一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

『二十歳の原点』(高野悦子) ……刊行から40年、今でも私の「心の書」……

2011年06月12日 | 読書・音楽・美術・その他芸術
雨の日曜日、長女と二女、それに孫二人と一緒に楽しいひとときを過ごす。
皆が昼寝した午後、私は自分の部屋で本や雑誌の整理をする。
古い雑誌を手に取ると、ついつい読み耽ってしまい、なかなか捗らない。
今日、興味深く読んだのは、『文藝春秋』2005年6月号の[証言1970-72]という特集。


1970年、1971年、1972年の3年間のことは、誰もが不思議とよく憶えている。
三島事件、よど号ハイジャック、大阪万博、横井庄一さんの帰還、連合赤軍事件、角栄政権の樹立、沖縄返還、日中国交正常化……。
これほど記憶に残る出来事が次々と起きた時期もめずらしいのではないか。
特集の見出しも興味をそそるタイトルが並ぶ。

【鑑識員が明かす三島自決現場】(青沼陽一郎)
【わが全共闘運動秘史】(北方謙三)
【よど号機長と乗客・日野原重明】(石田真二・日野原重明)
【「殺人鬼」大久保清はなぜ自供した】(飯塚訓)
【連合赤軍・植垣康博と山岳アジト巡礼】(久能靖)
【テルアビブ岡本公三と「一問一答」】(立花隆)
【角栄総理にこの目で見た三億円】(車谷長吉)
など……。

なかでも私の興味を惹いたのは『二十歳の原点』を書いた高野悦子さんの母・高野アイさんによる【「二十歳の原点」母は反対した】という証言だった。


『二十歳の原点』は、初めて読んだ高校2年のときから、長い間、私の「心の書」であった。
高野悦子――
学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想を砕かれ、愛に破れ、予期せぬうちにキャンパスの孤独者となり、自ら命を絶つ…。
独りであること、未熟であることを認識の基点に青春を駆け抜けていった女子大生の愛と死のノート。
それが『二十歳の原点』だ。


高野悦子さんは、1969年6月24日、京都市内の国鉄山陰線に身を投げて亡くなった。
母親のアイさんは、その一週間前の6月17日に、京都に娘を訪ねたという。

《西那須野(栃木県)の家に残った夫と相談し、無理に連れ戻すことは言わないでおこうと決めていたので、河原町で買物をして過ごすことに。普段は甘えた素ぶりを見せないカッコも、その日は私にワンピースをねだりさえしたんです。
京都駅であらためて向い合い、「いっしょに帰ろう」という言葉が出かかったんですが、呑みこんでしまった。あのとき連れ帰っていれば、と、悔やまれてなりません》

那須に戻った母は、娘が所望していたものを段ボールに詰めて送る。
しかし、数日後、娘の死の知らせが――。

《京都府警で遺体と対面したときは、なにも考えられませんでした。下宿に戻ると、私の送った段ボールが封も開けずにそのままになっていた。そして机のなかに、日記を発見したのです》

母はノートだけを宿泊先に持ち帰って、一晩寝ないで読む。
内容は赤裸々で、衝撃的だった。
それ以来、母は本を読んだことがないという。
文章というものが怖くなったからだ。
同人誌「那須文学」に載った日記の断片が出版社の目にとまり、刊行を勧められるが、母親は反対した。
娘の個人的な記録が、大勢の人の目に触れるなんて滅相もないと思ったのだ。
しかし、編集者から「奥さん、女の子はいつかお嫁にやらなきゃいけない。私にやらせてくださいませんか」と説得された。
刊行された『二十歳の原点』は話題を呼び、その後、『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』と続編が出て、合計300万部超のベストセラーになった。


『二十歳の原点』の巻末に「失格者の弁」を書いた高野悦子さんの父・高野三郎さんもすでに亡くなったとか。
高野悦子さんの死から42年、『二十歳の原点』が出てから40年。
人生に「もし」はありえないが、高野悦子さんがもし生きていたら、現在62歳。
どんな人生を歩んでいるだろうか?
本に載っている彼女の写真は20歳のときのままだ。
彼女の人生の3倍近く生きている私だが、不思議なことに彼女は今でも私にとって年上の女性だ。
私が年老いてもそれは変わらないだろう。


毎年、6月24日が近づくと、何とも言えない不思議な気持ちになって落ち着かない。
そういうときは、『二十歳の原点』を取りだして読み返す。


今年もあと少しで、その日を迎える。
『二十歳の原点』は今でも私の「心の書」である。

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