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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

JR因美線・兼田踏切(岡山県津山市川崎)

2017年07月13日 | 
鉄道豆知識・・昭和3年(1928)3月15日、因美南線の津山駅-美作加茂駅間が開通し東津山駅などが開業。兼田橋西詰まで戻り旧出雲街道ぶらり旅を再開する。

踏切

兼田踏切を超え時間の許す限り西へ進んで行くという非常に大ざっぱな計画だ。川崎バス停(ごんごバス東循環線)を過ぎると八幡神社の鳥居が見えた。

神社
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JR東津山駅前の鐡道開通七十年記念碑

2017年06月21日 | 
私は千人塚から東津山駅まで足を延ばした。津山の旅でぜひ見ておきたい物があったのである。小さな駅の駐輪場近くに記念碑が保存されていた。

記念碑A

記念碑B

記念碑C

正面に「昭和十七年十月十四日 鐡道開通七十年記念 元鐡道大臣従三位勲二等小川郷太郎書」、そして側面に「昭和十七年十二月八日 大東亞戦爭大詔渙發一周年建之」と彫られている。

ここでの70年とは明治5年9月12日(1872年10月14日)の新橋‐横浜間の鉄道開通から数えてという意味だ。小川郷太郎(旧姓村山)は岡山県浅口郡(現里庄町)出身の政治家(東京帝大卒業後大蔵省に入省、京都帝大教授を経て政界入り)で第2次近衛内閣で鉄道大臣を務めた。昭和17年(1942)6月帝国海軍はミッドウェー海戦で大敗を喫し戦局は悪化の一途を辿る。同年8月中等学校・高等学校学年短縮案要綱を閣議決定。昭和18年度より実施。(『日本の近代第12巻 学歴貴族の栄光と挫折 竹内洋著』関係年表を参照)

戦後の似非文化人は当時の軍隊・政治家・官僚の無責任体制を非難したが、最も酷くて罪深いのは報道機関だろう。獄門を免れた火付けの下手人のDNAを受け継ぐ者たちが今また同じ過ちを犯している。インターネット全盛期において反日工作員の未来は実に暗い(ポイント・オブ・ノー・リターン)

記念碑D

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岡山県津山市川崎の千人塚・三界萬霊塔

2017年06月02日 | 
兼田橋の西詰に設置された『千人塚「三界萬霊塔」‐津山藩政時代の史跡‐』の案内板。矢印付きで「ここより南150m 兼田千人塚護持会」と記されており余所者にもわかり易い。

案内板

千人塚

加茂川の西岸(兼田河原)は河辺河原と同様に津山藩の御仕置場として使用されていた。川沿いを進みJR姫新線の南側に辿り着くと堤防の上に千人塚があった。

千人塚2

起因

起因2

入口横の千人塚起因(碑文)に目を通す。河原で無様な晒しものとなった数多の重罪人を供養するため寛政二年(1790)に三界萬霊塔が建立されたという。水害対策としての河川改修工事などを経て千人塚の位置は多少移動したようだ。当時の制度に様々な問題点があったのは事実だが、やはり専門職(所謂仕置人)は必要だったと私は考える。負の歴史ばかりを強調するのではなく城下の治安維持に大いに貢献した人たちを正当に評価すべき時ではないだろうか。兼田千人塚護持会の活動には心から敬意を表したい。

三界萬霊塔

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岡山県津山市の河辺と川崎を結ぶ兼田橋

2017年06月01日 | 
国道53号・国分寺交差点から北へ約50m進むと兼田橋東詰に到る。昭和5年(1930)6月に完成した鉄橋を若い人が見ればこじんまりした橋という印象を受けると思う。江戸時代には渡し船等で河辺・川崎間(加茂川)を行き来していた。

川

道しるべ

橋の西詰(川崎)には地元の篤志家が明治期に建てた(と伝わる)道しるべがある。自動車の時代になって何度も接触事故が発生したのだろう。根元の方が損傷しているのが分かる。

道しるべ2

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岡山県津山市の新兼田橋から加茂川を望む

2017年05月25日 | 
岡山県の北部に位置する津山市。天気は山陰と同様に変わりやすい。晴れていても突然小雨がぱらつくことがあるので旅行者は折り畳み傘や雨ガッパを携帯した方が無難だ。雨の影響で加茂川周辺はうっすらと霞んでいた。江戸時代、河原は重罪人の御仕置場になることがあった。

石造物A

石造物B

石造物C

虫けらのように始末された者たちを供養するために石地蔵が文政期に建立された(現在は新兼田橋東詰近くに移されている)。私は橋の上(国道53号)から地元の年寄りが供養塔の後ろを伏し目がちに通り過ぎるのを眺めていた。尚その場所は河辺神社の御旅所になっているようである。

標柱

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岡山県津山市の名物といえばやはり牛肉かな

2017年05月16日 | 
国道179号は新河辺交差点で国道53号に合流する。私はこの交通量の多い道を南西へと進んだ。旧出雲街道は河辺交差点の東西に延びているのだが、あえて国道を走る。

処理施設

処理施設2

国分寺交差点の南側に位置する津山市食肉処理センターでとりあえず記念撮影を済ませた。津山は彦根同様に江戸時代から独自の食肉文化を育んできた街である。

マップ

ホルモンうどんマップなどを参考に食べ歩きをして自分好みの店を探してみるとよい。ランチは千円札を出してお釣りが返ってくるのが(私の)理想だ。庶民(観光客)が納得する値段と味…ご当地グルメとして広く認識される必須条件だと思う。

料理

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岡山県津山市河辺・役行者の碑と髭題目碑

2017年05月10日 | 
振り返ってもう一度桝形(石塁)を見た私は丘陵に「何かあるぞ」と思った。足元に気を付けて現場までいくと墓地のそばに石碑が2つ建立されていた。

山中の石碑

役行者の碑

髭題目碑

手前が役行者の碑で側面には「天明八…九月吉日」の刻銘があった。徳川家斉公の御代に修験者が山の中を歩いていたことが分かる。奥側は所謂髭題目碑だった。現代人に気付かれずに風化してゆく石碑は結構な数になるのだろう。現在、旧街道は国道179号によって分断された形になっている。私は向こう側へ行くのを諦めて坂を下ったのだった。

下り

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岡山県津山市河辺に残る桝形(石塁)

2017年05月08日 | 
皆さん、高い所からこんにちは。私が津山を訪れたのは実に26年ぶりである。テレビの旅番組ではまず取り上げられることのない河辺(かわなべ)地区からぶらり旅を始める。

史跡B

史跡C

史跡D

津山市指定重要文化財(史跡)
河辺上之町(桝形)
昭和三十一年七月四日指定
 江戸時代、津山藩ではいわゆる「百姓村の山あがり」と呼ばれた農地拡張政策が行われました。これは、平地にある農民の居宅を強制的に台地上に移転させ、その跡地を田畑として耕地の拡張を図るという政策でした。
 寛文四年(一六六四)に行われた7、津山藩主森長継の発令した「山あがり」は大規模で、河辺集落では、五七戸が加茂川東岸の平地から南東に位置する「しとど原」と呼ばれていた丘陵に移転させられました。これが、現在の河辺上之町です。
 村落では、「しとど原」への移転は耕作や生活が不便になるうえ、牛の餌や肥料にする柴草を得る場所を失うことなどから猛反対しましたが、屋敷地への年貢免除や、津山城内の草刈を認めることなどを条件に移転に応じました。
 現在、地区の東西に残る桝形(石塁)は、当時の名残りの遺構で、上之町は小規模な宿場のような形態を示し、城下町の東の玄関口としての役割も果たしていました。
平成二十七年十月三十一日
津山市教育委員会

以前から気になっていた桝形(河辺1671の西側に説明板あり)を目にして胸が熱くなった。河辺は津山城下防衛のための重要な拠点、つまり監視強化エリアであったと考えられる。

史跡E

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岡山県倉敷市のディープスポットを巡る(後編)

2017年01月31日 | 
岡山県道22号から外れて寄り道することにした。船倉町公会堂前を通過し八光台(※向山の通称)へ。山裾に配置された倉敷八十八ケ所霊場・第五十八番札所(作礼山千光院仙遊寺)。

霊場

鳥居

八幡宮

本尊の千手観音に手を合わせて少しずつ上って行くと生目八幡宮に辿り着く。宮の背後は墓地だった。朱の鳥居前の公園で老夫婦が小犬を離しくつろいでいた。県道に戻って南へ向う途中に中国電力・倉敷電力所や船倉変電所があった。

小山

トンネル

入船橋東詰の船倉町交差点から小町トンネル周辺を望む。女子生徒が元気よく山頂へと続く坂道を駆け上がっており、人斬場跡の方へ消えるまであっという間であった。「向山・船倉大正十年頃絵図」を含む西藤秀男さんの著作『新修倉敷今昔物語(勁草社 平成14年)』から重要な記述を引用しておく。

 故・窪田貧泉先生から処刑は酒津の川原で施行されていたし、首斬役人の家系も聞いている。その子孫の主人から「古文書はあるから、君が参考にしたいのであれば都合のよい時に来てよろしい」と許可を得たのであったが、大病の末、歩行、正座不能となり、古文書を見せて貰う機会が無くなったのは無念である。
 窪田先生は「居合」七段の腕前だから、そんな関係で酒津某家とは親密に付き合っていたのだから間違いはない。では船倉の人斬場との関係はどうかということになる。推論に過ぎぬと考えられるけれども、ここでは、それを詮索する程のこともあるまい。
 不思議なのは、代官所は幕府のもの、牢屋と人斬場は倉敷村有ということだ。少年期には、そのいずれも崩れかけてはいたが現存していた。また、人斬場は倉敷のゼロ番地であると聞いたことはあるが、その確実さは疑わしい。子供の頃、この人斬場は首吊場となり、よく「今日も吊っとるでえ、行って見い」と聞いたが見に行ったことはないが、友人(船倉町に在住)は何回か見に行ったと言う。
 今日迄、郷土史家を含めて誰もが触れていないことを書いたが、歴史は歴史であるから書き遺して置くことにした。

 序ながら、向山(船倉)には「避病院」とも「隔離病舎」とも呼ばれた施設が残っていた。五軒ばかりの長屋だったが門柱は御影石の大きなのが二本立っていた。
 どのような病人が入っていたのかは分らない。このような歴史は書きたくはなかったが、人斬場や牢屋などを書いたものだから序ながらと言っては失礼なことだが筆が辷った、とご勘弁願いたい。

売店

帰りに茶屋大橋で抹茶ソフトクリームを買い求めた。コーンの底までクリームが入って100円(税込)、抹茶のほろ苦さが効いてすっきりした甘さである。価格も味わいも10年前と同じで嬉しかった。まっとうな商売を続ける店にはファンが多い。

駅前

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岡山県倉敷市のディープスポットを巡る(中編)

2017年01月30日 | 
三宅酒店隣はタイムズ倉敷第3である。その駐車スペースの奥側に建つ地蔵堂。地元の榎木峠よりも頻繁に倉敷市街地を歩いている私だったが、見落としていた。現・中央1丁目はかつて前神町(まえがみちょう)と呼ばれた。市のホームページの旧町名保存事業の項に掲載された解説は次の通り。

今橋から新前神橋付近までの倉敷川西岸の区域。天保12年(1841)には,村会所が置かれるなど,昭和7年までの倉敷市政治の中心地であった。昭和46年12月に廃止された。

絵図

美観地区

もと運河

私はバッグから「向山・船倉大正十年頃絵図」の拡大コピーを取り出して三宅邸が「前神橋」西詰近くにあるのを確認した。倉敷川(汐入川)に架かる「新前神橋」を渡り東へ進む。小舟が運河を行き来した頃、アーチ状の橋だったのは納得できる。

代官所跡

銭湯

観光客は美術館周辺からアイビースクエア(倉敷代官所跡)へは移動するが、南側の小山へ登ることはまずない。私は「番匠屋」の手前で右折し岡山県道22号に入った。「船五湯」向かいの家が解体されて無くなっていた。

解体工事現場

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岡山県倉敷市のディープスポットを巡る(前編)

2017年01月29日 | 
倉敷市の中心部を訪れるのはおよそ1年ぶりだ。街は着実に進化を続けている。駅前のホテルの改修工事が終わり小奇麗になったのを確認した。

駅前2

駅前3

阿知南交差点から東方を望む。倉敷阿知町東部商店会のアーケードが撤去されたのは平成20年(2008)2月と聞いた。「奈良萬旅館」は既に無く、「喜久味阿知店(ウナギ料理が有名だった)」は「そのまんま」に変わった。そして「おくだサイクル」の2階に猫カフェ「美観neko(みかんねこ)」がオープンしていた。私が30代の頃はそこで備前焼の徳利などを売っていた。大原美術館へ行く前に店員に呼び止められ「上でご覧になってください」とせがまれたことが何度もあったな(苦笑)

駅前4

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広島市中区東千田町にあった伝説の雀荘・三階荘

2016年05月27日 | 
北門跡から「東千田公園」に入る。ベンチに座ってくつろぐ人や野原で遊ぶ幼児など時間の過ごし方は様々である。「旧理学部1号館」の周りを犬が走り回る光景を目にすると昭和という時代が遠くなったとつくづく感じる。「備後のジンケンゴロ」同様に嫌悪の対象だった「キョクサ暴力集団」が森戸道路沿いに下品な立て看板を設置していたのが懐かしい(笑)

公園

市内から被爆建物が次々と姿を消す中、前身校の本館はしぶとく残っている(広島市長は建物保存を求める市民の数と耐震改修にかかる高額な費用について併せて公表すべきだと思う)。大学会館横へ移動し「広島高等師範学校 広島文理科大学 原爆死歿者遺骨埋葬の地」碑に手を合わせて千田通りに出た。

電車通り

茶色い建物(タクシー後方)隣のビルの三階に私達が入り浸っていた「雀荘」があった。打つ前に「学生会館食堂」で定食を食べていくのだが、大抵は長丁場になるので近くの「松浦商店」からお好み焼きを出前してもらうこともあった。

日米首脳

私が広島を旅してから2ヶ月後にオバマ大統領と安倍総理が平和公園でかたい握手を交わすことになったのは実に感慨深い。日本国民が「愛と平和」という甘ったるい理想論から離れて非常識なトクアに対抗する「同盟関係の重要性」について真剣に考えるきっかけとなれば大統領の広島訪問は「それなりの意味」があったことになる。

原爆ドーム

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広島市中区国泰寺町2丁目1・レプトン千田店跡

2016年05月26日 | 
大学跡地にショッピングセンターのアーバス東千田がオープンしたのは平成22年(2010)3月下旬。メインテナントがアルク(スーパー)で他にはファッションセンターしまむら、丸亀製麺などが入っている。

商業施設

マンション1F

私にはぜひとも寄っておきたい場所があった。正面玄関横に「定礎 1973年4月1日 六興産業株式会社」の文字が刻まれたロッコーマンション国泰寺前に立つ。現在1階のテナントはヘアーサロン「Rossa(平成13年2月~)」になっているが、昭和の末は「レプトン千田店(レンタルCD)」だった。

千田店の開設は昭和61年(1986)6月、平成10年(1998)2月に国泰寺町1丁目に移転し「じぞう通り店」に名称変更した(※レプトンの公式サイトを参照)。千田店は東千田キャンパス北門の真向いに位置していたため、夜は大学生で溢れていた。私は洋楽の新譜やジャズの名盤を借りては下宿でせっせとカセットテープに録音していたのである(笑)

マンション1F2

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広島市中区の鷹野橋電停で下車し高層マンションを望む

2016年05月25日 | 
鷹野橋電停で下車。平成11年(1999)11月頃に若干軌道が変更され(S字カーブになり)電停の位置が移動した。マルキスト・S田教授による社会学の講義をエスケイプしてはこの辺りをプラプラして時間を潰したものだった。広島鷹野橋郵便局とラーメン屋の風景は当時とほぼ同じであるが、東千田町1丁目は激変した。私は大学跡地に出来た32階建マンション(ひろしまガーデンガーデンノースタワー 平成21年6月竣工)の方へ歩いて行った。

マンション

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広島中区・八丁堀電停周辺の変化

2016年05月24日 | 
私は広島駅電停でしばらく待って1号線に乗った。急ぐなら断然タクシーだが、町並みの変化を目で追うには路面電車のスピードが丁度いい。広島市の再開発の規模は倉敷・福山とは比べものにならぬほど大きい。政令指定都市と中核市との格の違いを感じた。

最も多くの乗客が下りるのはやはり八丁堀~紙屋町電停だろう。写真は八丁堀電停(中区胡町5付近)から西方を撮影したもの。左端に写っているのが福屋八丁堀店だが、大学のコンパの待ち合わせ場所になっていた。「福屋前(ふくやまえ)」という響きが当時は恥かしかった記憶がある。

電停のすぐ南に位置する天満屋八丁堀店が閉店したのは平成24年(2012)3月4日。翌日から天満屋八丁堀ビルと名を変え、現在はメインテナントとしてヤマダ電機、ユニクロ、MARUZENが入っている。ヤマダがこちらに移転すると聞いた時にはひどく驚いたものだった。

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