日本の風景 世界の風景

日本と世界各地の景観を、見直します。タイトルをクリックすると、目次(1)(2)(3)になります。

デンマーク  Kingudom of Denmark

2007-09-26 | 世界地理
面積4.3万km、人口543万人の国
面積・人口だけを考えれば、デンマークは小国である。500の島の集まりであり、首都コペンハーゲンはシュラン島にある。世界最大の島グリーンランドはデンマーク領だが、グリーンランドは自治権を得て、デンマークからは政治的に独立している。


高福祉高負担
デンマークの一人当たり国民所得が40750ドルである。日本は37050ドルである(2004年)。デンマークでは付加価値税は例外なしの25%、所得税は50%、自動車取得税は80%である。収入の80%近くは何らかの税負担で消えてしまう。
しかし、デンマークでは医療費がすべてタダ、大学までの学費がタダであり、税の使途は明確である。
日本では子どもの教育費用と退職後の生活費用に預貯金をしなくてはならない。租税負担は40%程度であっても、手元で自由に使うことのできるカネは、デンマークよりもはるかに少ない。
日本の少子高齢化社会では、各自がカネを貯えて生きていくのか、高率の福祉税で生きていくのか、そろそろ、日本国民が決める時であろう。


酪農王国
デンマークは1848年、1864年にプロシアと戦って負け、ユトランド半島の農業地帯を失った。氷河地形の荒れ地が残ったが、そこでは牧草の栽培は可能であり、酪農に活路を見いだした。失われた領土にはホルツシュタイン地方で開発された乳牛ホルツシュタイン(ホルスタイン)種を飼育した。
乳牛になるのは出産直後のメス牛だが、生まれた牛がオスならば肉牛として飼育された。
乳製品、肉牛の加工・輸出などは、国と民間の連携する農業理事会が推進した。


デンマークの風力発電割合は20%
デンマークの総発電量の80%が火力発電、20%が風力発電である。風力発電の総量、比率ともにドイツの方が高く、デンマークが第1位ではない。
デンマークでは風力発電の機器の売買、電力料金に25%の付加価値税がかかり、電気料金が高い。そのため国内の電力消費量が停滞し、日本・アメリカのように原子力発電に依存することはない。デンマークは、風力発電の比率増大をめざしている。
デンマークの風力発電は、協同農場に風力発電機器を並べる形であったが、次第に海上に風力機器を並べる形に変わってきている。海上の方が発電機器の数を増やすことと、強い風力を得ることができるからである。
デンマークでは、第1次石油危機(1973)以後、農業機械メーカーが風力発電の発電の安定と増加、大型化・量産化を進めた。最終的に、3社が市場競争で勝ち残り、風力発電の基本特許を独占して、世界の風力発電市場において、圧倒的な支配力を維持している。



グリーンランドはデンマーク領、面積は世界最大217万k㎡
デンマーク領グリーンランドの面積は約 220 万 k㎡ 。氷河は180万k㎡を占めるが、地球温暖化の影響で氷河は縮小傾向にある。これまでは航空機やスノーモービルが利用されていたが、陸地拡大とともに道路整備が進み、自動車が新たな交通手段として普及しつつある。
グリーンランドの人口は6万人。先住のイヌイットが5万人以上、デンマークなどからの移住民が1万人以下である。イヌイットは伝統的なグリーンランド語を使う。歴史的伝統的漁業としてクジラの捕獲が国際的に認められている。その他にアザラシ、セイウチなどの狩猟生活が行われている。
グリーンランド沿岸では北極エビやムール貝などの漁獲量が多く、冷凍加工後、日本に大量に輸出されている。
しかし、北極圏の温暖化が進んで、これまでのような付加価値の高い魚介類を漁獲、加工輸出することが難しくなることが予想されている。タラ・イワシ・サバなどのような値段の安い魚の漁獲が主体になる。漁業としての生計は成り立たないかもしれない。
1979年からはデンマークから政治的に自立し、自治権を得た。一院制の議会があり、首都名はゴッドホープからヌークNuukに変更された。
















東京タワー

2007-09-22 | 世界地理
東京タワーの正式名は「日本電波塔」
1957年、産経新聞グループの総帥前田久吉が日本電波塔株式会社を設立し、東京芝増上寺の墓地を移転整理し、その跡地に東京タワーを建設した。1958年には完成した。
TVについては、NHK総合・教育、フジTV、TBS、TV東京、TV朝日、放送大学TV、東京メトロポリタンTV、それに日本TVが、東京タワーから電波を送っている。


東京タワーの展望台から見下ろせば、増上寺。展望台売店のソフトクリームは安くて、おいしくて、涙が出て止まらない。


日本TVは正力松太郎支配下の読売新聞グループである。ライバル産経グループの東京タワーを利用せず、麹町本社隣接地のアンテナから放送した。アンテナが低くて受信エリアが狭いため、読売グループは、新宿に高さ500mの日本TVタワーを建設する構想を発表した(1968年)。しかし、立川の米軍基地を離発着する軍用機の障害になる恐れがあり、米軍が反対したため、新宿タワー計画は頓挫した。日本TVが東京タワーを利用したのは、正力松太郎の死後のことである(1970年)。

2011年の地上デジタル問題
2011年7月24日、全国のTV放送波は地上アナログから、地上デジタルに一斉変更になる。東京タワーの高さ333mでは、現在の受信エリアにデジタル波が届かない恐れがあり、新東京タワー構想が持ち上がっている。
これに対して、東京タワーを運営する日本電波塔株式会社は、東京タワーからのデジタル波で、現在のアナログ受信範囲をカバーできると主張し、引き続き東京タワーの利用を各TV局に呼びかけている。次の①~③が東京タワー側の案である。

①東京タワーの、デジタル送信アンテナの取付け位置を、現在よりも100m上げる。この経費は東京タワーが負担する。
②各放送局専用の送信管理ビルを、新たに建設する。この費用も東京タワーが負担する。
③東京タワーの利用料金は、現行のアナログ以下とする。

もし、新東京タワーが建設され、東京タワーが利用されなくなった場合、東京タワーは無用の長物となる。観光収入も送信料収入もなくなってしまう。それで、新東京タワーに対抗する提案をしたのである。


新東京タワー建設計画
浅草など東京下町に電車・百貨店などを経営する東武グループには、東武鉄道貨物専用駅(東京都墨田区押上)をつぶし、新東京タワーを建設する具体的計画がある。高さ600mとし、ここからのTVデジタル波は、現在の東京タワーのアナログ波到達域を全部含む。
各テレビ局が、現在の東京タワーを使うのか、それとも新東京タワーに乗り換えるのか、その判断次第で新東京タワーの建設が実現するのか、あるいは幻に終わるのかが決まる。
2011年のアナログ・デジタル転換までに新東京タワーを完成させるためには、2009年中に着工しなくてはならない。2009年が新旧東京タワーのタイムリミットである。


浅草から墨田川の向こうに見える新東京タワー(完成予想図)





チェコ  Czech Republic

2007-09-20 | 世界地理
ボヘミアン



チェコの西半分がボヘミア地方であり、インド北部からの流浪の民ジプシーが生活する。ジプシーは定住地から追われているにもかかわらず、あたかも国境・言語・法・慣習にとらわれず、自由奔放に生きているように見られた。このような生活はある種の人々には理想の暮らしと考えられ、ボヘミアンといわれた。
窮屈な近代化の進むヨーロッパ社会において、チェコのボヘミアンのような自由奔放な生活を求める者も、ボヘミアンといわれた。ヨーロッパの大都市に生きるボヘミアンは、親の資産のある限りは奔放な生活を送ることができた。ボヘミアンによる新しい芸術はボヘミアニズムといわれたが、芸術的価値も歴史的価値もない。

チェコのボヘミア地方では、スラブ人がいわゆるボヘミアンの生活を模倣することなく、ガラス製品の芸術的価値を高めることに心血を注いだ。18世紀にはいわゆるボヘミアングラスがつくられた。
ボヘミアングラスは、ボヘミアンの自由奔放な生活から生まれた芸術品ではない。スラブ人の厳しい徒弟制度の中から生まれた商品である。高い芸術性が大きな特徴であり、世界の王侯貴族の愛好品になった。制作者の個人名は残らず、ボヘミアングラスという地域名として残った。




ピレゼンビール(ピレスナービール)
19世紀までのビールは灰色に濁っていた。チェコの工業都市ピルゼンにおいて、黄金色のビールがつくられ、ピレゼンビールといわれた。ピレゼンの地名は、ピレスナーとも発音される。ピレゼンビールは、ピレスナービールともいわれる。
黄金色のピレゼンビールつまりピレスナービールはヨーロッパで爆発的に売れた。

現在、全世界のビールは、基本的には、ピレゼンで開発された製造方法で生産される。チェコとその周辺諸国の人々は、ピレゼンのビールだけを理想的なビールと思っているのではない。それぞれの地域の「地ビール」に限りない愛着を抱いている。製造の基本はピレゼンビールであるが、地ビールには大麦とホップの調合により、味と香りに大きな差がある。



「プラハの春」を踏みにじった者たち
1968年チェコのプラハではドプチェク第1書記の指導で、ソ連からの自立と共産党の支配を再考する動きが強まった。言論・政治の自由であり、ソ連にとっては他の同盟諸国への影響を考えれば、最も恐ろしい事態であった。

1968年8月3日、チェコスロバキアのブラチスラバ(スロバキア)において、ソ連がポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリアと、プラハ(チェコ)の自由化運動への軍事的対応策を話し合った。具体的にはワルシャワ機構軍によるプラハの占領と、ドプチェクらの自由化指導者の拘束である。

その会議中に、チェコスロバキア共産党のアロイス・インドラ、ドラホミール・コルデル、ビリャーク、アントニーン・カペクらから、チェコ共産党全体の意見として、ワルシャワ条約機構軍の軍事支援、つまりチェコへの派兵を求める文書が届いた。

要するに、プラハの反ドブチェク勢力が、ソ連のブレジネフと結託、ワルシャワ条約機構軍による自由化の圧殺を求めたのである。国内での政治的地位を上げるための、個人的動機もあった。
チェコ共産党の求めを名目に、1968年8月20日、ワルシャワ機構軍がチェコ全土を占領、ドプチェクの身柄を拘束した。チェコは再びソ連に隷属することになり、プラハの春は半年で終わった。

ソ連の戦争は、弱体化した地元共産党に請われて軍隊を派遣する形をとる。ハンガリー、アフガニスタン、カフカス諸国などへの、ソ連軍あるいはワルシャワ機構軍の派兵は、形式的には頼まれた派兵であり、ソ連の軍事戦略の都合による一方的派兵ではない。ということになる。

東京駅の金の鈴

2007-09-17 | 世界地理
金の鈴ではなくて、銀の鈴はどこですか、ご老人に訪ねられたが
1968年、東京駅八重洲口の待ち合わせ場所として、第1代の「銀の鈴」がつくられた。くす玉のように竹で鈴の形をつくり、銀紙をはりつけた「銀の鈴」であった。



現在の「銀の鈴」はブロンズ製で、1985年につくられた。東京駅の絶え間ない改修工事で構内をあちこち移転し、どこにあるのか分からない状況が続いたし、鈴は傷だらけになった。それでも「銀の鈴」は東京駅の重要な待ち合わせ場所である。
しかし、誰が見ても「銀の鈴」は銀色ではなく、金色である。
田舎から大きな荷物を抱えて上京、娘と会う約束の場所「銀の鈴」を捜し当てたものの、よく見ると金メッキの「金の鈴」である。もしかしたら、「銀の鈴」は別にあるのでは・・・、と他人に訊きたくなるのは当然だろう。


スロベニア共和国   Pepublic of Slovenia

2007-09-01 | 世界地理
2004年にNATOとEUに加盟
旧東欧では親ソ派と反ソ派とが反目し、内戦が絶えないものであった。しかし、チトーの独裁下のユーゴスラビア(1929~91)では内戦が少なかった。また、1980年にチトーが没した後、ユーゴスラビアでは内戦に突入したが、スロベニアだけは内戦を避けることができた。スロベニアはイタリア資本との協調により、工業国として安定的に発展した。一人当たりGNPが1万ドルである。
2004年にEUに加盟した。西ヨーロッパ全体を輸出市場とする可能性を見込んだが、他の旧東欧諸国よりは賃金が高く、西側先進国の企業誘致は困難であった。むしろ、ポーランド・ハンガリー・スロベニアなどの低賃金のEU加盟国に企業が進出した。スロベニアの旧東欧における優位は崩れた。




カルスト地方は石灰岩の溶食地形
石灰岩は地下水と雨に溶ける。地表面のくぼ地には、大きさによりドリーネ、ウバーレ、カレンフェルトに区分される。地下には、地下水が鍾乳洞をつくる。
Postojnaから南には鍾乳洞の出入り口が地表に多数現れて、「シュコツィアン鍾乳洞群」として、世界自然遺産に指定されている。
巨大なポストイナ鍾乳洞(Postojna cane)があり、スロベニアの代表的観光地になっている。その近くの小さな鍾乳洞には、入口をふさいだ「プレッド洞窟城」がある。地下水が城内を通って流れ出ている。