たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

切通坂 の啄木歌碑

2012-11-19 | 啄木歌碑
東京の切通坂(きりとおしざか)は啄木が朝日新聞社に勤務していた時、夜勤の帰りに通った道です。ここには、切通坂に由来する啄木の歌が刻まれています。



切通坂の案内




「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町に達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯(がすとう)境内を 出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな

石川啄木 



       ― 郷土愛をはぐくむ文化財―   文京区教育委員会  平成11年3月





啄木歌碑






二晩おきに
夜の一時頃に切通しの坂を上りしも
勤めなればかな

石川啄木





歌碑の案内




"この歌は、石川啄木(1886~1912)の明治43年(1910年)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んでいる。
当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷2-38-9・新井理髪店)の2階に間借りしていた。そして一家5人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。
喜之床での2年2か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
文京区内で最後に残っていた啄木ゆかりの家"喜之床"が、この3月18日に犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。

            昭和55年5月3日  文京区教育委員会"



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