今回は、今年初めての風もない暖かい一日でした。そこで、「今日は手拓日ダ!」と決めて、中島靖の石碑を訪ねて手拓することにして、まずは2006年に確認していた栃木市宮田町の星宮神社へ向かう。ここには、上記に掲載した「征露軍馬之碑」と大書きされた碑がある。銘文はないので、碑表だけの手拓につきルンルン気分で瞬く間に終了。さて、その次が問題。埼玉県久喜市の方から送られてきた写真はあるのだが、その撮影場所が送ってきてくれた方も不明とのこと。そこでその写真を眺めていて、目的とする石碑の後ろに「大平町東地区‥」とだけ読める新しい紀念碑があるのに気づき、その大平町東地区へ行き、あちこちの神社や、農家の方に聞き歩くが、どこへ行ってもその写真と合致する場所は判らないという。そんな探索を1時間余り繰り返したが、折角の手拓日和がもったいないことに気づいて今回の所在地探しは諦める。そして、折角牛来寺近くまで来たので、その境内にも手拓していない石碑があるのを思い出し、その手拓へと目的を変更する。そして御挨拶に伺って話をしていると、境内墓地に昔の人の墓碑に門弟中とあるのを案内してもらう。なんとそれは、江戸中期に当地で活躍した剣術の先生の碑文で、4面全てに銘文がありしかも完全に読めるものであった。調査、そして出来れば拓本のお願いを申し出れば二つ返事で快諾してくれる。嬉しくなってしまったが、それでも最初の目的である日清戦争に関わる「軍馬碑」から手拓することにした。半切2枚の大きさなので、これも問題なく手拓は12時少し過ぎに終了。駐車場で昼食と休憩を取ってから、その剣術先生の碑に向かう。しっかりした石質のために、これも4面にありながら順調に手拓は進んで2時半に終了。お礼の御挨拶に庫裏へ伺えば、住職さんが、先ほどその碑の子孫の方が偶然訪れてきたので、手拓の話をして了解を得ておきました。と、またまた御丁寧な御配慮に感謝するばかりであった。
次は今日の朝からの手拓予定であった、宇都宮への帰路途中にある都賀町の碑、これも綽軒・シャッケン・中島靖の撰文&揮毫による軍馬碑であるが、既に時間は午後3時。これから手拓するには、その碑面掃除から始めると暗くなってしまうことを考え、また既に銘文等は調査済みなので次回の機会に譲ることにする。
それにしても悔しいのは、写真がありながらその碑の所在場所が今回も探し出せなかったこと。今度は、どんな手でその碑を探し出すかを思案しながら帰宅する。
なお、「綽軒・中島靖」とは、久喜市で有名な観学者であり亀田鵬斎の書流を継承した中島撫山の長男で、訳けあって当地へ来て家塾を開き、当地周辺で最も尊敬された漢学者であり、この門で学ばなければ人であらずとまで言われた人である。
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これは、年末30日に碑の写真と手拓画像を掲載した残りの銘文内容です。ただ、以前にもこのブログで述べたように、私は漢文はその素養さえありませんので、読み下しには全く自信がありませんが、参考になればと銘文と共に掲載しました。
そもそも、いわゆる「不顧無学」の業であり、この碑文の正しい読み下しが出来るのは、これを撰文した粟津清秀氏しか出来ませんので、苦笑しながらの掲載です。それが、「述而不作」というものであり、漢文はそれを撰文した者にしか正確な「言いたかった事」は判りません。それだけに、今回の私のように安易にそれを読んで掲載することは恥を高言しているだけなのです。なにしろ、その読み下す人の度量によって、内容はそれぞれに違ってくるのが当たり前ですから。従って、間違っているからといって、叱らないで下さい。「この程度の能力か」と、失笑ください。
それでもここへ掲載したのは、昨年2014年の栃木県内石造物巡りで得た資料が、今日を以て全て清書まで完了した嬉しさのあまりです。そしてこれで、明日からはまた新しい石造物巡りで得たものを整理していきましょう。それでも年々体力と気力が失われてきて、2015年の碑調査は60基位出来れば100点満点としたいと消極的です。当然ながら明日も休みですが、どこへも出かけずに室内の昨年度調査資料の片付けをして日を過ごそうと思っています。それにしても、嗚呼早く暖かくならないかな~。
実は、この碑の存在を知ったのは、今から20年ほど前のことで、その頃は写真の背景に少しだけ写っている近世宝篋印塔調査といわゆる石仏調査の折にここを訪ねた時でした。それ以来、これはいつかは拓本を取りたいものだと思いつつ今日まで延び延びになっていた。何しろ鵬斎の撰文と揮毫とあらば、本気になって手拓しなければならずついつい近くを通っても、またここへ来ても、手拓する機会を逃していました。そこで今回は、今年最初の石造物調査ということもあって、また家内の「今日は風も穏やかそうだから、自宅からはそれほど遠く感じない南河内町へでもいったら」という進めもあって、私もその気になってやってきた。
現地には、9時少し過ぎに到着。確かに風もなく穏やかに晴れている。そこでまずは例の嫌らしい石苔を金属ブラシを使って手拓範囲の文字を綺麗にする。これだけで、ケッコウ汗をかいてしまった。真冬だと言うのに!
ついで、陽の当たっている東側碑陰の石面から手拓することにした。掃除したてだけに、また風もなくルンルン気分で碑陰の手拓は完了。続いて左側面の手拓。これも陽が当たっているので、同様にルンルン気分で終了。ここまでは良かったのだが、北面の右側に画仙紙を水張りしだした頃から、西風がメッポウに強く吹き出してくる。一度目は、水張りを終えて墨入れしようと思った瞬間に、風に煽られて全てが剥がれてしまう。嗚呼、なんと言うことだ。ということで、今度は念には念を入れて、最初から左右上下をマスキングテープで風の入り込む隙間を防いでから作業する。そして順調に途中まで墨入れをしていたら、油断した瞬間にほんの小さな隙間から風が入り込んでしまい、またもややり直し。そこで再々度、今度は幅の広いマスキングテープを取り出して頑丈に目張りして作業。それが功を奏し、何とか手拓を終えたが、大きなヨレを数箇所に入れてしまう。本来なら、もう一度手拓をやり直したいが、風は益々強くなっているので、まあ酷い仕上げの拓本だが、今回はこれで我慢しよう!。最後は、碑表の「黄梅寺第四世光雲和尚壽蔵碑」銘の手拓。これは大きな文字で1行だけだったので、それほど手を焼かずに手拓できた。そうこうして、手拓道具を片付けたり周囲をきれいにして写真を取り終えたら、午後の1時になっていた。半切画仙紙で6枚の手拓。今日は、予定ではもう1基調査したかったが、何しろ風が強いので潔くここで終了とする。広場でのんびり食事と休憩。帰り際にもう一度見てみると、西向きになっている碑表が太陽を浴びている。日陰の碑表写真より、何倍も良く写真に撮れるので、また車を降りて撮影してから帰路に着く。そうそう、忘れたが紀年銘は、「文化十四年丁丑秋七月、とあり、本体のサイズは高138.0×幅(碑表面)52.5cmです。
そんな、今年初めての石造物巡りだったが、念願の碑が拓本を取れたので満足としよう。私にとって、亀田鵬斎の手拓は栃木県で初めてなのだから。
当地は、誠に穏やかな元日です。皆様にとりまして、今年一年も御健勝に御活躍のことを祈念しております。
さて当方は元日早々、昨年に調査しながら銘辞清書の終わっていない石碑が5基ありまして、その清書に勤しんでいます。正月からパソコンと向かい合って文字のケツを追いかけているなんて、何とも情けない話なのですが、これも例年通りと苦笑しています。それでも気持ちだけは、この正月中に何とか未処理5基の清書を終わらせたいと願っているのですが、まあ無理でしょうから根を詰めてせめてもの3基位は終わらせたいものです。
さて、そして今年の取りあえずの目標第一は、何年もダラダラと続けている栃木県旧田沼町の石碑調査を夏までには終わらせようと思っている。しかし、浮気心の旺盛な小生のこと、冬場は熊が出ないので春以降は調査が出来そうも無い栃木県北部の山地にある碑塔を訪ねたりしなければならず、そう旨くは田沼町の調査は進まないだろうと今から危惧しています。また、栃木県南部には、もう何年も前から再調査(手拓を含めて)しなければならない石碑も頭の中を駆け巡っていて、本当に困ったものです。それとそれと、石碑に覆いかぶさっている樹木が、この季節には葉を落としているので、それらもぜひ訪ねたいと、次から次へと、嗚呼あれも調査したいと、嬉しい悲鳴を挙げながら、結局は栃木県内各地を新年早々訪ね歩くことになりそうです。
いずれにしましても、今年一年も石碑を訪ねる旅を繰り返してあっと言う間に過ぎてしまうのでしょう、多分。