「ほめる技術、しかる作法 (PHP新書) 」という本を読んでいる。
しかるには、ある一定の作法が必要だと思っていたからだ。
しかるが成り立たなくなっているのは、
今までの成功体験が現在の成功体験とならないからである。
常識が通用しない。
しかる側には、しかる作法
しかられる側には、しかられる作法が必要だと思う。
作法とは、
ある技をやるときの決まった美しい形
お茶の作法→一連の手続き(パターン)
快適な行動を一般化して、簡単に快適になるための方法
だと定義する。
前述の本には、次のようにある。
2004年に「プレジデント」がとったアンケート。
「しかることの効果の変化」を尋ねている。
以前よりしかることの「効果が減っている」と答えた人の割合が、
「増えている」という人を大きく上回っている。
理由は、
「上司・先輩の『叱る』経験や能力が低下したから」
が最も多い。
これを元に筆者は、
かっては通用したはずのしかるセオリーが今の時代では通用しなくなった。
と結論づけている。
また、アメリカでは、リーダーが、部下をしかる論文は見あたらなかったそうだ。
それは、上司と部下が意見が食い違った場合、アメリカのビジネス環境で求められているのは、「主張するスキル」だからだという。
「しかる」ことができるのは、親子のような上下関係や家族という一体感がある場合だけらしい。
これは、日本でも容易に想像できる。
立場が同じ対等な関係では、忠告などはできても「しかる」はできない。
今、しかることが難しいのも、一体感が喪失しているからだと思う。
振り返ってみれば、初任の頃、
学校と地域との一体感があった。
地域の学校として、運動会は、地域の運動会も兼ねていた。
保護者と教師との信頼関係も深かった。
祖父母からは、新採の若い教師も尊敬の対象だった。
子どももその中で育てられていた。
今でも覚えている原風景がある。
担任していた4年生。
6年生と一緒にしかったとき、その子は、
反省のあまり、掃除時間いっぱいにその場にたちつくしていた。
目に涙をいっぱいためて。
今では、この一体感がない(うすい)。
更に言えば、
子どもたちの経験が少なすぎる。
近所のガキ大将が低学年の子どもを率いて遊んでいた環境がない。
だから、本気になってお互いの感情をぶつけ合う瞬間がない。
その結果、しかられる土壌がない。
もちろん、しかる側も自信をもって、しかることができなくなっている。
ここに作法の喪失がある。
以前は、
しかる側にも
しかられる側にも
不文律のきまり(作法)があった。
今は、本で提案されているように
学ばなければいけない。
例えば、しかられ方が次のように書かれている。
□
しかられているときに大前提となるのが、「あなたの言葉をきちんと受けとめています」という態度である。(中略)
しかられたときには、まずゆっくりと深くうなずくのが基本である。
(中略)
なるべく深く肩を落としてうなだれてみせるほど、「反省しています」という印象が強く伝わる。
□
このように作法を学ばなければいけないのだ。
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