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たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

渋民小学校の啄木歌碑

2011-07-21 | 啄木歌碑
石川啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともある旧渋民尋常高等小学校は、国道4号線沿いにある愛宕神社脇にありましたが、現在は啄木公園の傍に移転・新築されました。歌碑は校門を入ると右側にあります。




渋民小学校


啄木歌碑




その昔
小学校の柾屋根に我が投げし鞠
いかにかなりけむ

啄木
(一握の砂)



この歌は明治43年啄木歌ノート(8月3日―4日)にある歌で、東京朝日新聞(明治43年8月14日)に発表、一握の砂「煙二」に掲載されている。


校門を入ると、左側には啄木作詩の校歌の碑があります。





渋民小学校の校歌

1. 春まだ浅く 月若き
生命の森 夜の香に
あくがれ出でて 我が魂の
夢むともなく 夢むれば
さ霧の彼方 そのかみの
希望は遠く たゆたいぬ

2. そびゆる山は 英傑の
跡を弔ふ 墓標
音なき河は 千歳に
香る名をこそ 流すらむ
此処は何処と 我問えば
汝が故郷と 月答ふ

3.雪をいただく 岩手山
名さえやさしき 姫神の
山の間を 流れゆく
千古の水の 北上に
心を洗い 身を清め
学の道に 進めかし



渋民小学校では現在も古賀政男の曲ではありませんが、この歌を校歌にしております。



啄木が入学した旧渋民尋常高等小学校は、明治17年(1884)、現在の国道4号線沿いにある愛宕神社脇に建設されました。この学校は石川啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともあるゆかりの校舎であり、現在、石川啄木記念館敷地内に移築保存されています。柾屋根造り、連子格子、囲炉裏のある溜まり場など明治前期の面影が残されております。なお、旧渋民尋常高等小学校は盛岡市指定文化財となっています。




旧渋民尋常高等小学校






渋民「宝徳寺」の啄木歌碑

2011-07-13 | 啄木歌碑
啄木は盛岡の隣村の日戸村の常光寺で生まれましたが、一年後、父一禎が隣村の渋民村の宝徳寺の住職になったため、ここに移住し、盛岡の中学を退学するまで、この寺で暮らしている。歌碑は昭和36年4月に建立された。







さわらの木と歌碑












啄木歌碑





ふるさとの寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥

啄木(悲しき玩具)



この歌は、啄木歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末日)にある歌で、雑誌「新日本」(明治44年7月号)に発表。「悲しき玩具」に掲載されている。啄木はさわらの木をひばの木と思ったのでしょう。





宝徳寺



宝徳寺の門の前から見た岩手山



宝徳寺の門を出ると真正面に岩手山が見えます。啄木は毎日この岩手山を眺めて育ったのでしょう。渋民村には綺麗な姫神山もありますが、啄木の歌には姫神山に関する歌はありません。啄木にとっては思い出の山はこの「岩手山」だったのでしょう。




昭和37年10月には啄木の詩「凌霄(のうぜん)花」の一節の碑が建立された。






           
                     君が墓あるこの寺に
                     時告げ法の声をつげ
                     君に胸なる笑みつげて
                     わかきいんちに鐘を撞く
                     君逝にたりと知るのみに
                     がんばせよも美しき
                     み霊の我にやどれと
                     人に知らねば身を呼びて
                     うつけの心の唖とぞ
                     あざける事よ可笑しけれ




啄木の間

啄木は寶徳寺において満一歳から十八歳まで生活をしました。特に盛岡中学時代は、この部屋を好んで使い読書や思索に、あるいは友との語らいに、時を忘れて熱中する場としました。また、静かなこの部屋で萬年山に響きわたる啄木鳥の木霊に境内の檜葉の木に鳴く閑古鳥の声に折々の気持ちを込めてじっと耳を傾けました。青春期のこうした体験からやがてペンネーム「啄木」を編むむだし、望郷の思いを託す次の歌を創ります。
「ふるさとの寺の畔のひばの木のいただきに来て啼きし閑古鳥」
この部屋は大事な啄木の間であります。したがいまして、当時のままに平成13年に復元し、石川啄木を偲ぶよりどころとして、永く保存に務めてまいります。また、寺の裏庭には白蘋の池があり、中学時代に用いた号、白蘋はこれに由来している。(案内板)








啄木の間の案内板



啄木の間



啄木の間から見える白蘋の池





宝徳寺から啄木が生まれた常光寺までの距離は10km、啄木が利用した好摩駅までは5kmほどあります。
























啄木生誕地「常光寺」

2011-07-06 | 啄木歌碑
前回までは、盛岡市内の啄木歌碑めぐりをしましたが、今回からは啄木が生まれ育った盛岡市玉山区(旧 日戸村、渋民村、玉山村)の歌碑めぐりをします。
啄木は盛岡の隣村日戸村の常光寺で生まれている。当時、啄木の父一禎は常光寺の住職をしており、父が隣村渋民村の宝徳寺の住職になるまでの1年間をここで暮らした。

常光寺の境内には樹齢約300年といわれる老杉木立があり、その脇に啄木の生涯の友であった金田一京助の揮亳による啄木の「生誕の地」の碑が建立されている。また、お寺には啄木が過ごした部屋が保存されており、現在もお寺では使用している。












啄木の生誕の地である日戸村は、明治22年4月に隣村の玉山村と合併し玉山村になり、その後明治29年に玉山村は渋民村と合併し新しい玉山村になる。その後、玉山村は平成18年1月、盛岡市に編入合併のうえ廃止された。旧村域には合併特例法に基づく地域自治区が平成28年3月31日を期限として設置され、地名にも玉山区が使われ、現在、盛岡市玉山区になっている。



常光寺案内板の歌碑
常光寺は姫神の山裾、うっそうとした杉木立にかこまれている閑静な古い禅寺で、明治19年2月20日に、石川一(啄木)はが生まれました。啄木は1年間この寺で過ごし、隣村澁民村の宝徳寺に移り住みました。常光寺には、啄木が生まれた部屋が当時のまま復元されています。(案内板)











案内版の啄木の歌


 たわむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

この歌は、明治41年啄木歌ノート「暇ナ時」(6月25日)にあり、「明星」明治41年7月号に発表、一握の砂「我を愛する歌」に掲載。




啄木が生まれた部屋









家庭苑にある啄木歌碑

2011-06-30 | 啄木歌碑
盛岡市大館町の篠根さんが自宅の庭に建立した啄木歌碑です。篠根さんのお庭の歌碑は道路からは見られないので、篠根宅に伺ってお庭の歌碑を見せていただきました。昭和49年12月に建てられた歌碑です。







ふるさとの
山に向ひて言ふことなし
ふるさとの
山は ありがたきかな

啄木
(一握の砂)


この歌は明治43年歌ノート(明治43年8月28日)にあり、一握の砂「煙二」に掲載。



家庭の庭に建てられた啄木歌碑は他に、盛岡市梨木町のエスポアイトウのお庭にもありましたが、不在でしたので写真は撮りませんでした。歌碑は道路から見られます。

また、以前に市内の高松の池、加賀野のオームラ洋裁専門学校にあった啄木歌碑は撤去されて、現在はありません。










松園寺の啄木歌碑

2011-06-28 | 啄木歌碑
盛岡の松園寺には多くの歌碑が建っております。松園寺は国道4号盛岡バイパスの北山トンネルから岩泉方向に5km程進むと着きます。途中には岩手県立野球場、盛岡で一番大きな松園団地、山岸のカキツバタ群落があります。

 







長く長く忘れじ友に会ふごときよろこびをもて水の音聴く



この歌は、東京毎日新聞(明治43年3月10日)に発表、一握の砂「秋風のこころよさに」掲載されている。







山の子の山を思ふがごとくにもかなしき時は君を思へり



この歌は、文章世界(明治43年11月号)に発表、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載。 



                   


その他、次の歌碑が建っている

神無月岩手の山の初夏の眉にせまりし朝を思ひぬ

いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ

病みてあれば心も弱るらむさまざまの泣きたきことが胸にあつまる

人がみな同じ方角に向いて行くそれを横より見てゐる心

己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし

東海の子島の磯の白浜にわれ泣きぬれて蟹とたわむる

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日

やわらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けどごとくに

ゆゑもなく海が見たくて海に来ぬこころ傷みてたへがたき日に

たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひて夢見る人と