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たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

渋民公園の啄木歌碑

2011-08-23 | 啄木歌碑

石川啄木の思い出の山、岩手山。その美しく雄大な山を間近に仰ぎみる北上川沿いに渋民公園があります。ここにある啄木の歌碑は全国で一番最初に建立された歌碑で、大正11年(1922) 4月13日、啄木没後10年目の啄木の命日でした。碑陰には「無名青年の徒之を建つ」とあります。渋民公園は啄木記念館から歩いて5分ほどの所にあります。









やわらかに柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けどごとくに

啄木



この歌は、一握の砂「煙二」に掲載されている。


鵜飼橋 啄木公園の西側を北上川が流れており、「橋はわがふる里・・・」の詞書ではじまる啄木の長詩「鵜飼橋に立ちて」にうたわれているこの橋の歴史は古く、安政4年(1857年)の文書の中に「鵜飼橋流落候節云々」とある。この場所は、北上川の流れが激しく、たえず流失をくり返し、明治以降は渡し舟による通行もしばらく続いた。下田の竹田竹松氏が日清戦争に応召した際仙台近くでみた吊橋にヒントを得、兵役を終えるや橋の架設に奔走し、明治30年(1897年)3月、幅5尺(155cm)、針金を数本よじり川幅いっぱいに渡した吊橋・鵜飼橋が完成し、北上川の両岸の交通が確保された。この後いく度架け替えられ、使われてきましたが、老朽化したため、昭和59年、当時のイメージを活かし現代的な吊り橋として架け替えられた。啄木がこの地にいた頃は渋民駅はなく好摩駅が交通の主要拠点だった。渋民村住んでいた啄木は、東京や函館に行く際には現在の鵜飼橋の下流に架かっていた元の鵜飼橋を渡り、このあたりから鉄道沿いに好摩駅に歩いていたと言われている。(案内板)






鵜飼橋と姫神山










なお、渋民公園は渋民小学校に隣接している。






渋民小学校の校庭と姫神山




渋民「愛宕の森」の啄木歌碑

2011-08-18 | 啄木歌碑
啄木の母校であり、代用教員として教鞭をとった、渋民尋常小学校の裏の森には、愛宕神社が祀られている。総本社京都の愛宕神社支社として、およそ3百年前に建立された。防火の守護神として村人に信仰され、毎年旧暦の6月と8月の24日に例祭が催される。啄木は、ここを「命の森」と呼び、好んで散策しては詩想を練った。






愛宕神社裏に、昭和62年3月に緑地公園をつくり展望台が設置され、その展望台に啄木自筆を集字拡大した歌が刻まれた。


 
展望台



展望台上の啄木の歌



ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

啄木



この歌は、明治43年啄木歌ノート(8月28日)にあり、一握の砂「煙二」に掲載された。



この森には平成10年10月に建立された、次の啄木歌碑もある。







新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどー

啄木



この歌は、啄木歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末日より)にある歌で、「悲しき玩具」に掲載されている。

















啄木記念館の歌碑

2011-08-12 | 啄木歌碑
啄木を知るには啄木記念館を訪れるのが手っ取り早いでしょう。啄木記念館は昭和45年に開館し、昭和61年5月に現在の新館がオープンしています。館内には、直筆書簡、ノート、日誌などが展示されており、啄木関連図書が充実しております。
記念館の庭には渋民尋常高等小学校、斎藤家が移築されており、啄木と子供達のブロンズ像、啄木と妻節子の歌碑が建立されている。








啄木の足跡


啄木・子供のブロンズ像と旧小学校、旧斎藤家(改修前)




啄木記念館玄関脇の歌



東海の
小島の磯の
白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

石川啄木




この歌は、啄木明治41年歌ノート「暇ナ時」(6月24日)にあり、明星(明治41年7月号)、創作(明治43年7月号)、廣野(明治43年9月号)に発表、一握の砂「我を愛する歌」に掲載された。



記念館から庭に出ると、一段上の処に旧記念館があります。旧記念館入口に向かって、左手に、石川啄木慰霊塔が建立されている。昭和58年4月13日、石川啄木記念館によって建立されたものです。慰霊塔の背面に、『悲しき玩具』からの一首が銅版に浮き彫りされている。ぜひ背面に回って見てください。






今日もまた胸に痛みあり。
死ぬならば、
ふるさとに行きて死なむと思ふ。

啄木



この歌は啄木歌稿ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末より)にあり、雑誌「新日本」(明治44年7月号)に発表、悲しき玩具に掲載された。



敷地内の庭の歌碑





時として
あらん限りの声を出し
唱歌をうたふ子をほめてみる

石川啄木



この歌は、啄木歌ノート一握の砂以後(明治43年11月末より)にあり、文章世界(明治44年7月号)に発表、悲しき玩具に掲載された。




旧斎藤家(改修後)前の節子歌碑


この舟は海に似る瞳(め)の君のせて
白帆に紅(あけ)の帆章(ほじるし)したり
  
石川節子




庭の外の広場には2004年6月に建立された啄木の歌碑が建っています。



  

啄木記念館前の広場の歌碑 


 
公園の木の間に
小鳥あそべるを
ながめてしばし憩ひけるかな

啄木




この歌は、雑誌創作(明治43年11月号)に発表、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載。



記念館に行くには、バスを利用すると便利です。盛岡駅 から沼宮内行きバスに乗り、啄木記念館前で下車ください40分ほどです。盛岡駅から電車で渋民駅までも行けますが、記念館までは駅から歩いて20~30分かかります。電車で行くと、駅庭に建立されている啄木歌碑、駅前の啄木団地の歌碑、駅から啄木記念館に行く途中にある大前田の啄木歌碑、愛宕神社の歌碑、斎藤家前の歌碑を訪ねることができます。記念館の入場券は450円で、庭にある旧小学校やも旧斎藤家なども見ることができます。







渋民「斎藤家」の啄木歌碑

2011-08-05 | 啄木歌碑
啄木は節子と結婚し、盛岡の新婚の家で3週間、市内の加賀野での生活、合わせて9ヶ月経った後、盛岡を離れ渋民村での生活が始まった。その家が斎藤家です。
盛岡から国道4号線を北上すると渋民の街に入り道路の右側に愛宕神社がある。そこから100mほど進むと道路の右側に現在の斎藤家があり、道路沿いに啄木歌碑が建立している。この歌碑は、昭和29年5月、新東宝映画「雲は天才である」の映画監督中川信夫が寄贈したものです。

 






かにかくに渋民村は戀しかり
思いでの山
思い出の川 

石川啄木


この歌は、一握の砂「煙二」に掲載された。




啄木記念館敷地にある旧斎藤家(改修前)



啄木は、明治39年3月より、翌40年5月まで渋民の斎藤家の2階に寄寓していた。この間啄木は渋民小学校の代用教員をしていた。
斎藤家は1970年に記念館敷地に移転され、移転後40年目の昨年、改修され、現在は綺麗になっています。



改修された斎藤家



啄木が間借り住んだといわれる二階への階段







啄木記念館敷地に並ぶ渋民小学校と斎藤家



渋民尋常高等小学校は明治17年10月に渋民村字渋民の・愛宕神社の下に、造られた。  啄木は明治24年この学校に入学 して4年間勉学し、その後明治39年 4月から一年間、日本一の代用教員として教鞭をとった思い出の校舎である。 昭和42年7月、現在地に 移し復元した。



渋民尋常高等小学校の教室








啄木は故郷渋民で小学校の代用教員として、斎藤家で1年2ヶ月過ごした後、北海道に渡り、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。ここが故郷での最後の住家でした。





十和田の啄木歌碑

2011-07-26 | 啄木歌碑
啄木は明治34年7月に十和田を訪れている。私も7月の十和田を訪れました。盛岡から東北自動車道、八戸自動車道、百石道路を通り十和田市に着いたのは11時半頃でしたので、昼食をとった後、奥入瀬渓流をへて、十和田湖畔休屋にある、十和田荘の門前に建立する啄木歌碑を訪れた。



十和田荘の看板に向かって右側に歌碑はあります








夕雲に丹櫂はあせぬ
湖ちかき草舎くさはら
人しづかなり

啄木



この歌は白蘋の名で盛岡中学校校友会雑誌(明治35年3月号)に掲載されている






歌碑説明
石川啄木は明治の文壇に斬新な作風をもって現れ、今もなお私どもの胸を打っております。私どもがここにかれの歌碑をたてることは、そのすぐれた文学を顕彰することの一環であります。かれが、明治三十四年七つき、中学四年生のとき、学友とともに十和田湖に遊ぶ途中、毛馬内の錦木塚の悲恋の伝説を取材し、かおり高い詩歌をのこしました。碑の歌の丹櫂(にずり)はその物語の、想うひとの戸口にたてかけた錦木の紅い塗り色のことです。この碑をたてるにあたり、地元の十和田町、休屋の方々なかにも中村秀三氏の絶大なるご尽力をいたゞいたこと歌の揮毫を氏の父君 湖畔開発功労者秀吉翁の、題字を県知事竹内俊吉氏のご行為により、また多くの啄木愛好者の浄財によったことを謝意をこめて刻むものです。  昭和48年8月26日 青森啄木会 川崎むつを



奥入瀬渓流















十和田荘から発荷峠をへて大湯温泉で一泊、翌日大湯環状列石を見、十和田ICから盛岡に戻った。








 

大湯環状列石は、秋田県鹿角市十和田大湯に所在する野中堂環状列石、万座環状列石の2つの環状列石を主体とする縄文時代後期(約4,000年前)の大規模な遺跡で、「集団墓」であるとともに、隣接する掘立柱建物や周囲から出土した祭祀の遺物などから、葬送儀礼や自然に対する畏敬の念を表す儀式を行った「祭祀施設」であったと考えられているようです。