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たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

先人記念館の啄木歌碑

2011-06-23 | 啄木歌碑
盛岡先人記念館には明治期以降に活躍した盛岡ゆかりの先人130人が紹介されております。特に新渡戸稲造、米内光政、金田一京助については記念室がある。金田一京助記念室の庭には京助の書による啄木の歌碑が建っております。この歌碑は、昭和29年4月に旧盛岡鉄道管理局盛岡工場に建立しましたが、昭和60年に同工場が廃止され、昭和62年に先人記念館に移されました。
 




ふるさと能山尓向ひて
言う事那し
ふるさとの山者あ里可多記可奈



啄木歌碑
金田一京助の書
昭和29年4月23日




この歌は、明治43年啄木歌ノート(8月28日)にあり、一握の砂「煙二」に掲載されている。








金田一京助記念室より





先人記念館には、盛岡駅2階の西口通路を出ると間もなく雫石川に架かる「杜の大橋」があり、その橋を進んで行くと短いトンネルがありますので、トンネルの手前を右折するとすぐです。記念館の中に入り、書類に記入すると、歌碑まで案内してくれます。なお、先人記念館の隣には県立美術館がある。





 
 

先人記念館入り口













啄木であい道の歌碑(啄木家族の歌)

2011-06-19 | 啄木歌碑
啄木であい道には啄木の妻・節子、娘・京子、父・一禎、妹・光子、伯父・葛原対月の歌碑も建っております。




啄木であい道







夏潮や二人のゐなる舟なれば
五反帆なれど日の色そめて

石川節子








我が娘今日も一日外科室に
遊ぶと云ふが悲しき一つ

石川節子








ひぐるまは焔吐くなる我がうたに
ふと咲き出でし黄金花かな

石川節子











眞洞出る
流れに添ひし
白樺の
木立をつつむ
夏大日かな

石川節子











初秋やまさぬ一夜を髪を梳
かなしとききぬ歌やこほろぎ


節子(啄木の妻)








絵本読む事にあきて児等二人
土いじりすると庭にありゆく

石川京子(啄木の娘)










美しき星月夜なり今はなき
母のことなど思い出たり

石川京子










朝日影
流石に雲井に
輝きて
岩手の山の
峰のしら雪

石川一禎(啄木の父)










なだらかに
陽は暮ぬ
寂冥の闇に
己れを見出しかな

光子(啄木の妹)










花にやう
ふれし袂に
香をとめし
くれゆく春の
かたみとやせん

葛原対月(啄木の伯父)











啄木であい道の歌碑(啄木中学時代の歌)

2011-06-14 | 啄木歌碑
啄木であい道は平成11年に設置され、ここには啄木が盛岡中学時代に詠んだ歌の歌碑もあります。盛岡駅前から開運橋か旭橋を目指して歩き、橋の手前の北上川沿いの両橋の間です。市営地下自転車駐車場の緑地公園内です。




 

花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢

石川翠江



翠江は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表しました。この歌は、その中の一つで、これらの歌は現存する啄木の作品中最も古い歌です。

 





血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋

石川白蘋


この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?この後文学で身を立てようと上京した。

翠江(すいこう)、白蘋(はくひん)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、翠江は明治34年8月頃から12月頃まで、それ以降明治36年9月頃までは白蘋を使用している。なお、「白蘋」の雅号は啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しており、「啄木」の号はお寺の境内の樹林をたたく啄木鳥から生まれたものです。(宝徳寺案内板)





 

花びらや
地にゆくまでの瞬きに
閉ぢずもがもか吾霊の窓

石川啄木



啄木明治36年9月17日野村董舟(胡堂)宛の手紙の中の一説吾霊の窓

この歌は啄木が胡堂に宛てた手紙の中にあり、長文の手紙の最後にワグネルの像掲げたる窓に蟋蟀の歌きゝつゝ
白蘋拝

「花びらや、地にゆくまでの瞬きに、閉ぢずもがもか吾霊の窓。」

とある。この歌は明治36年なので中学退学後ですが、この頃はまだ白蘋の雅号を用いている。

啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用していたが、これは明治34年12月末から35年の正月頃までの短い期間のようです。麦羊子の署名での歌は、野村胡堂宛ての手紙(明治34年12月31日)、金田一京助宛の手紙(明治35年1月1日)の中で、次のように詠んでいる。

争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐

石川麦羊子









「啄木であい道」の啄木歌碑

2011-06-08 | 啄木歌碑
「啄木であい道」は平成11年に設置されています。ここには啄木、妻節子や家族の歌碑が多数建っている。この場所は開運橋と旭橋の間にあり、盛岡駅前から開運橋か旭橋を目指して歩き、橋の手前の北上川沿いの両橋の間です。市営地下自転車駐車場の緑地公園内です。啄木歌碑は中津川に沿っては数か所にありますが、北上川に沿っては、ここだけです。




啄木であい道






 

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど

啄木
(一握の砂)



この歌は東京毎日新聞(明治43年5月8日)に発表し、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載されている。「忘れがたき人人(二)」にある22首の歌はすべて、たった一人の女性、智恵子を詠んだものです。
「啄木であい道」には、この大きな歌碑を中心に左右に多くの歌碑が建っています。






今日もまた胸に痛みあり
死ぬならば
ふるさとに行きて死なむと思ふ

石川啄木
(悲しき玩具)


この歌は一握の砂以後(明治43年11月号)にあり、雑誌新日本(明治44年7月号)、悲しき玩具に掲載されている。






汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも

石川啄木
(一握の砂)


この歌は、歌碑ノート(明治43年8月28日にあり、雑誌スバル(明治43年11月号)、一握の砂に掲載されている。



北上川は啄木が育った渋民村から盛岡を通り、県南の平泉、一関を通って宮城県の石巻まで流れて行く。



宮城県石巻市 日和公園から(平成22年11月7日撮影)








啄木父子の歌碑

2011-06-03 | 啄木歌碑
「石川啄木・若山牧水友情の歌碑」がある下橋(しものはし)中学から下流に5分程歩くと御厩橋付近の啄木父子の歌碑に到達する。中津川は、この歌碑のある場所で北上川に落合い、さらにその下流100mで雫石川が合流し大きな北上川になって宮城県石巻市まで流れて行く。この歌碑は平成5年12月「国民文化祭いわて‘93」のモニュメントとして建立された。中津川に沿う啄木歌碑はこれが最後です。


 
啄木親子の歌碑(向かって右が啄木の歌)


中津川や
月に河鹿の啼く夜なり
涼風追ひぬ夢見る人と
啄木



中津川
流れ落合ふ北上の
早瀬を渡る夕霞かな
一禎





盛岡駅から明治橋の方向に進むと歌碑案内の標識がある



歌碑の傍から見た御厩橋(左側の建物は盛岡駅前のマンションです)




 
     
歌碑のあたりで中津川(右側手前)が北上川に落合い、さらに下流100mくらいで、雫石川(鉄橋の下)が手前の北上川に合流、三つの川が新しい北上川になって宮城県石巻市まで流れていく。