる。中国共産党幹部と、パキスタン・レバノン・華僑などのコメ貿易商人とは、強い結びつきがある。
また、コメが不作の場合、価格が暴騰する。中国は輸入価格をできるだけ低くおさえるため、隣国ベトナムから密かに輸入する。この情報を得た貿易商人は、ベトナムに世界中の安いコメを運び、中国に高く売るのである。中国がどれだけの量を、どれだけの価格で買うのか、この最高機密を知るため、コメ商人は中国共産党幹部と、常に友好的関係を維持しなくてはならない。

*棚田の写真は本書からのものではない。


ジャン=ピーエル・ポリス「暗黒物語」作品社 ①コーヒー

2006-05-06 | 世界地理
Jean-Pierre Boris著(林昌宏訳、作品社2005年)
「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」
 生産者を死に追いやるグローバル経済

農産物が国際商品として取引されるが、先進国の多国籍企業と、発展途上国の政府系工業製品とが手を結んで利益を分け合う構図がある。発展途上国側の政治的無能力や行政の怠慢が、多国籍企業に多大な利益を与える一方、農民の暮らしを苦しめる結果になっている。
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コーヒーの生産と消費


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●コーヒーのアラビカ種はニューヨーク市場、ロブスター種はロンドン市場で価格が決められる。世界のコーヒー消費量が減少傾向にあり、コーヒーは値下がりしている。コーヒー農家には1kg1ドル必要だが、現在のコーヒー価格はその半値である。コーヒー農民の暮らしは成り立たない。ベトナムが世界銀行の融資と共産党の組織力を使い、コーヒーの大増産に乗り出し、世界第3位の生産国になった。ベトナムの安いコーヒーが、世界のコーヒー市場を攪乱しているのである。
コーヒーの値下がりの結果、肥料・農薬・除草・苗木を買うことができず、農民の生産意欲はなくなり、コーヒーの味が落ちた。特に安いベトナム産コーヒーを使うインスタントコーヒーなど、安いコーヒーほど、味が落ちた。

●中央アメリカの、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアでは、20世紀末からコーヒー相場の値下がりの影響を強く受けた。標高1000m付近がコーヒー栽培適地であり、栽培面積は広くない。
ホンジュラスでは大コーヒー園の経営者には影響が小さいが、中小農場の経営者も農民も、失業・貧困・破産などの悲劇に見舞われた。アメリカに仕事を求めて密出国したり、左翼ゲリラに参加して経済構造を変えようとしている。

コスタリカは1830年からコーヒーの輸出価格を統制していた。コーヒー加工センターがあり、選別・洗浄・乾燥を行い、付加価値を高めてヨーロッパに輸出していた。しかし、1980年からコーヒーの国際価格が下がると、コスタリカの高品質・高価格のアラビカ種コーヒーは売れなくなった。売れ残りのコーヒーをアメリカ資本が安く買いたたいて、アメリカで販売した。コスタリカのコーヒー農場経営者は経営が苦しくなって肥料・農薬・水を節約したので、コーヒーの品質は低下した。

ブラジルのコーヒー生産は、農民が勝手に栽培をするのではない。銀行・企業家が厳密な市場調査にもとづいて、どれだけのコーヒー農場が必要かを決める。20世紀末に国際価格が低下した時、ブラジルがコーヒーの栽培面積を拡大して世界のコーヒー市場を独占をねらった。高い技術で、高級アラビカ種を大量に輸出した。世界のコーヒー市場では、さらに価格低下が続き、ブラジルの力が強まった。しかし、コーヒーの市場価格低落は、ブラジルの増産の責任とはされなかった。

ベトナムのコーヒー栽培が急増したのは1980年代である。1986年のドイモイ政策で、工業化を後回しにし、コーヒー・コメ・胡椒などの商品農作物に、国家の経済力をつぎ込んだ。ベトナム共産党には国民を動員する力があった。近いアンナン山脈中腹の少数民族をさらに高地に追放し、全国からコーヒー栽培を希望する農民を集めた。世界平均のコーヒー豆収穫量は500kg(1ha)程度だが、ベトナムの目標は2トン(1ha)であった。味が悪いが、栽培が簡単で量のとれるロブスター種コーヒーを栽培した。
収穫年は最初から目標の2トンを越え、国全体では200万トンを越えた。ブラジル・コロンビアに次ぐ、第3位のコーヒー輸出国になった。
1995年にはブラジルに寒波が襲ってブラジルコーヒーは不作。1996年にはアメリカはベトナムからの輸入解禁。1997年にはベトナム通貨ドン切り下げによるコーヒー輸出価格の低下で、ベトナムコーヒーは安値輸出で世界市場を席巻した。
ベトナムが世界的な生産協定の制約を受けず、毎年、世界市場に200万トンのコーヒーを安値で供給するため、ブラジル以外のコーヒー生産国は、ベトナムに対抗して安値輸出をしなければならず、大きな損失を受けた。中南米のコーヒーが壊滅的打撃を受けたのは、ベトナムの輸出急増のためであった。
しかし、ベトナムの農民は、イギリス・フランス資本とのひも付き安値輸出、華僑からの肥料代・農薬代の借金、1ha当たり2トンの高いノルマのため、生活は楽にならなかった。
コーヒー輸出の元締めがベトナム共産党である。ドイモイ政策の恩恵を受けたのは一部の党幹部だけであった。

コーヒー国際協定は1962年にはできていた。冷戦の最中で、貧しいコーヒー農民を共産主義者にしないための価格協定であった。1984年までは456g120セントの標準価格が遵守されていた。しかし、1985年にブラジルのコーヒー農場が冷害に襲われると、コーヒー相場が上昇し、コロンビア・インドネシア・中央アメリカは大儲けをした。価格協定は、完全に破られた。
アフリカ諸国には、コーヒーの国際価格高騰の恩恵はなかった。独立後の権力争いとしての内乱が続き、肥料の不足、コーヒーの集荷輸送が問題になった。

1987年、豊作のブラジルは世界支配をめざした。インドネシアとともに大量の在庫を放出して価格を引き下げ、コロンビアのコーヒー農家をつぶす計画であった。しかし、コロンビアは、とうもろこし・大豆栽培、肉牛飼育への転換で危機を乗り越えた。中米のコーヒー輸出国への打撃が大きく、価格低下に対応できないコーヒー経営者は廃業した。ブラジルは国際的批判を受け、安値攻勢をやめて、輸出規制に転換した。
ブラジルは1990年に輸出規制をやめた。これはアメリカがNAFTAを結成し、メキシコからコーヒーを大量輸入できるようになり、ブラジルは輸出規制続けると、アメリカ市場を失う恐れがあったからであった。

コーヒー生産国同盟(ACPC)が1998年に発足した。コーヒーの輸出価格を40%上げるために、輸出量を20%削減する計画であった。しかし、ブラジル以外にはコーヒーの栽培と輸出を管理する国家機関は存在しなかった。また、輸出を減らすためには保管倉庫が必要だが、農家にはそのような資金はなかった。
このため、輸出削減計画は失敗し、ACPCは2000年に廃止された。
コスタリカはドイツの支援を得て、品質の悪いコーヒー5%を捨て、コスタリカ産コーヒーの価格を引き上げた。しかし、高くて売れず、輸出価格の引き上げに失敗した。

コーヒーの品質低下が最近の傾向である。輸出用コーヒー1袋について、1990年には農民の取り分は40%であった。2002年には1~10%に低下した。多くのコーヒー栽培農家は、生産意欲を失った。
中小・大手いずれのコーヒー資本も、世界中の貿易業者からインターネットオークションでコーヒーを安く仕入れるようになった。ここでは農民・農場のコーヒー販売価格が一覧票で示されて、安いコーヒーから順に取引されるようになった。高品質で高価格のコーヒーは売れなくなった。国家単位の輸出統制(数量・価格)が困難になった。ベトナムとブラジル以外のコーヒー農家は、経営が難しくなった。

多国籍企業(ネスレ、フィリップモリスなど)は市場の論理で、コーヒーを買いたたいて安く仕入れる。コーヒーを商品として売るためには、加工、パッケージ、宣伝、税金、小売店の利益、在庫などに大きな費用がかかるので、利幅は小さい。しかし、コーヒー農家の取り分は輸出価格の10%以下であり、低品質のコーヒーが出回るようになった。
コーヒー輸出国として残るのは、大規模経営で生産コストの低いブラジルと、生産コスト無視のベトナムぐらいである。
発展途上国は世界銀行からの借金で、コーヒー苗、農薬・肥料を購入し、加工設備を建設した。コーヒー生産農家は、実質アメリカ資本の世界銀行にも苦しめられているのである。