「道の学問・心の学問」第二十六回(令和2年11月13日)
熊澤蕃山に学ぶ⑪
「大才は刀のごとし。よくとぎて、つかさやをし、昼夜身をはなたずといへども、一生用ひず。威を以て無事也。」
(『集義和書』巻第十三)
「私は才能が無く、学問が成るか覚束ない。学問によって才知が生まれるのであれば学びたい。」と述べる知人に対して蕃山は次の様に諭した。
「真に学んだ者は、元来持っている才知までも隠れて無い様に見えるものだ。学問によって才知が生じる事は無い。学問というのは自分の本来持っている明徳(天与の純粋無雑な心)を明らかにする為に学ぶのである。才知があって徳を損なう者は多く、徳の助けとなる者は少ない。学問とは天が与えた真の楽しみを求めるものである。才知は自分の心をわずらわせ、自分の心を苦しませるものである。」と。
蕃山は「学問」の真の意味を問いかけているのだ。蕃山の言う学問とは、人間に本来備わっている「徳」を明らかにする事であり、「才知」(才能や知恵)は却って「徳」を損なう事が多いと警鐘を鳴らす。その様な「才知」を求めて何になるのだと問いかける。
更に蕃山は言う。
「大才は刀の様なものである。能く研いで、柄鞘に納めて、昼夜離さず身に着けていても、一生用いない。その事で自ずと備わる威厳が身を守るのだ。一方、小才は刀を朝夕用いる様なものである。人を傷付け我が身をも損ない無事ではありえない。今の世で「才」と言われているのはこの小才の事に過ぎない。(略)人間で才が有っても徳の無い者は「妖物(妖怪)」である。才能が無くても徳に近い者の方が人間としては優れているのだ。」
「大才」とは「徳」に裏打ちされた、全人格によって生み出される「才」の事を言うのだ。刀はむやみやたらと振り回す物では無い。又、一度鞘を抜いたら生死を賭けねばならないものだと言う。日々磨き続ける事を怠ってはならない。だが、決して人前に出して使う者であってはならない。この矛盾する行為を日々繰り返して行く事で、自然に威厳が備わって来るのである。その結果、大才は振るわずとも周りは自ずと治まるのである。
この事を東洋哲学では「無為」とも称する。一見何も為さない様に見えるが、自ずから調和を生み出しているのである。「大智は愚のごとし」(『蘇軾』)、「大巧は拙の若し」「大弁は訥の若し」(『老子』)も同様の事を述べている。外見は穏やかで軟弱そうに見えても、芯は鋼の様に強く決して揺らがない、「愚」や「拙」や「訥」の様に見られても、利刀の如き本物を身の内に静かに秘めている者こそが真の「大才」の持主なのである。
熊澤蕃山に学ぶ⑪
「大才は刀のごとし。よくとぎて、つかさやをし、昼夜身をはなたずといへども、一生用ひず。威を以て無事也。」
(『集義和書』巻第十三)
「私は才能が無く、学問が成るか覚束ない。学問によって才知が生まれるのであれば学びたい。」と述べる知人に対して蕃山は次の様に諭した。
「真に学んだ者は、元来持っている才知までも隠れて無い様に見えるものだ。学問によって才知が生じる事は無い。学問というのは自分の本来持っている明徳(天与の純粋無雑な心)を明らかにする為に学ぶのである。才知があって徳を損なう者は多く、徳の助けとなる者は少ない。学問とは天が与えた真の楽しみを求めるものである。才知は自分の心をわずらわせ、自分の心を苦しませるものである。」と。
蕃山は「学問」の真の意味を問いかけているのだ。蕃山の言う学問とは、人間に本来備わっている「徳」を明らかにする事であり、「才知」(才能や知恵)は却って「徳」を損なう事が多いと警鐘を鳴らす。その様な「才知」を求めて何になるのだと問いかける。
更に蕃山は言う。
「大才は刀の様なものである。能く研いで、柄鞘に納めて、昼夜離さず身に着けていても、一生用いない。その事で自ずと備わる威厳が身を守るのだ。一方、小才は刀を朝夕用いる様なものである。人を傷付け我が身をも損ない無事ではありえない。今の世で「才」と言われているのはこの小才の事に過ぎない。(略)人間で才が有っても徳の無い者は「妖物(妖怪)」である。才能が無くても徳に近い者の方が人間としては優れているのだ。」
「大才」とは「徳」に裏打ちされた、全人格によって生み出される「才」の事を言うのだ。刀はむやみやたらと振り回す物では無い。又、一度鞘を抜いたら生死を賭けねばならないものだと言う。日々磨き続ける事を怠ってはならない。だが、決して人前に出して使う者であってはならない。この矛盾する行為を日々繰り返して行く事で、自然に威厳が備わって来るのである。その結果、大才は振るわずとも周りは自ずと治まるのである。
この事を東洋哲学では「無為」とも称する。一見何も為さない様に見えるが、自ずから調和を生み出しているのである。「大智は愚のごとし」(『蘇軾』)、「大巧は拙の若し」「大弁は訥の若し」(『老子』)も同様の事を述べている。外見は穏やかで軟弱そうに見えても、芯は鋼の様に強く決して揺らがない、「愚」や「拙」や「訥」の様に見られても、利刀の如き本物を身の内に静かに秘めている者こそが真の「大才」の持主なのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます