ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫 し 12-31)塩野 七生新潮社このアイテムの詳細を見る |
「わたしは、この都市の気分をしっている。 われわれメディチがおい出されるまでに五十年とは要しないであろう。 だが、モノは残る。」(コシモ・デ・メディチ)
「-----人間は、自分自身を支配する力よりも大きな支配力も小さな支配力も、もつことはできない存在である-----」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
暑い時期ですが、夏休みにローマに行く予定です。 トレヴィの泉にコインは投げませんでしたが、2回目です。 前回は、古代ローマ帝国がテーマだったので、ローマの中心部だけでした。
今回は少し範囲を広げる予定です。 ローマ郊外の水道橋を見に行くとか、アッピア街道を見に行くとか。
1日でだけですが、フィレンツェに行く準備もしました。 ユーロスターの切符も取ったし、ウフィッツィ美術館の予約もしました。 物理的な準備だけでなく、頭の準備も必要です。
ルネサンスの知識が全くなしにフィレンツェに行くということは、奈良時代や平安時代の日本史を知らずに京都や奈良に行くようなもの。 自分の感性を頼りにモノをみることも大事ですが、予備知識があれば、また別の感慨も沸いてきます。
ちょうどいい時期に塩野七生さんの「ルネサンスとは何であったのか」が文庫で今年の春に出ました。 でてすぐに買いましたが、読む気力が無く放っておきました。 この3連休で、やっと読む気になった次第です。
イタリア語がルネサンス時代に完成し、当時の著作を現代語訳を必要とせずに、読めるというのは、日本語の古典を原文のまま読めない私にとっては驚きです。
20年前近くにメディチ家に関する本を読みましたが、西洋史の知識な無いため、内容を全く理解できずに、タダ退屈だったことを覚えています。 塩野さんのこの本は、いきなりメディチ家に行くのではなく、その250年前の13世紀初頭から話が始まります。 塩野さんの「ローマ人の物語」と組み合わせると中世を中抜けして、ヨーロッパ市を概観することができます。
ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) 新潮文庫塩野 七生新潮社このアイテムの詳細を見る |
旅行に向けて気分は盛り上がってきました。 公私共に何も起きずに夏休みを迎えて、終わるのを願うばかりです。
<追記>
最後の解説まで読了しました。
解説に代わるのは三浦雅士氏と塩野七生氏の対談です。 著者が対談しているのですから、当然、三浦氏は著者と著作をよいしょしてます。 そのよいしょがあまりに高尚なので、歴史や文学、哲学に縁のない技術屋は少し圧倒されました。
そのため、1時間程度、この記事を非公開にしたのですが、考えを改めて、再度公開することにしました。
その理由は、私がエンジニアであるためです。 文学や歴史や哲学や芸術は教養を必要とします。 でも、それは、あくまで、文献というモノがあってのことです。
エンジニアの仕事は色々ですが、その真髄は問題意識と努力の先にモノの付加価値が生まれることにあります。
あとがきに代わる対談には少し圧倒されましたが、ルネサンスの精神や遺産が残っているなら、それは、政治家や役人ではく、科学者や技術者の中にであろうと思うのです。 精神的自由を求めているのは、今は文人でなく、科学者や技術者であろうと思います。 政治家に時代は変えられないかも知れないが、科学者や技術者は世界をひっくり返すことができるかもしれません。
と、言うようなことをおもって、いったん引っ込めた記事ですが、再度公開することにしました。 この記事に置いた本はどちらもすばらしい本です。 できれば、高校生に読んでほしいと思います。 少し、難しいかもしれませんが。 苦手な世界史がとても好きになるかもしれません。
私が高校生の時にこんな本が無かったことが残念です。
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