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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山県津山市の材木町遊廓跡(後編)

2017年08月29日 | 
最も保存状態のよい妓楼(と言っても1階は大分手が加えられた形跡あり)は伏見町側にある。2階の照明器具や手すりなどに色街の残り香を微かに感じた。

遊里2

遊里3

小路に面したスナックはその傷み具合から見てもう営業していないだろう。突き当りを左折し宮川の土手下方面へ向かう。転業アパートの手前が小さな遊園地になっている。材木町案内図(※東大番所跡近くに設置)を見るとこの奥に稲荷がある。

遊園地

案内図(拡大)

もと妓楼を安易に「負の遺産」として片付けずに1つ位は「歴史的建造物」として改修保存してもらいたい、広島県福山市鞆町の「ありそ楼」のように。最後に『角川日本地名大辞典33 岡山県』から材木町の説明を引用しておく。津山城築城の際の木材置場がその後追廻馬場となり千歳町(ちとせまち)を経て遊廓へと変貌する流れが掴めると思う。

[近世~近代]江戸期~現在の町名。江戸期は津山城下の1町,町人地。明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名。(中略)町名の由来は,森氏津山築城のとき用材置場にしたことによる。城下町の建設が続いて材木商が生まれ,商業の町となった。元禄10年の城下町図によれば,家数33うち持家30・借家3,人数479(男244・女235)。津山家数役付惣町堅横関貫橋改帳によれば,大工職14軒が見え,ほかに木屋・木挽屋があり,材木商と見られる屋号もある。町並みの南の材木置場はのちに馬場となった。これは川岸を利用したもので,富くじの会場にも利用され,よく人が集まったという。小須賀稲荷神社があり,松平氏重臣の小須賀氏別邸が当町にあって,その屋敷神を町内神にしたものである。東に宮川が南流し宮川大橋がある。ここに城下東の入口として大番所があり制札場があった。東部からはこの橋を通らなければ町に入れず,通行量は多く当町の商家は商いに有利であった。明治期の戸数69・人口239(津山誌)。明治以降宮川土堤を中心に遊廓が成立した。千歳町・追回しなどと称され,西へ発展し伏見町にものびたが昭和32年に消滅した。津山劇場あるいは宮川座は明治末期から昭和40年代まで芝居を中心に興行していた。(以下略)

案内図
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岡山県津山市の材木町遊廓跡(前編)

2017年08月28日 | 
遊里研究のバイブルを読んで期待して現地へ行った人の殆どは落胆するであろう。時代の流れには誰も逆らえず建て替えが相当に進んでいる。

津山市材木町遊廓は岡山県津山市材木町及伏見町に在つて、作美線津山駅へ(※ママ)下車して東北へ約拾丁の個所に在る。津山は松平氏の旧城下で、城址は今鶴山公園に成つて居る。(中略)明治維新の際に、藩主松平氏が、市の繁栄を計る為めに補助金を交付して、初めて此の遊廓を設立したもので、他廓とは一寸其の行き方が異つて居る。従つて其の建物や構造等は一寸他廓の追従を許さぬものがある。設計者は当時の藩士榊原貞一氏であつた。目下貸座敷は十八軒あつて、娼妓は約九十人居るが、重(※ママ)に金県の女である。店は写真式に成つて居て陰店は張つて居ない。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と仕切花制とである。費用は一時間が一円五十銭で、午後六時から終夜は八円、引け過ぎからならば四五円程度である。勿論客の廻しは取らない。台の物は附かない、芸妓は呼べない。娼楼には、浪花楼、花月楼、一冨士、油宗、見晴楼、菊水、日の出、都楼、松月、鶴の家、松田、春日楼、昭和楼、岡田楼、小野恵、大正楼、一心楼、金本楼等がある。

『全国遊廓案内 昭和5(1930)年発行』



遊里への入口付近にかつての妓楼と思しき建物が数軒残るのみだ。色街の規模は(娼妓及び貸座敷の数の単純比較で)福山の新町遊廓の方が上だったようである。大正版『福山案内』には「遊廓 新町にあり、新町遊廓と稱す、妓樓及貸座敷四十八戸、娼妓九十一人なり」との記述あり。

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岡山県津山市伏見町41・本琳寺にある遊女の供養塔

2017年08月27日 | 
旧出雲街道より伏見町の小路に入り陰鬱な気持ちを抑えながら南下した。非常に短い思案橋を渡った先に真宗大谷派不遠山本琳寺がある。

山門

本堂

本堂が新しいことに気付いてちょっと変だなと思ったのだが、それは平成20年(2008)春に再建されたものだった。本堂前から墓地へ移動する。遊女の供養塔はブロック塀に近いところに建立されていた。

供養塔

銘文

裏面に「卜地于本琳寺中改葬遺骨建納骨碑以行追弔法會又将合葬今後遊女病歿者永久弔祭云因記其略歴……昭和三年三月 津山遊廓組合事務所誌」という刻銘あり。私は「人生いろいろ…天国と地獄はいつも紙一重…」と呟き寺を出てかつての遊里へと足を向けた。

銘文(拡大)
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岡山県津山市山下89・城南医院前の浮田佐平翁壽像

2017年08月24日 | 
東大番所跡から宮川に沿って北上すると津山城の石垣が見えてくる。私は城南医院の東側にある文学碑(竹久雨町 昭和55年11月設置)を眺めてから浮田佐平翁壽像に近付いた。

文学碑

翁壽像

浮田佐平(うきださへい)は浮田製糸の設立者で登り窯を作って佐平焼を生み出したことでも知られる。赤井克己さんの著作『続・瀬戸内の経済人:人と企業の歴史に学ぶ23話』に佐平の業績が詳細にまとめられている。

 卯佐吉の長男(佐平)は慶応3(1867)年10月、津山城下に生まれ、明治18年(1885)年ごろから製糸業にかかわった。18歳の時である。
 (中略)
…同45(1912)年2月には合名会社浮田製糸(資本金25万円)を設立…
 絹織物づくりにも乗り出し、ピーク時の昭和5(1930)年ごろには…県下最大手の郡是製糸津山工場に次ぐ規模に成長した。
 (中略)
 太平洋戦争の勃発は、生糸づくりどころではなくなってきた。…浮田製糸も昭和17(1942)年工場を閉鎖、60余年の歴史を閉じた。
 (中略)
 同社の工場、繭倉庫は、津山市山下一帯約3000坪(約9000平方メートル)に多数並んでいた。旧出雲街道北側、現津山国際ホテル(津山市山下)南の旧京橋御門から東の宮川までの広大な工場跡は、現在は駐車場に変貌。蚕種部前の広場(現在は病院の敷地内)に佐平の巨大な銅像があったが、戦時中供出され、今は胸像に代わっている。

翁壽像2

津山の発展に貢献した人物でありながら知名度はそれほど高くない。像の近くに説明板を、そして旧出雲街道・東大番所跡には矢印付き案内板を設けるべきだと思う。像の題字を書いたのは平沼騏一郎(慶応3年津山城下南新座に生まれ東京大学予備門を経て明治21年帝国大学法科大学を首席で卒業。司法省に進み司法次官に上り詰めた。大正元年検事総長就任、昭和14年に第35代内閣総理大臣となった)である。

地図
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岡山県津山市材木町の東大番所跡

2017年08月23日 | 
津山城の外堀でもあった宮川は南で吉井川と合流する。大橋を渡ると材木町だ。西詰の角地(渡辺商店跡)に「売地1226.47㎡(371坪)貸地」の看板が立っている。

売地の看板

東大番所跡

旧街道の北側には「旧東大番所跡 / 出雲街道」と刻まれた短い石柱がある。隣の説明板から東大番所の解説を引用しておこう。

 江戸時代、城下町の出入口には軍事面と治安維持の必要から番所が置かれていました。津山藩では一六七八年(延宝六年)、城下を貫通する出雲街道の東西の二ヶ所の入口にそれぞれ大番所を設置して番兵を常駐させていました。
 宮川大橋の西詰めのこの地には東大番所があり、また宮脇町の翁橋東詰には西大番所がおかれていました。これらの番所を境に城下を内町と外町に分けて往来の取締まりを行っていました。

地図
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岡山県津山市の城東町並み保存地区3

2017年08月22日 | 
津山市勝間田町を抜けて林田町に入る。民放制作の津山の旅でよく登場する煎餅屋「なまくらや三代」やケーキ店「フランセ」を間近で見ることができた。

パティスリーフランセ

橋本町の曲り

橋本町の説明板

城東町並み保存地区の西端にあたる橋本町にはまた独特の曲りが設けられている。私は町名の由来にざっと目を通して宮川大橋の東詰へと向かった。

宮川大橋手前
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岡山県津山市の城東町並み保存地区2

2017年08月20日 | 
西新町と中之町との境にある大曲り。津山城防衛のためにわざと見通しを悪くした鍵曲りである(荒神曲りと同様)。壁に丸時計を配した大きな屋敷から中之町となる。

大曲り

作州城東屋敷

映画「男はつらいよ 寅次郎紅の花(平成7年12月23日公開・渥美清さんの遺作)」のロケ地になった作州城東屋敷。出雲街道沿いに復元された町屋と火の見櫓がいい味を出している。私は更に西へ進み勝間田町に入った。旧銭湯「福寿湯」が改装されコーヒースタンドとして甦ったが、隣の建物の傷み具合を見ると昔の町並みを維持していくのは容易ではないことが分かる。

元銭湯

傷みの激しい家
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岡山県津山市の城東町並み保存地区

2017年08月18日 | 
荒神曲りから宮川大橋東詰まで(旧出雲街道沿い)を城東町並み保存地区という。津山の最大の観光スポットには毎年全国各地から大勢の人が訪れる。

街道

街道2

私は残り少ない滞在時間の中で春名酒店(西新町)の先にある国指定史跡「箕作阮甫(みつくりげんぽ)旧宅」を見物した(入場無料)。男性管理人に「奥もありますよ」とすすめられたが「先を急ぎますので…」と断らざるを得なかったのは残念だ。

町屋

地図
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岡山県津山市東新町6・旧ノコギリ屋根工場(重要伝統的建造物)

2017年08月08日 | 
荒神曲り(鍵曲)にある「社会福祉法人愛徳福祉会 ワークショップ津山」は独特の形をした建物である。入口前の説明板によると昭和初期に撚糸工場として完成したものらしい。

説明板

説明板(拡大)

旧ノコギリ屋根工場

倉敷のアイビースクエアを訪れたことのある人ならばその特徴についてはご存知だと思う。旧出雲街道沿いに江戸時代の町屋だけでなく大正、昭和の珍しい建造物も所々に残っていることが津山の大きな魅力だ。※標石近くの「一日一膳中村屋」は今年2月28日で店じまい(高野山西に移転)、跡地に「津山城東とうふ茶屋 早瀬豆腐店」が入って営業している。

荒神曲り
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津山城下に入った雨男

2017年08月02日 | 
大正9年(1920)に竣工した旧瀬尾銀行林田支店(旧津山洋学資料館)は津山市重要文化財である。あとは何も考えずに出雲街道を西へ突っ走る。

東新町

タムラ金物店までが川崎でその先から東新町(ひがししんまち)と町名が変わる。私は漸く城下町の東端まで来たのだった。江戸時代には木戸が設けられていた場所で道がクランクになっている(鍵曲=荒神曲り)

地図
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稲葉浩志さんの母校・津山市立林田小学校

2017年07月25日 | 
稲葉浩志さんが通った小学校に到着。出雲街道からよく見える大きな石碑には「津山市立林田小学校竣工記念 平成16年2月1日」の刻銘がある。林田の読み方は「はいだ」。

石碑

日付は新校舎及び体育館の落成式を指すものと思われるが、卒業生の回想などを読むと昭和の学校風景とは全然別物らしい。

会館

林田小学校(岡山県津山市川崎850)より若干西に位置する津山第二会館は「林田小たんぽぽ児童クラブ」として活用され、会館入口横に「東松原と松並木」の説明板が取り付けられている。

 城下町内ではないが、町に隣接する在(村)分として「町端在分」と呼ばれた区域の一部。城下町と在分の境目として、城下町の発展に伴い、この地域も栄えた。その町名のとおり、この地から東へ向かって出雲街道沿いに松並木があり、往来を行き来する人を見守っていた。

(今は無き)街道松の管理責任を負わされた江戸期の住民は大変だった。植樹の目的は通行人の日除けや防風が主と考えられるが、積雪時には松並木が路漂として機能したはずだ。

説明板
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岡山県津山市川崎・逆川に架かる高砂橋

2017年07月20日 | 
川崎の玉琳地町内会を通過する際に雨が最も激しく降っていた。1枚目の写真は間庭酒店付近を撮影したものである。

米穀店

あんどう酒店(跡?)~武岡米穀店(裏が武蔵湯)の先に逆川が流れ高砂橋が架かる。地元の人でない限り「さかさまがわ」とは読めないだろう。橋を渡ると川崎交差点(押しボタン式信号機あり)である。

高砂橋
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岡山県津山市川崎字玉琳・因幡街道沿いにある今宮神社

2017年07月18日 | 
玉琳(ぎょくりん)三叉路手前にある大きな石は目立つ。ちょっと分かりにくいが、三叉路から折り返して丘陵を越える細い道が北方向に延びていく。

石造物

石造物2

その坂の登り口付近に地蔵尊・回国供養塔・道しるべ(レプリカ)などの石造物がまとめられ背後に「玉琳と因幡往来」の説明板が設置されている。

 玉琳という地名は、およそ四百年前の修験者河内玉琳に由来する。
ここ玉琳は、森家の街道整備によって一里塚が設置された場所であり、また、出雲街道から因幡道が北に分岐する場所でもあった。
 そのため、幕末の不穏な情勢の中では、元治元年(一八六四)、城下町周辺の要所八ヶ所に設置された番所のひとつが、ここに設けられていた。

因幡街道

小社

因幡街道沿い(巨木の下)に祀られた小社が今宮神社である。玉琳は説明板に記載のある修験者が埋葬された地ということで塚も存在する。峠や切り通し(主要街道)で監視の目を光らせたのはどの藩も同じである(備後福山藩では榎木峠藁江峠などが有名)。私は坂から有名な橋野食堂を見下ろして出雲街道へ戻った。

食堂
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稲葉浩志君の想い出ロードマップ

2017年07月17日 | 
津山で入手した面白いロードマップ。B ’z稲葉浩志さんの母校(林田小学校・津山東中学校)は実家のイナバ化粧品店から割と近いことが分かる。

マップ(拡大)

ガソリンスタンド

私は雨に濡れながら猛スピードで出雲街道を西へと走った。ガソリンスタンド(金森石油店)の脇を抜け玉琳(ぎょくりん)バス停を過ぎると三叉路となる。

バス停
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B ’z稲葉浩志さんの実家・イナバ化粧品店(岡山県津山市川崎168)

2017年07月15日 | 
川崎八幡神社参道入口向かいに位置するイナバ化粧品店は稲葉浩志さんの生家である。母邦子さんはテレビ局の取材に快く応じる人なのでこの店を知っている広島県人は多い。B ’zのライブが7月22日(土)に津山文化センターで行われるため地元は盛り上がっているようだ(※福山公演は20日・リーデンローズ)。私が激しい雨の中で撮った写真はイマイチなのでRSKの夕方の番組(7月11日放送)から画像を拝借しよう。

実家

市役所

パネル

現在、津山市役所1Fに巨大パネルが展示してあるのでファンの方はぜひ記念撮影しておこう。番組では国司憲一郎アナがウルトラソウルにかけたウルトラトーフ(津山城東とうふ茶屋早瀬豆腐店)を取材していた。7月23日まで特別価格178円(税込み)で購入可。今だけ「イ・ナ・バ」という意味よ。

ウルトラトーフ
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