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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山県津山市の二宮と中島を結ぶ宮下橋(吉井川)

2017年12月16日 | 
高野神社参道を引き返して瀬島商店前から南下し吉井川沿いに出た。私が津山を旅した時には宮下橋(車道部)補修工事中で「終日全面通行止(歩行者と自転車は通行可)」になっていた。

橋

吉井川沿い

施工業者は地元の近藤組だった(※諸問題が発覚して車両が行き来できるようになったのは予定より2ヶ月遅れの今年6月から)。川べりの道を進むと青野石油店が見えてきた。

石油店
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岡山県津山市二宮601・高野神社

2017年12月02日 | 
随神門を抜け少し歩いて境内に着いた。高野神社の構造は中山造と呼ばれる独特のものである。本殿(入母屋造妻入)正面に向唐破風の向拝が付いているのが見所だ。

社殿

今回の旅では先を急ぐあまり神社や寺院を見て回ることを断念したのだが、ここだけは外せなかった。参拝記念に御朱印と神社に関する資料のコピーを貰っておいた。

参拝記念

縁起

主祭神は彦波限建鵜葺草葺不合尊(神武天皇の御父君・ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。社殿近くに平賀元義(幕末の国学者・歌人)の歌碑が建立されている。

歌碑
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岡山県津山市二宮・宇那提森のムクノキ

2017年11月27日 | 
津山二宮郵便局前を通過し国道53号の下を潜る。私は完全に見落としていたのだが、津山信用金庫二宮支店の手前(二宮2159辺り)に4つ目の説明板(二宮松原街道御茶屋の跡)が立っている。旧出雲街道を更に西へ進むと美作国二宮・高野神社の石鳥居が見える。

鳥居

顕彰碑

巨木

久山猪八郎氏(二宮信用組合長として地域全体の発展に尽力した人物)の思徳碑の後ろに大きなムクノキがある。昔この辺りは「宇那提森(うなでがもり)」と呼ばれ髙野神社の鎮守の森だった。

説明板

説明板2

記念碑

開発が進んだ結果、巨木はこれだけが残った。私は皇太子殿下御降誕記念の碑に「昭和十年四月」の刻銘があるのを確認して参道を上って行った。

地図
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岡山県津山市二宮・JR姫新線の第一出雲踏切を通過する

2017年11月15日 | 
二宮交差点から西側が松原中町内会になるものと思われる。松風パーキング斜向かい辺り(広崎軽工業所の西約40m)に「二宮松原街道御茶屋の跡」の説明板あり。

説明板(拡大)

踏切

旧出雲街道と交わるJR姫新線・第一出雲踏切を通過。津山グンゼ(二宮2200)の北側(メモリーランド田渕津山店の東約30m)にまた説明板が立っていた。

説明板2

説明板2(拡大)
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岡山県津山市小田中の芭蕉句碑

2017年11月09日 | 
石材屋向かいの建物の「地番表示板」を見ると周辺は「西松原町内会」に属していることが分かる。すぐそばの公会堂前に「松尾芭蕉の句碑」が建立されている。

句碑

「雲折々 人を休める 月見かな」という俳句だが、文字の一部は変体仮名で彫られている(越や難など)。後ろの広場がおそらく徳守神社の「西松原御旅所」だろう。

交差点

同神社は元々小田中に建立されていたという。公会堂の隣がだんじり格納庫だった。時間を気にする私は直ちに二宮(にのみや)へと向ったのである。

小田中周辺地図
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岡山県津山市・紫竹川に架かる筋違橋

2017年11月06日 | 
安岡町から見た筋違橋(すじかいはし)。紫竹川に架かる橋で鉄塔のある向こう岸が小田中(おだなか)になる。橋に埋め込まれたプレートには「平成21年11月竣工(※老朽化による架け替え)」の刻銘あり。

橋2

橋3

『津山瓦版』の千人塚の紹介で藩政時代初期には筋違橋近くに御仕置場が置かれていたような趣旨のことが書かれているが、当時の(城下外れの)縄手道沿いは寂しい風景が広がっていたのであろう。

二宮松原街道御茶屋の跡

二宮松原街道御茶屋の跡2

整体院NAOの向かいが「二宮松原街道御茶屋の跡」になる(説明板が設置されている)。更に西へ進むと気色悪い「フランケンおから」のポスターを2枚並べて窓に貼った石材屋があった。

石材店
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岡山県津山市安岡町で再び雨に打たれる

2017年10月31日 | 
津山市茅町の「番原(ばんばら)鮮魚店」と「おおおぎや菓子舗」との間を通過して安岡町に入る。「石本精肉店」を覘くと陳列ケースの奥に「干し肉・煮こごり」の貼り紙がしてあった。備後ではまず見ることのないメニューだ。

精肉店

薬屋

「立石薬品」の横から虫籠窓を配した「池上製綿」を撮影した直後に雲行きが怪しくなった。やっと乾いた服がまた重たくなりよそ様の車庫で雨が弱まるのを待つことにした。

説明板

私はハンカチで顔を拭きながら説明板に目をやった。予定通り城下西端まで来たことに安堵したが、川崎と同様に御仕置場跡の近くでずぶ濡れになる自分の運命にはただ苦笑するしかなかった。

鉄塔
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岡山県津山市西寺町の寺院群

2017年10月07日 | 
赤門を配した臨済宗妙願寺派西巌山寿光寺を過ぎると旧出雲街道街道から少し北に入ったところ(土塀際)に西寺町の説明板と寺町界隈案内図があった。

寺町界隈案内図

寺町界隈案内図(拡大)

西寺町
 城下町の建設期には、武士や町人など、多種多様な宗派の人々が集まり住むことによって城下町ができた。そうした人々の必要に応じて、津山藩は、城下町の東西の端に各宗派の寺院を集めて寺町を作った。
 東の寺町が丘陵上に配置されたのに対して、西寺町では、町人町から続く主要な街道に沿う形で寺町が形成されていった。
 高い土塀と豪壮な建築物が建ち並ぶ寺町は、城下町の防衛施設と位置づけられることもあった。

旧街道

愛染寺

街道を西に進む(4枚目の写真の左側が妙法寺、右側が愛染寺)。高野山真言宗(準別格本山)高室山浄光院愛染寺の(鐘楼のついた)仁王門は見所の一つで平成18年(2006)3月17日に県指定重要文化財になった。天台宗高徳山大圓寺の先から街道は少し曲がってくる。

大圓寺
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岡山県津山市西今町18・作州民芸館(登録有形文化財)

2017年10月02日 | 
扇橋西詰近くにある作州民芸館。大正9年(1920)に土居銀行の本店として建てられたもので平成9年(1997)5月7日に国の登録有形文化財に指定された。

登録有形文化財B

登録有形文化財C

登録有形文化財D

石造と思いきや実は木造である(モルタル壁仕様)。竣工当初は遠くからよく目立っていたことだろう。現在は無料で開放されており私は1階の展示物を見てから寺が密集するエリアに入った。

寺
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岡山県津山市宮脇町の西大番所跡(翁橋東詰)

2017年09月25日 | 
坪井町から宮脇町に入る。徳守神社近くで営業するお茶屋の金田金泉園で一旦停止。店の隣(アキヤマ薬局)のブロック塀に説明板が設置されており同町の成り立ちを知ることが出来た。

説明板

旧出雲街道を更に西へ進んでいくと翁橋(おきなばし)が見えて来る。藺田川(いだがわ)に架かる長さ約10mの橋の親柱(万成石)は大正期に流行したアールデコ様式を取り入れている。

翁橋

翁橋2

平成11年(1999)10月14日に国の登録有形文化財に指定された翁橋から藺田川下流を望む。人工河川は当初津山城の堀の役目を果たしていたが、現代人の目にはただの水路に写る。藩政時代には翁橋東詰に西大番所が置かれていた。

地図
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岡山県津山市坪井町1・トマト銀行津山支店

2017年09月24日 | 
知新館から西へ進み岡山県道68号津山加茂線に出た。通称「奴通り」を北上しトマト銀行津山支店の手前を左折し旧出雲街道に入る。

銀行

銀行2

説明板

銀行の横壁に「坪井町」の説明板が取り付けられていた。「移住者の出身地を地名とした」事例は備後福山藩の城下町にもある。笠岡町(通町の一部)は特に有名だ。

旧街道
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岡山県津山市南新座26・知新館(登録有形文化財)

2017年09月20日 | 
戸川町に隣接する南新座はかつての武家屋敷街にあたる。現・知新館(ちしんかん)は昭和12年(1937)年に平沼騏一郎の生家を復元したものである。

プレート

説明板

敗戦後まで平沼家の別邸として使われ昭和25年に市の所有物となった。平成10年(1998)10月9日に国の登録有形文化財に指定された。訪ねた時間が早過ぎて土塀を眺めるだけになった(開館時間は午前9時から午後5時)

地図
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岡山県津山市戸川町31・あけぼの旅館(登録有形文化財)

2017年09月13日 | 
あけぼの旅館(旧あけぼの楼)は明治初期の建築と伝わる。津山市内に残る旅館としては最古と聞いていたので見ておくことにしたのだ。

プレート

説明板

建物は平成12年(2000)4月28日に国の登録有形文化財に指定されている。奥の二階の壁面に描かれた「曙」という一字が実にいい。漆喰細工であろうか、当時の職人の技に私は感動を覚えたのであった。

旅館
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岡山県津山市河原町12の小桜神社に立ち寄る

2017年09月06日 | 
ゆめマート津山を後にして西隣の河原町に入った。私は石組の残る半鐘屋従業員駐車場を見て「江戸期に牢番人がいたのはそこかな」と言った。森栗茂一さんの著作『河原町の歴史と都市民俗学(明石書店 2003年2月1日 初版第1刷発行)』の394頁で河原町の歴史を紹介しているので引用させてもらう。なお397頁の津山の河原町・城東町の復元図が資料的価値が高い。本書は全国の河原町と御仕置場とのつながり(一例として広島市)についても触れているためその道の研究者は要チェックだ。

復元図

町境

河原町とその周辺
 津山の町名としての河原町は船頭町の東で、船頭町との境界に今津屋橋(寄付した米屋の名)があり、西には高燈籠と船着場があった。橋の東、河原町にはガンギの設置された船着場、飛船屋(船蔵)、船宿、米問屋があった(津山市史編纂委員会 一九七四年:一八六‐一八七頁)。「津山城下絵図」(キリスト教民俗館所蔵)によると、米倉、木倉、川戸蔵(貢米の収納庫)・船蔵・船タデ場・船頭屋敷が棟を並べ、牢番所があり、東隣に鍛冶場があった。その南には渡しがあった。冬と春は渡し船を用い、夏と秋は徒渡りの定めであった。宝永年間(一七〇四‐一七一一)より、冬、春に板橋が架けられるようになった。最初、鍛冶屋橋といわれたが、西に移動して、先述の今津屋橋になった。河原町の小桜神社は一七一二年(正徳二)、修験大福院小桜某が居住しており、その所有地が神社になったという(『日本歴史地名大系 第三四巻 岡山県の地名』平凡社、一九九九年:一八四頁)。

小桜神社

小桜神社2

小桜神社参道入口付近に「河原町」の説明板と防犯カメラあり。小さな神社は旧出雲街道に面するクリーニング店・五條屋(京町)の裏辺り(小桜会館の中)に鎮座している。

旧出雲街道(京町)
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岡山県津山市伏見町の刑務所跡

2017年09月04日 | 
材木町遊廓(追廻遊廓)跡から伏見町のゆめマート津山(イズミ)へ向かう。戦前の市街地図を見るとこの辺りが岡山刑務所津山出張所である。再び『角川日本地名大辞典33 岡山県』から伏見町の解説を引用する。

刑務所跡2

[近世~近代]江戸期~現在の町名。江戸期は津山城下の1町,町人地。明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名。古くは片原町といった(津山市史)。津山城の南に位置する。東は材木町,西は京町,南は吉井川,北は山下に接する。片原町の由来は,道路の南側にのみ家並みがあり,北側は城濠に面していたからである。「津山誌」によれば,元禄12年から北側にも家を建てることを許され,伏見町と改めた。町名の由来は,京町の東にあたることによるとも,京の伏見の繁栄にあやかるためともいわれている。元禄10年の城下町図によれば,家数36のうち持家26,借家10,人数476(男242・女234)。弘化3年に札元になった錦屋のほかに多くの有力な商人がいる商業町である。町の南河岸に臨んだ所に御木蔵と呼ぶ藩の材木庫と米倉,そして牢舎があった。(中略)本琳寺の寺域は広く,はじめ吉井川の土堤近くまであった。元禄年間に火災に遭い,天明年間の頃に再興,以後寺域が狭くなった。明治初期の戸数65・人口264(津山誌)。明治12年津山銀行が創立された。錦屋の森本藤吉が頭取で,支配人は浮田卯佐吉であった。浮田卯佐吉は,同13年当町で座繰製糸を,同20年子佐平が機械製糸を始め,同45年合名会社浮田製糸を設立,資本金25万円であった。世帯数・人口は,昭和45年114・322,同55年82・224。

ラジオ中継放送所

ラジオ中継放送所(拡大)

刑務所が最大規模を誇った時代には現NHK津山ラジオ中継放送所も敷地の一部だったのかもしれない(詳しい資料が手元にないので自信はないが…)。刑務所の歴史を遡ると津山藩の獄舎(明治5年津山懲役場に改称)に行きつく。美作騒擾の首謀者・小林久米蔵は獄内で首を刎ねられたと伝わっている。

刑務所跡3
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