ここのところ何かと忙しくしていましてブログはお休みしていましたが、またしても庚申塔拓本のご紹介です。今まで同様に、今回も拓本採りを趣味にしている方なら、絶対に「そんな拓本はタダでもいらない!・お金を払うと言っても採りたくもない」という代物です。しかし、私にとっては今のうちにそれを記録として写真ではなく拓本で残しておきたいと、敢えて挑戦しました。そして馬鹿らしいような時間を要して手拓しましたが、その出来栄えは採る前から分かっていましたのでガッカリもしません。むしろ、よくぞ後世に残す資料を増やしたと、自画自賛しています。それほど、この庚申塔は当地の庚申塔群の中でも最悪の状態です。高さは94.0㎝で横幅は52.0㎝。勿論、大人三人でもビクともしない重さです。それゆえに、本来なら立てて置きたいのだがどうしようもなく横倒しのままです。また見た目が非常に悪く、普通の庚申塔調査なら見逃してしまいそうな庚申塔です。しかもその状態はボロボロの有様で、一見しただけではとても庚申塔とは思えない状態です。
当然ながら、手拓前の、水張りをしただけで画仙紙はボロボロ、紙が水と馴染んできてから刷毛で丁寧に張り付けてもその表面の凹凸等の酷さに益々画仙紙はボロボロ。それでも我慢比べで墨入れの状態までに持っていきましたが、墨入れでまたしても画仙紙はボロボロ。勿論、一枚の画仙紙では水張りさえままならぬのが分かっていたので、上下二枚に分けて手拓しました。自宅へ帰ってきてから、またその修正やら補修に膨大な時間を費やす羽目になったのは言うまでもありません。10㎝四方位の小さな画仙紙で一か所ずつ細かく採拓するならもう少しましな拓本が取れただろうが、その根性なしの私にはこれが限度と諦めました。
今回は、8時半には本日最初の仕事としてこれを選んだが、終わってみれば2時間半ほど費やしたことになる。何ということだと自嘲しながら、その後は精力的に夢中で次から次へと手拓作業に入り、昼食時間も口にパンを加えたまま午後4時半まで続けて何とか今回予定していた13基を採り終えました。疲れで足と腰がいうことを聞かなくなり、フラフラしながら車まで到着し、そのまま面倒なので帰宅しました。それから二日経った今も、足と腰はシビレが来ています。今週中頃には、またしても庚申山へ入ろうと思っているのに!。帰宅してから、今回の成果を確認したら、何ということはない、2基も手拓忘れの庚申塔が出てきました。次回は、それを片付けてからの話です。次回も、大変な拓本採りが待っているというのに!嗚呼、嬉しさで?泣けてくる!!
下のカラー写真は、水をたっぷりと含ませてから採りましたのではっきりと「庚申」の文字は読めますが、奉納者二名の氏名は存在そのものまで確認が難しい状態です。下部は欠損のために指名全部は読めません。残念!
庚申塔が群れている、佐野市閑馬町の千躰庚申山山頂地区へ行く。今回も、何としても調査の最終確認が取れないため、何度この庚申塔の前に佇んだことかと自嘲する。読めない文字を読むために、これまで培ってきた様々な試行錯誤を重ねて今回もその前に立って早速始める。そして結局は、それが私には読めないことを証明するためだけにその文字箇所の拓本を採ること、今回で何度目だろうかと空しい思いである。結局は、読める文字はこれまで同様に数字が読めるだけで、全体としては全く分からないなさけなさ。そして結局は今回を最後として、読めないことを確認するための拓本を採るだけに終わった。そのためにも、その読めぬ個所の拓本は、後世に誰かが読むかもしれないとして本体の拓本と一緒に保存することにしよう。そんな事の繰り返しのため、最終報告書を纏める努力だけはしているつもりだが、その作業は少しも先へ進まないまま数か月が過ぎようとしている。まもなく、今年も5月に入る。嗚呼いったい、あと幾つ再確認が必要な庚申塔はあるのだろうかと、その未確定調査ノートを見れば、まだまだ優に50基はある。人は、軽く言う。そこまで、たかが庚申塔の調査に時間と情熱を傾ける必要があるのだろうか、と。しかし、これは私の性で、自分の納得できないままで調査を終えることはできない性なのである。誰が何と言おうと、これが私の調査方法なのである。少なくも、私の調査した報告書を見た後では、誰もこの千躰庚申山の庚申塔調査に挑戦しようと思う人は出てこないだろうと、自分で納得を持てるまで。又よしんば出てきても、私の調査以上に情熱を以て取り組める人は現れないと確信するまでは、その調査の手を緩めることはしない私である。
さてそんな次第で、今回の画像はその内の1基をご紹介する。ご覧のように全く普通の庚申塔で、常識的には「文字あるも不読」の一言で調査は終了しても異議の出ない庚申塔である。しかし、その正面向かって右側にかけて、文字(名前らしき)がある以上、私的にはそれを読みたかった。パソコン画面上なので、その箇所を拡大して掲載したが、まず以て読める人はいないだろうと変な自信を持っている。読めるのは「………右衛門」位なものだろう。ぜひ、私なら読めるという方は、現地で再確認してご教示頂きたいものである。読んでくださって、私が納得した場合は、「一字之師」として最大級の「師」として崇め申し上げます。
今回は、先週土曜日に拓本採りに行ってきた、相変わらずの千躰庚申山での手拓作業経過を簡単な写真を混ぜて掲載しました。それにしても、先週の朝は寒かった。予定では、8時前から拓本採りに取り掛かるつもりだったが、余りにもの寒さに水張りには寒すぎて朝日の当たるのを待つ羽目になる。その間、無為に過ごす私ではないので、下部が深く埋もれていて、昨年の調査時にも下部の掘り出し迄は出来なかった庚申塔を、手拓のために掘ることにした。兎に角、拓本を採るためには下部を掘り出す以外に方法はない。木の根や山石で地面はとにかく酷い。スコップで少し掘っては、移植スコップで少しずつ出てきた土や石を取り除く。また庚申塔に絡みついている木の根は、ノコギリで綺麗に取り除く。そんな苦労を1時間半もかけて掘り出しに成功したころは、全身汗びっしょりで、朝の寒さなどどこかへ行ってしまった。
そうして掘り出し、水洗いしてタオルで綺麗に拭き、続いて画仙紙を水張して墨を入れた画像が、次の二枚の写真である。そして最後に、自宅へ帰ってから手拓した庚申塔をパソコンに取り込んで最終的な拓本画像としたのが3枚目の写真です。
こんな調子で、以下に数基の庚申塔を掲載しました。御笑覧下さい。所在地は、庚申山山頂から鶉坂を下る北側052番目にある庚申塔です。なお、銘文内容などは、三枚目の拓本画像をご覧になればわかるだろうと、その詳細は掲載しませんでした。面倒くさいので、です(笑い)。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の043番目の庚申塔です。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の066番目の庚申塔です。右側下部が剥離しているので、拓本ではこの部分が採れないことになります。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の067番目の庚申塔です。この庚申塔に至っては、碑面に水張するだけでも大変です。その一つが、写真ではあまり分かりませんが、下部部分が手前にしゃくれているので、素直には画仙紙が張れません。また上部左側は、大きく下に落ちているので、この部分も画仙紙を張ってどうしても拓本を採る場合には、別紙の画仙紙で第二段階の作業となります。今回は、その必要もなかったので素直に採りましたので、その拓影は、ご覧のように実際の庚申塔の姿とは全く別物の庚申塔姿となってしまいました。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の068番目の庚申塔です。最後の締めとして、全ての庚申塔がこんな石に彫られていたら手拓する方としては楽で良いのですが、私的には途中でつまらなくなってしまうことになるでしょう。
次は、最初の調査時から下部が埋没していて掘るのも大変なのでそのまま「下部埋没」として処理していたものですが、今回はその詳細調査ということで拓本を採る必要があり、意を決して掘り出したものです。案の定、その下部の右側には奉納者の名字が「中山」と刻まれていました。本当に、「調査する」事の難しさを実感した一場面でした。
と、いう次第です。
いずれにしても今回は、全部で12基の庚申塔を手拓しました。今回は、最初に紹介した庚申塔以外にももう一基の深く埋もれていた庚申塔の掘り出しもしたので、午前中でたったの2基のみの手拓という有様。加えて体はクタクタ。それでも夕方5時近くまでロクな休憩も取らずに作業を進めたので自宅へ帰りつくなり体力の完全消耗で、電池の切れたラジオのようになり、今日で丸二日が過ぎようとしているのに未だに体力回復とは至っていない有様。嗚呼、やはり年ですね。
今回は、本来なら初回に記すべきだった内容から始めましょう。それは、拓本を採る前の最初の仕事です。私の場合は、拓本を採ると決めた石造物は、何をさておいても徹底的に水洗いして綺麗にします。大きな石碑などは、バケツに満たした水を碑面全体に何度も掛け、碑面全体を湿らせます。それからがまた大変で、次に石質を確認してから大体は亀の子タワシの一番大きな物で、碑面にこびりついているノロを拭き取りします。と、一言で言ってしまいますが、石碑が背の丈を超える3メートル以上にもなると、最後のころは全身びしょぬれです(笑)。勿論これも一通り碑面全体を吹き終わったら、またしてもバケツで何杯も水をかけて表面のノロがなくなるまでタワシでゴシゴシと磨き上げます。要は、その石碑を建立した当時の状態に近い石面状態にします。問題はまだまだあり、年代ものですと亀の子タワシでは何としても落ちない厄介な石苔への対応です。無理に取り除こうとすると、剥離が進んでいるものは剥がれ落ちてしまいますし、江戸後期から明治にかけて、特に石工の廣羣鶴が愛用して日本全国に普及させた根府川石は注意が必要です。既に石質として耐用年数がきてしまい酷い状態の石碑が多いからです。いずれにせよ、その除去方法には悩まされますが、石碑そのものを痛めてしまうような状態の場合はもう諦めるしかありません。インターネット等では、そうした石碑の拓本の採り方はまずもって紹介していませんし、そんな石碑の拓本画像もまず目にすることはありません。だからというわけではありませんが、わたしもそれに見習って、自分なりに行っている石苔除去の方法は示さないことにしましょう。その方法を紹介して、大切な石碑が無神経な人々によって痛められるのを恐れてです。
それに比して、自然石などの今回の庚申塔のような石仏関係は気が楽なものです。特に河原石などは、亀の子タワシでほとんどの場合は綺麗に水洗いできるからです。いずれにせよ、拓本を採る碑面に泥気の水分が含まれなくなるまで磨き上げれば良いわけですから。この場合の石苔等も、かなりシツコイ石苔もブラシ等を併用すれば綺麗に取れるわけです。極端な話し、便器の汚れを落として新品状態にすれば良いわけですから(例が悪い!笑)。ここへ2回続けて掲載した拓本採り前のカラー写真も、最初の調査時に撮影した写真なのでかなり汚れている写真ですが(手拓作業に入ると途中で写真を撮る気がなくなる)、そうやって磨き上げてから手拓しています。
さて今回は、普通の方なら絶対に拓本など採ろうと思わない、四角柱が横に二つに割れている庚申塔です。最初に目にしたときは、半欠けの上部一つだけがあっただけでした。もう片方は、必ずこの周辺にあるはずだと探してみると、何と殆どが土中に埋まっている状態で見つかりました。それを抱えてきて、まず土台となる下部を少し掘ってぐらつかないように設置してから、上部を渾身の力を込めて転がしてきて、何とか上部に乗せた状態の写真を掲載しました。この時点では、まだ拓本を採るための水洗いはしていません。そしていよいよ拓本を採ろうとし、初めて三面に文字が刻まれているのでその3面を水洗いしました。これって、意外と時間がかかり、「私は一体、何をしに今日は来たのだろう」と、苦笑するばかりです。そして手拓するために、折角努力して組み立てた姿を、元のようにばらばらに横倒しにして最初に上部を採り、次に下部を位置合わせしながら手拓しました、それを三度繰り返すわけですから、この庚申塔一基の拓本を採るだけで水洗いから完成までには3時間ほど掛かりました。(今回の写真は水洗いした後なので、綺麗でしょう!)そして再び、その庚申塔を組み立てることになり、今回も体力勝負でギックリ腰を持病とする私としては、それこそ大汗と泣きべそをかきながらなんとか元の姿に設置し終えたのは、既に昼食時間を過ぎてしました。
今回の拓本をご覧になって、「それほどまでして拓本が必要なのか」と思うでしょうが、それが私の調査、記録の残し方なのです。考えてみてください。この先、50年いや百年が経ったとしても、この庚申塔は今以上の元の姿にはなりえないのです。それどころか、この場所からなくなっている可能性の方が大きいのです。ましてや、この庚申塔を拓本に採ろうという輩が現れるとは到底考えられないのです。だからこそ、今の現状姿を記録として、また拓本として私が残さなければならないと考え、実行しているのが私のヤリ方なのです。「拓本を採る」ということは、本当に悩みが深いのです。今のほとんどの拓本を採る人は、如何に美しい拓本を採るかが第一で、「なんのために拓本を採るのか」という本来の目的思考がどこかで食い違っているのかと苦笑しつつ…。そしてそんな考えだから、毎週毎週当地の庚申塔手拓を重ねていながら一向に進まずにいて、明日の土曜日も朝の7時頃には現地について一基一基の庚申塔の水洗いから始まる拓本採りを、ウグイスだけが美声で励ましてくれるのを糧に山の中で嬉々として行っていることでしょう。いわゆる、「言必信行必果」の実践を目指して!。別の見方では、「馬鹿らしい!」。また、コロナ禍で街中には行けないからだろうと、冷やかされながら…。
ところで原寸サイズでう。サイズ;高66.0×幅27.0×奥行19.0㎝。
今回は、台座に乗っている四角柱本体と、その台座と左側面を一枚の画仙紙で手拓する方法のご紹介です。その良いところは、該当拓本を保存するのに1枚だけで済むので、ばらばらにならぬことです。
私の今回の場合、最初に本体の四角柱を手拓します。但し、余分な余白の多い画仙紙を水張するわけですから、その採択しない所の画仙紙の扱いに気を付けなければなりません。兎に角、余白部分を破らぬよう、また汚さぬように様々な方法で処理します。助手がいる場合は「おい、その余白部部分の画仙紙を持っていろ!」と言えますが、私のように一人で採択する者にとってはそこでひと工夫もふた工夫もして処理します。この時に、意外と便利なのが洗濯バサミです。クルクルと小さく丸めてはパチンと止められるからです。
そうして最初に碑表を撮り終えたら、今度は左側面の手拓となります。この場合、碑表を包むようにして左側の画仙紙を水張する方もいますが、私はその境を意識的に白く空けます。そうしないと、本体の碑表と左側面の境が無くなってしまい、後で困るからです。そうそう、この時の注意としては、必ずその前に手拓した(ここでは碑表)箇所がある程度乾くまで我慢して待ちます。そうしないで次の作業へ進むと必ずと言ってよいほど、最初に手拓した碑面が破けたりします。
最後に、台座の手拓へと進むのですが、これも乾かしてから触っても破けなるまで辛抱強く待ってからの作業です。そして二か所を墨入れした画仙紙を広げて、本体四角柱の台座に当てて採択する場所を確定します。この場合は、側面の場合と違って本体の最下部と接するように水張するのがコツです。見た目に、上部が台座に乗っているように見せるためです。勿論、どうやっても少しは本体との間が離れてしまうのは仕方がありません。ばらばらにして手拓するなら別ですが、これは体力が必要ですし、本体を傷つけやすいのでなるべくしないでください。
こうして拓本を採ったのが、ここへ掲載した手拓写真です。あとはこの画仙紙の余白に、調査した現地(場所)の住所。調査年月日、そして手拓者の名前を記入しておきます。これはなぜかというと、手拓した拓本は、一度整理してしまいこんでしまうと、自分では滅多に見ることはありません。なにしろ、後世への記録として残すわけですから、手拓者が亡くなってから長い年月が過ぎ、偶然にこうした拓本に興味のある者の目に留まった時に、殆どが初めて開かれるわけです。それを見た人が、その拓本がどこで何を採択した拓本なのかが分かるために記録するわけです。勿論、調査月日を記して置くのも、その拓本が何時採られたものなのか、また誰が手拓したものなのかの情報も、その年代を過ぎてからでは重要な記録となるからです。勿論、最終的な目的は、今回も「今現在の情報を、拓本としてごまかしのきかない方法で後世に残しておくためです。また、自分で調査した内容の確かさを担保するための資料としているのは、当然のことです。これを見せれば、その内容に異議を唱える人は誰も出てきません。
夫あらゆる分野での石造物調査過程で、長い年月を振り返ってみると「拓本を採らざるを得ない」場面に遭遇すること数えきれず。その第一が、石面に穿たれた文字が読めない物が多く、それを何とかして読んでみたいという理由が出発点である。それからいつしか、自分の身の丈も考えず「後世にどうしても残しておきたい石碑」調査に入り、何とか文字が読める状態である今のうちにそれらの拓本も欲しくなって現在に至っている。そして今は、昨年から始めた栃木県佐野市閑馬町の千躰庚申山の庚申塔調査に入り、今はその最終段階で主銘文の他に文字(主に奉納者や紀年銘等)がある全庚申塔の拓本採りに熱中している。それもこれも、最終的に調査を終えた庚申塔その校正の正しさを担保するための拓本採りです。そして思い返してみると、その一か所での拓本枚数も90基余となっているにも関わらず、その報告をこのブログでは殆ど掲載していなかった。
そこで思い返し、今回から暫くはその千躰庚申山に於ける庚申塔手拓(手拓=拓本をとること)の方法やその時々に思い浮かんだ拓本採りの楽しさや難しさ、そしてその実際の私なりの採拓方法や目的等を、画像を中心にしてご紹介してみようと思いました。
今回がその初回の01として、この先どこまで続くかは分かりませんが(多分、当地の庚申塔手拓が終了する5月中頃まででしょう)続けられたらと思っています。
さて、その第一回は、その手拓の目的は「現状姿の痛みが激しく、文字剥離も進んでいるので、現時点での状態をカラー写真をお見せしながら、その拓本を掲載しました。従って、拓本が上手い下手の領域ではなく「もしも百年2百年後の誰かさんが、当地のこの庚申塔を調査しようと思ったときに、その今時点での在り様が判る拓本を残すために手拓しました。
この庚申塔は、四角柱ですから本来はその台座があったはずですが、今はその周辺に台座らしきものは見つかりません。碑表には石苔が生え、表面剥離は全体に及んでいます。一年ごとにその状態は悪くなる歩数を今以上に早く進むことになるでしょう。そんな時、何時の世かに今回の手拓した拓本が出てきたら、その痛みの進捗状態が理解できる筈です。そしてそれを見つけた人は、必ずや大喜びすることでしょう。両側面、特に右側面は幅が欠け始めてとても細くなってしまいました。幸いにも、碑表よりも石面が綺麗なので剥がれなければ文字はけっこう長持ちするだろうと思いつつ、とにかく丁寧に手拓しました。なおそのサイズは、高さが50.0×幅24.5×奥行き12.0㎝です。手拓日;2021年3月27日。
前回に、この石碑の全景写真だけを掲載して暫く時間が経ってしまいました。一つには、他の地区の拓本採りが忙しかったことと、今回の銘文を清書していて途中でそれを止めてしまったからです。
しかし、今回の碑文を清書している途中で止めてしまうのは悔しいので、もう一度本気になって清書を纏めました。その結果が、下段へ最初に掲載した銘文です。これを清書するには、最終校正を含めて三日程掛かりました。そののろま振りをお笑いください。一般に使われる明朝体とは字形が些か異なり、また異体字を含めて実際の碑文文字形に最大限近い字形で記しましたので。
と、言いながら11行目の「明治廿九年」の箇所の「年」という文字の一筆目が抜けてしまいました。お笑いください。面倒なので、この画像では訂正しません。
宇都宮市集録碑の改訂版を作成すべく、暇があれば見落としの石碑は無いかと色々と情報探索。その結果、我が家から車で20分程の距離に個人顕彰碑があることに気付いた。その名は、明治時代に当地で大活躍した剣術家の「山口金三郎先生武徳碑」。本体の高さは298cmで幅が144cm。建立は大正十一年と新しいが、門人は千百余人と、碑陰に小さな文字で全員の名前が刻まれている。先週に挨拶かたがた調査させていただけるかお伺いすると、どうぞ何でもして結構ですよ。という嬉しい対応をしてくれる。そしてその翌々日に、余りにもの汚れが酷いので脚立を持って碑面の掃除だけに伺い、約2時間ばかりかけて碑表だけだが綺麗にしてくる。そして昨日、今日は曇りがちで風も少ないという天気予報に馬鹿にされて、拓本採りに伺う。先ずは最上段の篆額部分であるが、脚立の上に立っての両手作業は何回経験しても危険な作業である。その篆額部分だけで画仙紙全紙一枚が必要。横張りで水張りしたが、三脚を上り下りすること三回で何とか終えたが、今度はその墨入れとなると両手にタンポを持っての作業で、こちらは水張り以上に丁寧にしかも神経を使っての墨入れとなる。このころから、曇りどころか真っ青な天候となり、加えて風も出てくる。水張りした画仙紙は瞬く間に乾いてしまい墨を受け付けなくなってしまう。それをごまかしながら、何とか1時間半ほど掛けて採ることが出来た。出来上がり? もちろんいつものような綺麗な墨入れとはならなかったが、この日の天候と高所作業の手拓ということで許してもらおう。
2段目からはいよいよ銘文部分になるが、こちらも全紙を横張りして手拓することにしたが、始めた頃以上に太陽が照り、また風も強くなってきて、1枚目の水張は失敗。こうなるといつものいい加減な性格が表れて、とにかく銘文が読める程度で良いから手拓しようと、画仙紙にシワが出来ようと、横幅は三度の三脚移動を強いられるのでその度に墨入れの濃度が変わってしまうのを承知で、こちらも1時間半ほど掛かってしまう。その出来具合、もうやめたとクシャクシャに丸めて放り投げたいところだが、とにかく我慢する。この段階で、朝の9時には始まった拓本採りも既にお昼である。近くのコンビニに行き、立ったままでも食べられるようにとパン類を購入して戻るや、早速三枚目の全紙画仙紙を水張する。パンをかじりながらの作業も手早く終わして直ぐに墨入れ。何故なら最初に水張りしたところは既に完全に乾いている。そこで墨入れする場所だけを再度水張仕直ししながら左側から右側へと少しずつ進めていく。勿論、画仙紙にシワが入るなどは気にもしないで進めていく。そのためか、今度は1時間と少しで墨入れ終了。そんな作業を4枚目、5枚目と、気づけば今日は昼飯を買いに出かけた以外は全く休みを取っていない。既に4枚目位から足と腰はフラフラ、相変わらずの頑張り屋だが、これでは体が持たないと思い返してコーヒー缶を飲みながら食べ残しのパンをかじって休憩を取る。そして何とか全ての銘文が手拓終えたのは午後の4時を少し過ぎていた。それにしても、一日で、全紙画仙紙5枚の拓本を続けて手拓するのは本当に暫くぶりである。そして終えるや、手際よく周辺を来た時以上に綺麗に掃除し、ゴミも残らず撤収して帰宅に向かったのは既に4時半を過ぎていた。所で、全紙で採拓した拓本は、私のパソコンスキャナでは対応のしようがない。今回は、残念だがいつものような拓本からの画像化は諦めて、全部が張り終えたらその写真を撮って対応しようと考えたが、考えてみれば、高さが3メートルもあるような拓本全景を吊り下げるような場所は、我が家にはない。これでは八方塞がり。やはり、いつものように半切の画仙紙を使って採拓すれば良かったと悔やんだが後の祭りである。
そして、いつかは碑陰にある千百人に登る交名も私としては興味があり、手拓が欲しくなる。これも困った性格である。勿論、朝から夕方まで手拓作業を続けたとて恐らく三日は必要だと思う。その価値があるのか、疑わしいが!。それと、校正をしないままアップロードしました。明日にでも再度の校正をいたします。
約1年間に掛けて、このブログに掲載してきました庚申山の調査は終了し、正月にその報告書も作成してしまったのですが、相変わらず執念深い山口氏の熱意に促されて正月明けに2度、そして2月に入って2度の再確認と再調査を行った結果、1月に4基、2月にも5基もの新しい庚申塔を土中から見つけ出しました。その9基の内の7基の庚申塔は山口氏が一人で発掘したものです。只々、感謝する言葉しか見つかりません。ありがたいことです。といいつつも、これではもう一度、最新の調査報告書を作り直さなければならない羽目になりました。そして昨日、二人でこれ以上の庚申山調査は、今度こそ最終にすることにしました。私は、まだまだ当地の庚申塔で拓本に採っておきたいのが沢山あるので、これからも機会を見つけては通い続けて1基でも多くの手拓をしようと思っていますので、或いはまた新しい庚申塔が土中から見つかるかもしれません。それを恐れて、出来る限り庚申塔の探索には目をつぶって手拓に熱中しようと決めています(笑)
下に掲載した庚申塔5基は、鶉坂地区で新たに見つけられたものを並べて写真に撮ったものです。
昨年末、30日に手拓してきました千躰庚申山の親塔を暇に飽かしてご紹介します。この庚申塔が、当山の庚申親塔となるものです。その説明は、文章中に記して置きましたので京見のある方はご笑読下さい。昨年一年間を費やした庚申塔群の調査も報告書も出来上がり、今は一安堵している所で、高橋氏がせっせと拓本に採りましたものを広げては、その所在場所を確認している最中なのですが、気が緩んでいるのと数の多さに加えて、写真と拓本では微妙に異なるところがあり、その確定に四苦八苦している所です。それらの拓本は、全て山口氏が管理することになっているので、所在場所が分からぬものはそのまま山口氏に渡して、後は彼の仕事としましょう(笑)。
昨年2月から始めた、栃木県佐野市閑馬地区に所在する「千躰庚申山」庚申塔群の調査報告書私家本が、「正」「続」の二部として印刷が終了しました。既に、当ブログでご紹介していますように全山で935基の庚申塔を、1基残らず写真に撮りそれを全て掲載したものを「正」とし、そしてその記録をデータベース化したものを中心に「続」としたB5版で、表紙のみカラーですがあとは全てモノクロ印刷の2部です。「正」は141頁、「続」は149頁で、そのペイジ内容だけですが、ここに掲載しました。表紙画像とともに御笑覧下さいましたら幸です。
もう少し、内容が知りたい方はブログに書き込みを下さい。内容によっては、追加掲載いたしますので…。例えば、庚申塔の画像数頁とか、現地への案内地図とか。
今年の正月は、相変わらずおとなしくしていられず元日からパソコンに向かって、今日でまる3日。昨年暮れに、くだんの庚申山へ行きまして、この地の庚申塔親塔や山頂の大きいのを手拓してきました。現地を離れるまで、晴れていても全くの無風状態。おかげで、26日に高橋氏の手を借りてまでその親塔の拓本をものにしようと頑張ったが、結局は風が強すぎて断念したものが、今回はテープで押さえることもせずともルンルン気分で採拓出来ました。これで、本当の意味での庚申山調査は終了することが出来ました。今後は、暇なときにぶらりと立ち寄るだけの今までの調査としてから気分晴らしの遊び気分で訪れる庚申山となりました。
そんな昨年最後の庚申山山頂直下の写真を、下に掲載しました。ぜひ、庚申塔に興味のあります方は春になりましたらぜひお出かけください。全山で935基の庚申塔が延々と続いている日本広しといえどもここでしか見られません景観ですので…
さて、元旦からその調査報告書の印刷作業に入りましたが、「正」本だけで両面142頁。しかもその殆どが、庚申山全935基の画像を印刷しながらの最終校正のため、時間ばかりかかってしまい、ようやく今日その作業が自分の一冊分だけが終わりました。所で、ここで思わぬハプニング!なんと、印刷作業専用に使用していたXPが、突然にダウン。電源が全く通じなくなったので、多分電気系統の故障でしょう。そのパソコンは、データの保存場所ともして使用していたので、電源が直らなければそれこそ一大事です。たとえば、特に私の石造物用HPの1ギガバイトを超えるデータが入っているのです。一応、別データは保存してあるのですが、ついつい細かな修正はそのデータで行い保存していたので、困ったことになってしまいそうです。
さて、この次は、同報告書の「続」篇を印刷しなければならないのですが、こちらもページ数的には全庚申塔のデータ等を含んでいますので「正」篇を超えるページ数になっています。こちらの印刷はPDF原稿もあるのでwin10の方で印刷するので心配はいらないのですが、その基礎的資料もXPの方に入っているので、文章などは作り直さなければならないかと思うと気が重く、しばらく放っておこうと思っています。そして明日からは、昨年一年間に溜めに溜めた部屋中に置いて(散らばっている)あるその他の調査書類やら拓本等の整理に追われることになるでしょう。嗚呼、今年もどうやら新年早々何やかにやと忙しい生活になりそうです。
前回12月13日の高橋氏との庚申山の帰りに、次回は休んで、年末に忘年会というか慰労会を兼ねて集まろうとしていたのですが、11月後半から12月にかけて、山口氏が参加できなかったので、20日には是非とも行きたいということになり、またしても庚申山の鶉坂の方へ行きました。それには、私も少し訳アリで、13日で今回の庚申山調査は終わりにするつもりだったのですが、今までの調査したファイルを眺めていて、どうしても再調査したくなった庚申塔が出てきたのです。それは、表口から登った山頂直下の西側にある、深く埋もれていて掘る努力さえ萎えるような庚申塔なのだが、どうしてもそれを掘って紀年銘の有無を確認したくなったのです。そして早速に、本日の最初の調査として掘ることにしたのですが、何とも厄介な代物で、山口氏があれこれと奮闘努力した結果、何とか掘り出すことに成功。そして裏面を見てみると、そこには碑面一杯に大きな文字で「万延元庚申祀十一月日立」「石井龍太郎」とありました。勿論、旧田沼町史でも見逃している庚申塔銘文でした。やはり、気になる庚申塔は最後まで調査の努力を怠ってはならない見本のようなありさまで、今日はこれ1基だけで満足でしたが、山口氏が、さらに頂上にはもう一度精査したい庚申塔があるというので行き、やはりそこでも庚申塔の側面に見逃しの銘文を見つけたり、拓本を採っていながら文字の存在に気付かなかった庚申塔ありと嬉しい悲鳴を上げました。そんな中で、今回はその掘り出した庚申塔をご紹介いたします。掘り出す前の頭だけが前に傾いでいる姿からは想像もできない姿です。ちなみにサイズは高さが87.0、幅が48.0㎝もありました。その後は、鶉坂参道の銘文再確認やら、庚申塔周辺の伸びた竹などを刈って、午後2時半に今年最後の庚申山調査を終えて岐路に着きました。
ここのところ、佐野市閑馬の千躰庚申山に於ける庚申塔群の最終段階調査で忙しく、全くブログまでに手が回らずにいました。しかしそれも、いよいよ明日で終了する予定です。本当は、今週の庚申山通いは休みにするつもりだったのですが、山口氏の強い要望もあり、また私的にもどうしても最終的に確認したい庚申塔銘文が2基出てきたので、それを確認するために行くことにしました。その中の1基は、四角柱で地面に1メートルほど埋没していて、しかも前に大きく傾いている庚申塔です。今から、どうやってそれを掘り出そうかと思案中です。勿論、一人ではビクともしない大きさなので、十分に注意しながら、くれぐれも自分の身の方へ倒れてこないことを願いつつです。
さて、そんな庚申山の最終的な確認数ですが、それは全域で何と、935基という数です。一か所に935基ですよ!。しかもその三分の一以上は、地中に埋もれていたのを地面を探索しながら1基づつ掘り起こしたものです。我らながら、よくも飽きずに2月から今日まで毎週一度の調査とはいえ、飽きずに続けられたものと感心しています。
今回は、そんな中での私好みの自然石庚申塔を1基だけですがご紹介しましょう。本当は、拓本が欲しいのですが、どう画仙紙を張り付ければ良くとれるか思案中の庚申塔です。それにしても、ユニークな自然石を探してきたものと感心しきりです。建立は天保10年です。
今年2月以来、原則毎週土曜日に通い続けている佐野市閑馬の千躰庚申山、まだまだ最終確認が終わらずにいます。この前の週、11月15日に秋の庚申山風景を撮ろうと思っていたのですが、ついつい忘れてしまい前週の土曜日になって撮影したのですが、やはり一週間遅れの光景では綺麗な紅葉は既に終わっていました(笑)。それでも悔しいので、朝の8時に着いたので他のメンバーが揃う前にと撮影しました。御笑覧下さい。
最初は、南側から撮影した庚申山表口入り口を含めた庚申山の全体写真です。
二枚目は、この表口からの庚申山入り口に建つ、当山の庚申親塔ともいうべき写真を前面にして、その奥へと続く庚申塔風景です。
3枚目は、その親塔の後ろから山頂へ向かって延々と続く庚申塔群の始まり風景です。ここから山頂までに並ぶ庚申塔の数は430基余。只今はそれらの記録に間違いがないか、或いはまだまだ地中に埋もれている庚申塔はもう無いかという確認作業中です。
4枚目は、この庚申山山頂に集まっている庚申塔群の一部です。さすがにこの季節なので、少し寒々しい風景です。
4枚目は、山頂から西へ下った鶉口参道途中にある庚申塔風景です。この写真の右側に見える参道が山頂へ続いている道で、当然ながらこの両側にも庚申塔が並んでいますが、凄いのはここからの参道を西へ向かう参道沿いに並ぶ庚申塔です。まさに呆れるほどの庚申塔が立ち並んでいます。
最後の5枚目は、山頂から西へ行く鶉口途中の庚申塔が立ち並ぶ風景です。右上に続くのが山頂へ続く参詣道です。ここにも嫌になるほどの庚申塔が参道両側に並んでいます。それらこの庚申山で今までに確認された庚申塔の総数は933基です。こんな小さな山の中に千基に近い庚申塔が立ち並ぶ光景など、日本全国どこを探しても無い、正に日本一の庚申塔群です。これをご覧の皆様の中で、庚申塔に興味がある方は是非一度お訪ねください。真面目に見ると、当然一日では足りなくなります。(笑)