「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

重光葵の和歌

2007-11-15 01:04:04 | 日々の出会い・感動
9日から12日にかけて上京し、10日~11日と日本協議会富士宮研修所で幹部合宿を開催し、組織の今後の方向性について意見交換を行った。

12日、本部事務所での会議などが終った後、時間があったので永田町の憲政記念館で開催されている「重光葵とその時代ー昭和の動乱から国連加盟へ」特別展を見て帰路に着いた。

重光葵は大分県の国東の出身である。杵築中学校時代には撃剣で県で優勝するなど中々の文武両道の青年であった。第5高等学校・東京帝大を経て外務省に入り、昭和の日本外交の立役者として活躍する。重光のポリシーは①英米強調②アジア解放にあり、広田内閣時代の対支那外交における支那の自主独立の尊重、大東亜戦争時の「対支新外交」「大東亜会議開催と大東亜宣言」にその面目が表れている。

敗戦後のミズリー号上での降伏文書調印の日本全権代表を引き受けた。
その時の重光の和歌

 ながらへて甲斐ある命今日はしも しこの御盾と我ならましを

 願はくは御国の末の栄え行き 吾名さげすむ人の多きを

その後、公職追放、ソ連によるA級戦犯指名、東京裁判禁錮7年の刑、と不運が続くが、27年に追放解除された後は、政界に復帰、改進党総裁、日本民主党副総裁、鳩山内閣では外務大臣を歴任し、31年12月に国際連合第11回総会日本代表に命じられ、日本の国連復帰演説を行う。翌年1月26日に69歳で逝去する。
国連復帰を果たした12月18日の重光の和歌

 国連に日の丸の旗翻へり 仰ぎ見る我涙とまらじ

 日本の古き友等と握手する 我言葉なし感激の日に

重光葵の事については、日本会議長崎の北村専務理事が詳しいので、関心がある人は北村氏を是非招いて話を聞いて欲しい。


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