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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

5月26日の壬生町・日光の庚申塔調査

2007年05月26日 | Weblog
 今日26日土曜日は、春日部市在住の中山氏と一緒に東武日光線新栃木駅で8時半に落ち合い、江戸前期造立の庚申塔調査に行きました。
まず最初に、あきる野市在住の多田氏が先月の藤岡町石仏巡りの折りに教えてくれた壬生町福和田の惣の宮神社に新たに加わった寛文塔を見に行きました。以前は散らかっていた碑塔類が整然と並べられていて、その中に新たに加わった寛文塔です。上部欠損ながら、寛文塔とは嬉しい限りで、早速二人で調査しました。また、以前にはなかった碑塔類も加わっていて、嬉しい限りでした。
 その後、日光へと場所を移して宝殿の延宝八年塔を案内してから、所野の清滝神社の寛文塔へと進みました。今日の目的は以上で終わり。これで、中山リストにある栃木県の江戸前期庚申塔は全て実見したことになりました。そして今日は時間があるからと言うことで、拓本を取ることにする。というのも、その為に昨年秋に来たときに綺麗に掃除しておいたからである。
 既に時計は十二時を過ぎていたが、昼食を取るに相応しい東照宮裏の白糸の瀧へ行く。ここで、たっぷりの時間を取って栃木県江戸前期庚申塔全て実見の完了を祝う。帰路には、途中で幾つかの庚申塔を訪ねたりして、新鹿沼駅へと向かうが、電車時刻表を見てみると一時間近く余裕があるので、小来川(オコロガワ)から鹿沼市板荷(イタガ)へと遠回りして日吉神社に行く。その日吉神社境内にある、燈篭型日光型庚申塔を案内する。正徳年間ながら「奉庚申待赤面金剛」と主銘文があるので案内したが、私の予想以上に喜んでくれた。そして話題になったのは、栃木の庚申塔を見て歩いている多田氏のこと。多田氏だから、当然見ている筈だという私に対して、中山氏は私が初めて見る庚申塔なのだから、多田さんもまだ見ていないだろうと言う。そこで、念のために私も急いで写真を撮ったので、後日にHPの方へ掲載する事にした。
 午後4時半過ぎの電車に乗るべく、20分ほど余裕を持って新鹿沼駅に到着。これまでのように、中山氏と一緒に石仏巡りを行うには、新しい江戸前期までの庚申塔を探すこと、とお互いに約束して別かれ帰路に就く。
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5月20日は栃木県鹿沼市の石仏巡り

2007年05月20日 | Weblog
 昨日19日は、前々から畑仕事を予定していたので朝から午後2時半まで、石仏巡り以上に疲れるノラ仕事をしました。ナス、トマト、キュウリ、ピーマン、シシトウ、そしてイモも植えたので、これで秋までは食料を買わなくて済みそうです。スイカ、カボチャは、流石に疲れたのと、にわか雨が突然強く降ってきたので植えずしまいになってしまったが、明日にでも早朝の散歩を止めて植えようと思っている。

さて、そうして今日の日曜日、今日は近くの鹿沼市へ出かけましたので朝8時から石仏調査に入りました。収穫?、もちろん沢山ありましたが、同時に文字が読めずに困った文字塔が1基発生してしまいました。それと、単制石幢六地蔵塔を1基ゲット出来ました。これだけでも、今日の石仏巡りの収穫としてはバンバンザイです。そして11時からは、碑塔群に迷い込んでしまい、なんと同じ場所に3時間半も留まる事になりました。その内の1時間くらいは、愚かなことに、碑塔にこびりついた苔落としに終始してしまいました。そして拓本取りに1時間。その成果で、宝永二年銘の日光型梵字庚申塔を精査することが出来ました。また、天明年間の馬頭観音像を始めとして、今日は50数基を調べることが出来ました。それが終わってから、鹿沼市草久・塩沢地区にある庚申塔を探しに行きましたが、の老人達を訪ねても誰もその存在さえ知らず、とうとう見つからないまま帰ってきました。クヤシイ!ので、次の機会にもう一度探しに行こうと思っています。
 今回の石仏巡り画像、HPへの掲載は少し遅れそうです。昨夜、寝違えて首が回らなくなり、今日は一日中鈍痛です。夜は、今日の調査書の整理も余りせずに早々と寝てしまおう思っています。
 嗚呼、それにしても石塔を調べてきてはその清書書きに追われる夜。時にはノンビリしたい夜を持ちたいものです。
 来週は、春日部市の中山氏の都合によっては日光方面の庚申塔調査に一緒に行く予定です。但し、天気が心配です。今年は、5月の天候異変で何かがおかしい天候になっています。
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5月12日の石仏巡り、書き直しました

2007年05月16日 | Weblog
さあ、これでどうだッと言わんばかりに、最終的な5月12日の石仏巡り記として書き換えました。小難しい石仏巡り記より、私個人としては、このような内容の方が好きなので、ついつい長く書いてしまいました。ブログとしては文字だけにしましたが、仕上げとしては途中途中に該当碑塔写真を挿入して完成です。
※これで、今月の石佛月報の原稿は半分が仕上がりです。今週末は、暫くぶりに鹿沼市の奥に入ろうと思っています。雨が降らなければの話しですが…。
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5月12日の那須方面石仏巡り

2007年05月14日 | Weblog
「栃木県北東部の馬頭観音様巡り」
     実施日 2007年5月12日(土)
     参加者 犬飼康裕 加地 勝 五島公太郎 瀧澤龍雄

 舟形光背石に陽刻された馬頭観音様の姿に魅せられ、ただニコニコと見つめている今回の参加者三名の顔を見ているだけで、案内役の私はもうそれだけで充分な役目を終えた気分であった。思えば、今日こうして皆さんと一緒の那須の地の馬頭さん巡りが出来るのは、去る4月21日に行った栃木県藤岡町の「多摩石仏の会」様との合同石仏巡りにて、加地氏が「那須の馬頭さんを見たい」という言葉にあった。それは加地氏にとって幸運にも、毎年春と秋には必ず行っている私の那須の地の馬頭さん巡りにおける時期と近かったことに加え、ここ数年は必ず同行していた東京の橋口氏が体調不良のため、今年の春は遠慮するという連絡が入ったばかりだった。そしてたちどころに、5月連休明けならいつでも良いよということになり、今回の5月12日土曜日に決定した。そして同行者は、多摩石仏の会の犬飼康裕氏と五島公太郎氏も加わって、JR宇都宮駅に9時半集合となった。

 そして当日、宇都宮駅改札口で時間通りに合流してから、加地氏が駅弁を私の分をも含めて一個千円也の高価で見た目にも栄養満点な弁当を購入し、五月晴れの上天気の中を気分爽快に出発。
 その第一の目的地は、今回の「那須の地の馬頭さん巡り」という言葉とは裏腹に、栃木県さくら市(旧氏家町)押上地区にある水神社の「七夜待本尊像容塔」であり、同所の「幸神庚申碣」とある自然石文字塔である。というのも、今回参加者の最遠方は東京の西部にあたる八王子市から来られた犬飼氏であり、また日野市からであるので、滅多なことでは当県の石仏巡りには来られない方々ばかりなので、その宇都宮から那須への通り道途中にある、栃木県を代表する碑塔も案内したかったからである。といいつつ、私自身もここを訪れるのは10年以上も暫くのことであったからこんな機会でもないと見に行けぬと組み入れただけに他ならないのだが…。そのため、ついつい途中で道を間違えて遠回りしてしまったが、皆さんにとっては最初の石仏が予想を超えた像容塔だったようで、私が思っていた以上に喜んでくれる。特に、「幸神庚申碣」碑の紀年銘に「干時」ならぬ「干茲」と、「時」の替わりに「茲」の文字を当てているのは滅多に見られないと興奮している。また、七夜待塔にしても、これほどまでに素晴らしいのも、これまた滅多に見られないと言う。私としては、東京方面にはそれ以上に素晴らしい七夜待像容塔が幾つもあって当然で、見慣れているはずだからもう一つの「幸神庚申碣」の方が「幸神」の文字の上に「庚申」文字が二重になっている珍しさの方で喜ばれるだろうと思っていたから、以外にもその七夜待像容塔の認識を新たにした次第である。ここで、銘文の面白さを手拓したり認めに早くも多くの時間を取ってしまった。これから先、今日の一応の予定は立ててみたものの、到底一日では見られない欲張ったコースが待っているので、水先案内者としては時間経過の早さに不安がよぎるが、まずはあわてないことにしてこれも通過地点にある矢板市田野原地区にある松尾神社へ立ち寄る。ここで、隷書体の大きな自然石「勝善神」文字塔を見学。見学ついでに、今回の何となくのんびりした石仏巡りの雰囲気に飲み込まれて同所の他の碑塔類も加地氏と五島氏の漫才掛け合いを含めて見て歩き、益々時間を浪費する。
 那須の地の馬頭観音様まではまだまだ遠いが、これもコースに組み込んでいた一つなので、箒川を渡って那須塩原市(旧塩原町)宇都野地区の馬頭観音堂へと、嶽山箒根神社の大きな碑塔石が出迎えているのを見て、更に車を進める。

 何列にも並んだ馬頭観音碑塔群に皆さん呆れながら、まずはその傍らに立つ剣人型六臂青面金剛像を見る。特に、足下に踏まれている鬼さんの像容が私好みなので、皆さんに見てもらうとなるほど面白いと納得してくれる。そして多摩石仏の会での栃木県庚申塔といえば多田氏のこととなり、流石の多田氏もまだこの青面金剛像は見ていないだろうと、半分以上は出し抜いた気分になって喜んでいる。ようやくそれから、加地氏待望となる今回初めての馬頭観音様調査となる。その馬頭観音群のなかに、私も今回初めて気づいた「経」という文字がある馬頭観音像容塔を写真に撮る。いずれにせよ全ては記録も写真も撮りようもない、念佛塔を加えて優に50基を超える馬頭観音群の中からそれぞれがお気に入りの姿を写真に撮り記録にとっていると、早くも中に響き渡る昼12時を知らせるサイレンがなる。それを合図に、まだ三ヶ所目だというのに今回の昼食場所としていた玉養寺へ向かう。この玉養寺は、無住ながら地元の方たちによって管理されているので、いつ来ても清掃が行き届いていて気持ちが良い。その本堂階段に並んで、私にとっては滅多に石仏巡りでは食べられない豪華な弁当を広げることとなったが、その前に境内にある、通称「春風観音様」と私が名付けた日記念佛塔の如意輪観音像などの碑塔を案内すると、早速写真撮影やら記録記入で食事はお預けとなる。ここで、もう一つの首が取れた六体六地蔵の「日記念佛塔」を紹介。

 ウグイスのバックコーラスで美味しい食事を取りながら、今日初めてののんびりタイム。いずれにせよ、今日は全くのプライベートな石仏巡りなので、いつものような「見せること優先」的な行動でなく、じっくり見て歩いて先を急がないことにする。そんな折り、突然けたましく鳴り響くサイレンの音に、のお寺に不審者4名が入り込んでいると、警告を発しているのかも知れないと冗談を言っていると、その後のアナウンスで内に昼火事が起きたことを知らせてくれて、ホッと一安心。

 そして食事も終わり、充分に休憩を取ったからにはいよいよこれからが、加地氏お待ちかねの那須地区馬頭観音さん巡りに入ることとなる。
 が、途中で嶽山箒根神社前に並ぶ碑塔群に捕まり、ここでも時間浪費。また那須への塩原街道を走っていて突然、私の予定には入れてなかった金沢地区の上集会所に並ぶ碑塔を見せたくなって急ブレーキを踏んでまで止まって、無理矢理バックして案内する。というのも、そこには東京方面では数少ない「日記念佛塔」が三基並んで建立されているので、せっかく東京方面から来ているのに、当地の「日記念佛」の素晴らしい文字塔を案内しなければ申し訳ない気がしたからである。ここでも、皆様精力的に調査をする姿を背後で見ていて一人、感嘆ばかりしている。

 そんなこんなで、那須塩原市(旧黒磯市)鴫内地区の馬頭観音群へ辿り着いたのは午後もとうの昔に過ぎていた。その場所は、行った人のみぞ知り得る農道にも似た地方道から更にはずれた道沿い草むらに隠れている馬頭観音群である。私の指さす、その馬頭さんの表情の良さに加地氏のみならず犬飼氏も大喜びである。早速、下部が地面に埋まっている好みの馬頭さんを抱きかかえ、自分の好きな背景景色の場所に据えての撮影会となる。そんな芸当は、当地のような田舎だからこそ出来る暢気な石仏巡りに、これまで以上に加地氏の顔には満面の笑みが溢れている。その後も、次々に草むらから出てくる馬頭観音様の姿に写真撮影だけでも忙しく、明日は腰痛で寝込むような荒技を繰り返している。また、犬飼氏は同地にある「十九夜塔」の主尊である如意輪観音様の化仏に宝馬が付いているのを発見して大喜び。いずれにせよ全部は見切れないので、適当なところで涙を飲んで次へと車は進む。

 今度は、更に鴫内からの人々が使う道を通って百村地区へ抜ける。その百村南端の三叉路角地に、細長い舟形光背石に刻まれた取って置きの馬頭観音様。碑塔は東向きに建立されているため、写真撮影には条件が悪いがそれでも滅多に見られない馬頭観音様の姿に感激している。と同時に、隣にある十九夜・如意輪様の化仏が今度は地蔵様になっているのを説明すると、これも珍しいと写真撮影に皆さんが夢中になる。その他、「廻國宿千人供養塔」なる四角柱文字塔銘文にも興味を持たれたようだ。

 いずれにしても、これはヤバイ!。この時点で、今回巡る予定の半分も消化していないのに時計は早くも三時。このままでは到底全部を巡れないということで、当初の私の予定では入れていた百村神社へは、残念ながら次回へのチャンスとして省略する。何しろ、加地氏希望の馬頭観音巡りはまだ端緒についたばかり。本番はこれからなので、取りあえずここで那須塩原市から離れ、急ぎ那須町高久乙の室野井方面へ向かう。そして、これも一度や二度来た位では方向さえ分からぬような道を通って、県内一の数の宝馬を持つ馬頭観音群へ到着。ここは、いつ来ても写真撮影には向いていない場所だが、県内最大数の11頭もの宝馬を持っている馬頭観音様が、その馬頭観音碑塔群中に見られるのだから案内しないわけにはいかない。皆様も一目見るなり、その珍しさに一生懸命写真を撮っていたが、私でさえまだ満足な写真がないので、その仕上がりが心配な一つである。
 次はここへ来る途中、道上の土手の上に碑塔が立っていた場所へ戻り、急な草付きの土手を這い上がる。そこには、まだ色鮮やかな彩色が残る馬頭観音様が祀られている所。昨年秋に来たときは倒壊していなかった、それら幾つかの馬頭観音様が地に伏しているのを抱き起こして据え直す。といっても、自分たちの写真撮影に適した方向に対してだが…。いずれにしても、皆さんにとっては興味津々な像容ばかりなので、気分良くして時間を過ごしてしまうが、今日はそのために来たのだから納得の行くまで写真撮影に付き合うこととする。

 次は、いよいよ本日のメインとなる那須町の馬頭観音群が待つ、これも私が勝手に名付けた「那須の地の馬頭観音街道」へと移動する。


 ようやく、馬頭観音街道の第一番目へ、冬なら間もなく陽も西へ落ちようとする頃に到着。ここでも、今年の冬に倒れた馬頭観音様を抱き起こしては、自分たちの納得するように並べての写真撮影会に熱中。そして撮影会を終えると、次の第二番目の馬頭観音群へ移動。あまりに近すぎて、思わず通り過ぎてしまい、ここでもバックして後戻り。ここでの目玉は、那須の地で唯一の双体馬頭観音様の姿だが、何しろ写真撮影としては時間が遅すぎるため、太陽の方角へ動かしたが皆さんには果たして良く撮れたかが不安である。その他、この草むらには写真撮影対象としての馬頭観音様が多くあるのだが、いかにせよこの時間では無理である。そこそこに切り上げ、第三番目のこの馬頭観音街道群中で最も素晴らしい場所で、同じように夢中になって撮影するも、今度の敵は時間との戦いである。次回には、もう一度ここを訪れてゆっくり見せてあげたいものである。

 さて次は、この馬頭観音街道三番目の場所から少し離れ、「長虫様」の像容を訪ねる予定。そんな時に農家の方が現れ、この馬頭観音群の説明をしてくれたついでに長虫様の話をすると、「それは我が家で祀っているもの」となり、そのいきさつを聞いてから見学了解を得て温泉八幡神社へと早速向かう。薄暗い境内で、「長虫様」と呼ばれる蛇の像容塔を見学し、そのツチノコに似た姿を前にして「面白い物を見せてもらった」と感謝される。

 この時点で、既に時計は午後五時を過ぎている。予定では5時24分黒磯駅始発のライナー号新宿行きに乗る予定だったが、誰ももうそろそろ終わりにして帰ると言い出すところか、このまま帰宅の電車時間を気にせず石仏が見える迄は見て歩くのが当然とした顔をしている。今までの、「多摩石仏の会」様とは何度か一緒に石仏巡りを御一緒させていただいたが、その度に感じる「多摩石根性」の、貪欲な見たさ・知識欲にはただ呆れるだけだったが、今回はプライベートな石仏巡りと言うこともあって、それをまざまざと実感させられた思いである。そういう姿を見せつけられると、自分の今までの甘い石仏巡りは何だったのだろうかという自責の念に駆られる。
 その後、第四番目の馬頭観音群は省略し、誰にもどころか参加者にも所在地を明かすことの出来ない場所に祀られている、秘密の「ネコ」丸彫像を訪ね行く。何が見られるか予告なしの案内だけに、それを見た皆さんは大感激。そしてその像容の素晴らしさと大きさに、ただただ感嘆してくれる。

 ここまで来るとこちらも覚悟を決め、次の目的地である豊原丙地区の長久寺まで、夕暮れ迫る中をドライブとしゃれ込んで彩色馬頭観音立像を見せることにする。見学の前に、加地氏に住職さんへ声を掛けに行ってもらう。というのも、この長久寺さんへは昨年秋を含めて何度も来ているので、住職さんのお人柄がわかっているので誰が行っても快諾してくれることを知っていたからである。もっとも、私が行くと既に顔なじみとなっているので、住職さんとの会話が長くなってしまうことを避ける意味もあったのだが…。その馬頭観音さんの像容の美しさにも、皆さんが納得してくれたが、境内にはまだまだ沢山の馬頭観音塔がある。いずれにせよ、それらを調べるにも写真を撮るにも既に暗くなってきているので、次回へのチャンスとしてもらう。

 次に、私が通称「ノラクロの馬頭さん」と読んでいる馬頭観音さんを見せることにして車を走らせたが、どうも夕暮れ迫った時間帯での運転で、脇に入る小道を見逃したようで通り過ぎてしまい、復路に再挑戦したがやはり細い曲がり角を通り過ぎてしまったので、そこは残念ながら割愛させていただく。

 さあ、いよいよ今回予定していた最後の場所である黒田原駅の北方、馬頭観音を含めて重制石幢六地蔵等が並ぶ碑塔群へ一直線。と言いつつ、途中で迷いそうになりながらも何とか到着。そこで見せたかったのは、馬の放牧風景を浮き彫りにしたような何とも素敵な親子三頭馬の姿である。そんなセンスのある馬頭さんの石造も、当地のような田舎にもあることを見せたくてご案内。納得してくれたか否かは、既に暗くなり出した中では皆さんの顔も分かりにくくなったので確認できなかったが、良くもマア一日、私の「今日はノンビリ、馬頭さん巡り」という言葉とは裏腹に、数だけを消化したような忙しい石仏巡りに付き合ってくれたものと感謝しつつ、六時半に別れの黒磯駅へ向かう。しかし、暗くなってしまった国道四号線を走って向かう黒磯市街は方向感覚を失い、皆で次は左だ、右だと適当な指示のままに走ったために逆方向を走って、最終目的地の黒磯駅に着いたときには午後七時になっていた。間違って、タクシー乗り場へ車を入れてしまったので、そのまま今日一日の同行に感謝しつつ車外へ追い出したまま、ろくな挨拶も見送りもせずに別れることになってしまった。
 ぜひ今回に懲りず、また秋にでも那須の地の馬頭さん達に会いたくなったらご一緒したいものである。それにしても、私が家に着いたのは夜も九時になっていた。おそらく最も遠い八王子から来られた犬飼氏は、帰宅が十一時になっていたのではないかと思われる。本当に、とんでもない石仏巡りになってしまった事を心の中で詫びながら、もう一つの心では「それは皆さんが望んだこと」と居直っている。それにしても「多摩石魂」は、まだまだ健在である。 

実際に訪れた、今回の石仏巡りコースは下記の通りです。
    -----JR宇都宮駅九時三〇分集合------
 1、栃木県さくら市(旧・氏家町)押上 水神社
 2、栃木県矢板市田野原 松尾神社
 3、栃木県那須塩原市(旧・塩原町)宇都野
                   馬頭観音堂碑塔群
 4、栃木県那須塩原市(旧・塩原町)宇都野 玉養寺
     ------ 昼食 ------
 5、栃木県那須塩原市(旧・塩原町)宇都野
                   嶽山箒根神社
 6、栃木県那須塩原市(旧・塩原町)金沢・上集会所
 7、栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)鴫内
                   百村への道路沿い
 8、栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)百村
                   南端の三叉路
 9、栃木県那須町高久乙 横沢 馬頭観音碑塔群
10、栃木県那須町高久乙    室野井 道路沿い土手上
11、栃木県那須町高久丙 小深堀
               馬頭観音街道沿い第一番目
12、栃木県那須町高久丙 小深堀
               馬頭観音街道沿い第二番目
13、栃木県那須町高久丙 大深堀
               馬頭観音街道沿い第三番目
14、栃木県那須町高久乙 大深堀 八幡神社
15、栃木県那須町高久乙 ※所在地は非公開
16、栃木県那須町豊原丙 迯室 長久寺
17、栃木県那須町寺子丙 旧黒田 黒田原駅北側碑塔群
   -----JR黒磯駅解散-----

                       2007年5月16日・記
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5月5日の足利市石仏巡り記

2007年05月06日 | Weblog
 昨日、5月5日も栃木県内の行楽渋滞を嫌って足利市へ石仏巡りに行きました。結局は、この連休中に連続して3回も足利市へ行ったことになりますが、それもこれも国道293号線は全く渋滞無く通行できるからにほかなりません。
 ところで今回も、あと一歩を西へ踏み出せばそこは桐生市という小俣町でも西はずれの握沼川を越えた上濁沼地区へ入りました。お陰で、この周辺の石造物はほぼ終了しましたが、相変わらず庚申塔群の紀年銘のない自然石文字塔は全てを記録せずに気に入った物だけに終わってしまいましたが…。その後も午前中は、小俣地区の取りこぼし碑塔を探し歩いて、それなりに成果を上げることが出来ました。この時点で、今日の目的は達成です。山裾に咲き誇るフジの花を眺めて、車一台が通れる道を入って、どこかに隠れている碑塔を探し回りました。
 お昼は、暫くぶりに隣の葉鹿町へ入り、昨年4月に多摩石の皆さんと訪ねた篠生神社へ行き、木陰で美味しく取りました。それにしても、今日は真夏のような暑さである。そろそろ、県南部の碑塔巡りは終わりにして、これからは県北へ駒を進めようかと、ひんやりする石のベンチに横たわって考える。
さて、そんな庚申碑塔群を背にして昼食を取るも、その後の昼休みには全てを記録し終えていない碑塔群の中の、これも気に入った幾つかの庚申塔を記録にとって時間を過ごしました。篠生神社をあとにして、これまたこれまでに何度も来ている葉鹿町内の無量院や光泰寺、加えて日枝神社を訪ねたりして意味もなく同じ庚申塔などの写真を撮って過ごす。 せっかく足利まで来て、こんな同じ事をしていて良いのかと自問自答し、それから東光寺を訪ねました。この東光寺入口には、庚申塔を始めとして沢山の碑塔が並んでいるので、今日はその全てを真面目に記録を取ることにしたのです。ここで、1時間以上も過ごしてしまい、時計を見ると早くも午後3時半を廻っている。少なからず遊びすぎたが、あとは往路を辿りながら取りこぼしをしていた碑塔を調査しようと、まずは緑町の八雲神社へ行って庚申塔2基と牛頭天皇の灯篭1基を記録する。そして最後は、新山町の山裾に祀られているバンザイ型六臂青面金剛像等を訪ねてからのんびりと帰宅する。なお今回も、特別に皆様に紹介する様な画像はあまりありませんから、来週にHPの方は期待していてください。それでもあきる野市のT様、新山町の庚申塔を見ているか否か分かりませんので、案内図と一緒に掲載しておきます。見ていないことを半分期待しながら(^o^;)


来週12日の土曜日は、東京方面から3銘様を宇都宮駅に出迎え、今年初めての那須方面馬頭観音巡りである。ここしばらく続いた東京の橋口氏が都合で来られないので、恒例となっている春秋2回の馬頭観音巡り、今年は独りで行こうと思っていたら、東京の加地さんが馬頭さんに興味があるので行きたいということになり、同行者が自然発生的に生まれたことになる。折角東京から来られるのだから、馬頭さん以外に東京方面の方が滅多に来られない地区の面白い碑塔も道すがら見せてあげようかと、これからその計画でも作成しようと思っています。どうぞ、今度も土曜も晴れますよう…。
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5月3日の石仏巡り

2007年05月04日 | Weblog
 5月3日は、足利市へ出かけました。このような連休が続いている時は、いつもと違ってのんびりした石仏巡りにしようと、足利市の庚申塔群へ行きました。
 今回は、その庚申塔群の中の、大前町・千庚申山へ入りました。ここへ来る度に、良く見もしないで通り過ぎていた石段入口からの庚申塔を、配置図を書きながら1基づつ記録していきました。当然、お昼もこの中で過ごしました。(食事の時に、入っているはずの「マイ箸」を家内が入れ忘れたので、(笹を切って代用箸を作成)珍しいこともあると、独りで笑ってしまう。<この笑いが、やがて自分に返って来るとはその時つゆ知らず>
 1基1基、水洗いをしてから計測と記録を取って写真も1基づつ撮影。延々と続く作業にも関わらず、今日は曜日的には木曜日なので普段なら石仏巡りはしない日。そんなこともあって、今日のもうけの一日をウグイスの声を、木々からこもれる陽を受けながらのんびり過ごしました。
だがそれも、午後2時半でストップ!。というのも、デジカメのメモリーを使いきってしまい、車に予備のメモリーステックを取りに行ったところ、ナント何と、家に置き忘れてきたのです。今まで撮影した中からダブっている物や不要な画像を削除してみたが、それでもアト12枚しか撮影できない。念のため自宅に電話してみると、パソコン机の上に置いてあるという。まさか、急いで届けてくれと言う訳にも行かず、その残りを大切に使い切ったところで、本日の石仏巡りを終了する。
 それでなくても、高くなったガソリンを満タンにして足利の西部までやって来たのに、何というもったいなさ!。予備のメモリーステックさえあれば、あと2時間は確実に出来たのにと思いつつ、まあ、オマケの石仏巡りと、1日で69基も記録を取れた嬉しさの中、連休中の渋滞もない293号線を忠実に辿って帰路に付く。
 そんな訳で、今回の石仏巡り画像は何も紹介しません。それよりも今悩んでいるのは、明日は土曜日であること。土曜日は、私の石仏巡り出陣日なので、どこかへ行こうとは思っているのだが、その行き先が思いつかない。困ったものである。明日の朝に、思いつきで車を走らせよう!。 
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連休の前半が終わりました

2007年05月01日 | Weblog
4月28日と29日の石仏巡り、内容は貧弱ですが掲載しました。暇を持て余していらっしゃる方は御笑覧下さい。見てもあまり面白い物はありませんが…。
連休後半も、2回位はどこかへ行きたいと思っていますが、別に目的を持っていませんので石仏巡りと言うよりは、遊び感覚です。

昨日、東京の大津氏より「鋳物の名品をたずねて」という著書を頂戴しました。石造物から金物へ宗旨替えをして3年目で書き上げた内容に驚きながらも、その印刷(主に写真)状態の酷さに驚いている。大津氏の写真技量は認めているところなので、これは出版社の写真取り込み技術能力不足だろうと思いつつも、なんとも酷い状態に著者である大津氏はガッカリしているのではないかと慰める言葉もない。私がそのまずさを指摘すると、大津氏の不快感情を増長してしまうので、礼状の一部としてはその件に関して一言も述べないことにしたが、発行元の青娥書房の能力の無さを露呈した書籍の一つだろう。それにしても、ヒドイ!仕上がりである。まるで、30~40年前の地方の出版物を見るようである。特に表紙は画質も荒れてボケまで生じている。本文の写真は、斜めに取り込んであって画像が皆傾いている等々。これでプロの仕事なのだろうかと思う。
それにしても、内容的には一般読者向けで短時間でよくぞここまで取材をしたものだと、大津氏のあの、がむしゃらな行動力に感嘆する。
※本の帯の文句が良い。「名品中の名品108点を紹介」までは良いが、次の「その出来栄えに息をのむ…。」とは、著書内容についての感嘆か、それとも仕上がり酷さの感嘆か、ウーム、微妙な表現である。(^o^);
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