【連載】日本の誇り復活 その思想と行動 第26回 (『祖国と青年』19年11月号掲載)
沖縄「十一万人」集会の大嘘を暴く
軍民共に祀る慰霊碑が示す沖縄の思ひ
「一万三千三十七人でした」。十月十四日午後四時過ぎ、熊本大学日本文化研究会の女子学生から報告の電話が入つた。実は五日前に、「教科書検定意見撤回を求める(沖縄)県民大会」の全景写真を一面と三十六面を使つて大きく掲載した九月三十日の「琉球新報」朝刊を渡し、この集会参加者数のカウントを依頼してゐたのだ。彼女は友人と共に、先づ写真上の人間の判別作業を、虫眼鏡も使つて特定し区分けして行つたといふ。沖縄県警発表の四万二千人といふ数がマスコミなどで話題となつた為、覚悟を決めて数の集計作業に入つたら、意外や意外、一万三千少々で終つた。だが、例へ一万三千でも数へるには大変な根気と使命感が要る。
報告を受けて私は、早速各方面に発信した。十四日から十六日にかけてこの数字が全国を駆け巡り大きな反響を呼んだ。十六日には日本会議国会議員懇談会事務局を通じて自民党の教科書議連に琉球新報と集計結果を示した所、議連でも数へてみやうといふ事となり、航空写真を元に、ある警備会社がコンピューターによる解析作業を行ひ、十七日にはその結果が報告された。参加者数を科学の目が特定したのである。横を13区画・縦を8区画に分けて104の区画毎の参加者数を割り出し集計したもので完璧だつた。その結果は、「上記合計18、179人(視認可能部分のみ)建物、木陰、写真外等を推定したこの時間帯の総数は、19、000~20、000人」といふものだつた。沖縄集会参加者数11万人といふ世紀の大嘘は完全に暴かれた。
何故参加者数に私はこだはつたのか。集会実行委員会は最初からこの集会の参加者数を「沖縄県民の総意」と称して政府文部科学省に圧力をかける戦略を抱いてゐた。当初5万名を集めると言つてゐたのが、8万名は集まると豪語し、集会の途中では「10万人が集まつた」と発表し、更に集会終了時に「公園の外にも一杯居る。バスが渋滞して到着してゐない人も居る」として「12万名が集まつた」と発表したのである。沖縄県民の人口は137万人、その一割近い参加者が集まつた事にだうしてもしたいのだ。だが、彼らは自ら墓穴を掘つた。
私は実際、九月二十九日の集会に参加して二時間前に会場の広さを足で実測してゐた。横が179歩、縦が通路を挟み後ろ60歩・前62歩だつた。私の一歩は大体60cmなので、横が107.4m、縦が36mと37.2m。総面積は7861.68㎡位だつた。皆芝生に座つてゐた。照りつける陽光が厳しい為日傘を差してゐる人が居て空きスペースも出来てゐた。1㎡に2人がせいぜい、そこでこの区域の参加者数は1万5千人位である。会場周辺の人数を入れても、2万名位ではないかと考えてゐた。
沖縄県警にも話しを聞いたが、警察発表は左翼が「根拠を示せ」と抗議してくるので出せないが、会場の広さから考へて2万から3万の間だらうと言つてゐた。幸い「琉球新報」が翌日の朝刊で証拠写真を提供したので、熊本に戻り電話で20部を取り寄せた。そして、熊大の学生に依頼して実際の数を数へてもらふ事としたのだつた。
集会の翌日、私は集団自決が行はれた渡嘉敷島に渡つた。渡嘉志久ビーチ(米軍上陸)に残る「特攻船艇待避壕」、赤松部隊が建立し曽野綾子氏の文章が彫られた「戦跡碑」、阿波連ビーチ(米軍上陸)を回り、「白玉の碑」に参拝し香を手向けた。そこには「大東亜戦々没者御芳名」として軍人軍属・防衛隊・一般住民593柱(明年のお祭りで5名追記の予定)の名前が共に刻まれ祀つてあつた。「白玉の碑」も、赤松部隊が建立した「戦跡碑」も補修され清掃されて美しく管理されてゐた。地元では二人を除いて誰も赤松部隊の悪口を言ふ人はゐないさうだ。住民の気持ちがこの管理状況の中に示されてゐた。その後、北山の自決記念碑とその裏の自決現場にもお参りした。
翌日、座間味島にも渡つた。渡嘉敷では、住民はかなり山奥に逃げて集団自決をしてゐたが、ここでは、港の集落の直ぐ近くの丘の麓に「自決碑」があり近くに「平和の塔」が建てられてゐた。そこでも石碑には、座間味の人々と戦争で亡くなられた軍人達の名前が県別に記されて共に祀つてあつた。吾々は線香を焚いてお参りした。米軍上陸時に村長が住民に集合をかけた「忠魂碑」は村落のすぐ裏手に今尚厳然と立つてゐた。皇紀2650年に、陸軍大将井上幾太郎の書で建立されたものだ。米軍が上陸せんとした時、村長を始めとする村の指導者達はこの忠魂碑を最後の場と定め、英霊と共に死して祖国を守らんと思つたのではなかつたのか。その思ひが伝はる様であつた。
同行した青年が沖縄は初めてだといふので、時間を見つけて中部戦跡や海軍壕、南部戦跡を案内した。ひめゆりの塔の前では、「語り部」が若い人を相手に、ひめゆり部隊が「日本軍に死を強要された」と感情的に話してゐた。もはや沖縄の戦跡では日本軍とそれに献身的に協力した沖縄県民の姿は語られず、沖縄県民に死を強要した鬼の如き日本軍の事ばかりが語られてゐる。かつては南部戦跡と言へば摩文仁の丘を訪れたものだが、今やその手前に平和の礎(戦歿者の名前が記された石版)が建てられ、慰霊の中心地となつてゐる。奥に建つ各県の慰霊塔群の区域が寂しく感じられた。「黎明の塔」の横に牛島中将の自決壕があるが、その表示は見当たらなかつた。その下の健児の塔への道は塞がれてゐた。日本軍と沖縄県民を切り離す悪意が沖縄県民の中に浸透して行つた時、この摩文仁の丘はだうなつていくのか空恐ろしい感じがした。
沖縄戦では、沖縄県民9万4千人を含む、全国の英霊18万8136柱の生命が捧げられた。更には、陸海軍の特攻機が1827機出撃し、3067人が散華した。沖縄救援に向かつた戦艦大和他9隻が途上で撃沈され3700人を超える戦死者が出てゐる。沖縄決戦は文字通り祖国防衛の総力戦であり、沖縄は英霊の眠る愛国の聖地なのだ。反日左翼勢力の蹂躙を決して許してはならない。
沖縄「十一万人」集会の大嘘を暴く
軍民共に祀る慰霊碑が示す沖縄の思ひ
「一万三千三十七人でした」。十月十四日午後四時過ぎ、熊本大学日本文化研究会の女子学生から報告の電話が入つた。実は五日前に、「教科書検定意見撤回を求める(沖縄)県民大会」の全景写真を一面と三十六面を使つて大きく掲載した九月三十日の「琉球新報」朝刊を渡し、この集会参加者数のカウントを依頼してゐたのだ。彼女は友人と共に、先づ写真上の人間の判別作業を、虫眼鏡も使つて特定し区分けして行つたといふ。沖縄県警発表の四万二千人といふ数がマスコミなどで話題となつた為、覚悟を決めて数の集計作業に入つたら、意外や意外、一万三千少々で終つた。だが、例へ一万三千でも数へるには大変な根気と使命感が要る。
報告を受けて私は、早速各方面に発信した。十四日から十六日にかけてこの数字が全国を駆け巡り大きな反響を呼んだ。十六日には日本会議国会議員懇談会事務局を通じて自民党の教科書議連に琉球新報と集計結果を示した所、議連でも数へてみやうといふ事となり、航空写真を元に、ある警備会社がコンピューターによる解析作業を行ひ、十七日にはその結果が報告された。参加者数を科学の目が特定したのである。横を13区画・縦を8区画に分けて104の区画毎の参加者数を割り出し集計したもので完璧だつた。その結果は、「上記合計18、179人(視認可能部分のみ)建物、木陰、写真外等を推定したこの時間帯の総数は、19、000~20、000人」といふものだつた。沖縄集会参加者数11万人といふ世紀の大嘘は完全に暴かれた。
何故参加者数に私はこだはつたのか。集会実行委員会は最初からこの集会の参加者数を「沖縄県民の総意」と称して政府文部科学省に圧力をかける戦略を抱いてゐた。当初5万名を集めると言つてゐたのが、8万名は集まると豪語し、集会の途中では「10万人が集まつた」と発表し、更に集会終了時に「公園の外にも一杯居る。バスが渋滞して到着してゐない人も居る」として「12万名が集まつた」と発表したのである。沖縄県民の人口は137万人、その一割近い参加者が集まつた事にだうしてもしたいのだ。だが、彼らは自ら墓穴を掘つた。
私は実際、九月二十九日の集会に参加して二時間前に会場の広さを足で実測してゐた。横が179歩、縦が通路を挟み後ろ60歩・前62歩だつた。私の一歩は大体60cmなので、横が107.4m、縦が36mと37.2m。総面積は7861.68㎡位だつた。皆芝生に座つてゐた。照りつける陽光が厳しい為日傘を差してゐる人が居て空きスペースも出来てゐた。1㎡に2人がせいぜい、そこでこの区域の参加者数は1万5千人位である。会場周辺の人数を入れても、2万名位ではないかと考えてゐた。
沖縄県警にも話しを聞いたが、警察発表は左翼が「根拠を示せ」と抗議してくるので出せないが、会場の広さから考へて2万から3万の間だらうと言つてゐた。幸い「琉球新報」が翌日の朝刊で証拠写真を提供したので、熊本に戻り電話で20部を取り寄せた。そして、熊大の学生に依頼して実際の数を数へてもらふ事としたのだつた。
集会の翌日、私は集団自決が行はれた渡嘉敷島に渡つた。渡嘉志久ビーチ(米軍上陸)に残る「特攻船艇待避壕」、赤松部隊が建立し曽野綾子氏の文章が彫られた「戦跡碑」、阿波連ビーチ(米軍上陸)を回り、「白玉の碑」に参拝し香を手向けた。そこには「大東亜戦々没者御芳名」として軍人軍属・防衛隊・一般住民593柱(明年のお祭りで5名追記の予定)の名前が共に刻まれ祀つてあつた。「白玉の碑」も、赤松部隊が建立した「戦跡碑」も補修され清掃されて美しく管理されてゐた。地元では二人を除いて誰も赤松部隊の悪口を言ふ人はゐないさうだ。住民の気持ちがこの管理状況の中に示されてゐた。その後、北山の自決記念碑とその裏の自決現場にもお参りした。
翌日、座間味島にも渡つた。渡嘉敷では、住民はかなり山奥に逃げて集団自決をしてゐたが、ここでは、港の集落の直ぐ近くの丘の麓に「自決碑」があり近くに「平和の塔」が建てられてゐた。そこでも石碑には、座間味の人々と戦争で亡くなられた軍人達の名前が県別に記されて共に祀つてあつた。吾々は線香を焚いてお参りした。米軍上陸時に村長が住民に集合をかけた「忠魂碑」は村落のすぐ裏手に今尚厳然と立つてゐた。皇紀2650年に、陸軍大将井上幾太郎の書で建立されたものだ。米軍が上陸せんとした時、村長を始めとする村の指導者達はこの忠魂碑を最後の場と定め、英霊と共に死して祖国を守らんと思つたのではなかつたのか。その思ひが伝はる様であつた。
同行した青年が沖縄は初めてだといふので、時間を見つけて中部戦跡や海軍壕、南部戦跡を案内した。ひめゆりの塔の前では、「語り部」が若い人を相手に、ひめゆり部隊が「日本軍に死を強要された」と感情的に話してゐた。もはや沖縄の戦跡では日本軍とそれに献身的に協力した沖縄県民の姿は語られず、沖縄県民に死を強要した鬼の如き日本軍の事ばかりが語られてゐる。かつては南部戦跡と言へば摩文仁の丘を訪れたものだが、今やその手前に平和の礎(戦歿者の名前が記された石版)が建てられ、慰霊の中心地となつてゐる。奥に建つ各県の慰霊塔群の区域が寂しく感じられた。「黎明の塔」の横に牛島中将の自決壕があるが、その表示は見当たらなかつた。その下の健児の塔への道は塞がれてゐた。日本軍と沖縄県民を切り離す悪意が沖縄県民の中に浸透して行つた時、この摩文仁の丘はだうなつていくのか空恐ろしい感じがした。
沖縄戦では、沖縄県民9万4千人を含む、全国の英霊18万8136柱の生命が捧げられた。更には、陸海軍の特攻機が1827機出撃し、3067人が散華した。沖縄救援に向かつた戦艦大和他9隻が途上で撃沈され3700人を超える戦死者が出てゐる。沖縄決戦は文字通り祖国防衛の総力戦であり、沖縄は英霊の眠る愛国の聖地なのだ。反日左翼勢力の蹂躙を決して許してはならない。
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