「道の学問・心の学問」第六十五回(令和3年8月10日)
石田梅岩に学ぶ⑥
「我が文才(もんさい)に伐(ほこら)ず、利欲名聞を離(はなれ)、道に志有(ある)を君子の儒とは云なり。」
(『都鄙問答』巻之一)
梅岩は、学問とは自らの生き方に結実しなければ意味がないと考えていた。当時は儒学真っ盛りの時代であり、儒学の経典である四書五経の読み方を伝授し、意味を解説し註釈する儒学者は数多く存在した。それらの学者を梅岩は「小人(しょうじん)の儒」と「君子(くんし)の儒」に弁別している。「小人」とは、自分の欲望に流される凡人の事であり、「君子」は公を重んじ、立派な人格を備えた人物の事を言う。
「書物を良く読んで、文字を知り教える事の出来る人間を儒者と思っているかも知れないが、そうでは無い。若し、聖賢の心を知らないで教えている儒者が居るならば、それは小人の儒者であって、人の書物箱に過ぎない。君子の儒者は、心を正し徳に至る事が出来ている人物を言う。自分の文学の才能に誇らずに、利欲や名聞から離れて、道に志がある人を君子の儒と言うのである。」
現代風に言えば、様々な知識や良い言葉を数多く知っていても、自らの生き方に反映されないのでれば、その人物は単に知識を数多く知っているだけの人間に過ぎず、それらの本を入れている書物箱と同じである。書物は、その中の文字を通して著者の心が表現されているのであり、その心を学び自らの心を磨く事に意味がある。書物箱になっても仕方ないのだ。
梅岩はその様な「小人の儒」を「文字芸者」とも言っている。
「貴方の言う学者は、親には不孝を為して、他人には偽りを言っている。それらは皆不仁の行いである。文学に幾ら秀でていてもその一芸しか無い人間に過ぎない。その様な者は「文字芸者」と言う。徳とは自らの心に得て、身に行う事を言う。我が心(本心)を得たならば父母には孝行して、他人には決して偽りを言う事は無い。偽りを言わないので家の出入りに不埒な事は行わない。返す意思の無い物は初めから借りる事も無い。例え飢えて死んでも不義の物は決して受けない。自分が欲しない事は他人には施さない。自分の才能を他人に誇る事も無い。他人の良い行いは、自分の身にも出来る様に学び、人の悪事を見たなら、自分にもその様な悪事がありはしないかと恐れて身を正し、常に己を省みて仁義を実践する志があり、決して止まないのが、聖人の学問と言うのである。」
今日は高等教育がかなり普及している。だがその割には、人間の質は一向に向上せず、却って低下している様な感さえ抱く事がある。口では幾ら高尚な事を言っても、人格が伴わなければ、「小人の儒」「書物箱」「文字芸者」に他ならない。読書人の肝に銘ずべき言葉である。
石田梅岩に学ぶ⑥
「我が文才(もんさい)に伐(ほこら)ず、利欲名聞を離(はなれ)、道に志有(ある)を君子の儒とは云なり。」
(『都鄙問答』巻之一)
梅岩は、学問とは自らの生き方に結実しなければ意味がないと考えていた。当時は儒学真っ盛りの時代であり、儒学の経典である四書五経の読み方を伝授し、意味を解説し註釈する儒学者は数多く存在した。それらの学者を梅岩は「小人(しょうじん)の儒」と「君子(くんし)の儒」に弁別している。「小人」とは、自分の欲望に流される凡人の事であり、「君子」は公を重んじ、立派な人格を備えた人物の事を言う。
「書物を良く読んで、文字を知り教える事の出来る人間を儒者と思っているかも知れないが、そうでは無い。若し、聖賢の心を知らないで教えている儒者が居るならば、それは小人の儒者であって、人の書物箱に過ぎない。君子の儒者は、心を正し徳に至る事が出来ている人物を言う。自分の文学の才能に誇らずに、利欲や名聞から離れて、道に志がある人を君子の儒と言うのである。」
現代風に言えば、様々な知識や良い言葉を数多く知っていても、自らの生き方に反映されないのでれば、その人物は単に知識を数多く知っているだけの人間に過ぎず、それらの本を入れている書物箱と同じである。書物は、その中の文字を通して著者の心が表現されているのであり、その心を学び自らの心を磨く事に意味がある。書物箱になっても仕方ないのだ。
梅岩はその様な「小人の儒」を「文字芸者」とも言っている。
「貴方の言う学者は、親には不孝を為して、他人には偽りを言っている。それらは皆不仁の行いである。文学に幾ら秀でていてもその一芸しか無い人間に過ぎない。その様な者は「文字芸者」と言う。徳とは自らの心に得て、身に行う事を言う。我が心(本心)を得たならば父母には孝行して、他人には決して偽りを言う事は無い。偽りを言わないので家の出入りに不埒な事は行わない。返す意思の無い物は初めから借りる事も無い。例え飢えて死んでも不義の物は決して受けない。自分が欲しない事は他人には施さない。自分の才能を他人に誇る事も無い。他人の良い行いは、自分の身にも出来る様に学び、人の悪事を見たなら、自分にもその様な悪事がありはしないかと恐れて身を正し、常に己を省みて仁義を実践する志があり、決して止まないのが、聖人の学問と言うのである。」
今日は高等教育がかなり普及している。だがその割には、人間の質は一向に向上せず、却って低下している様な感さえ抱く事がある。口では幾ら高尚な事を言っても、人格が伴わなければ、「小人の儒」「書物箱」「文字芸者」に他ならない。読書人の肝に銘ずべき言葉である。
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