石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

8月31日に調査した宝篋印塔の銘文詳細を掲載しました

2013年09月06日 | Weblog

先週土曜日に、死に物狂いで手拓した、芳賀町にある宝篋印塔軸部に見る梵字陀羅尼4面全てを、いつものように別HPの方へ掲載しました。こうしたものに興味ある方はご笑覧ください。簡単に見られる陀羅尼だけに、興味ある方には面白いのですが、どうみてもいわゆる石仏が好きだけの方には吐き気がするだけでしょう、と苦笑しつつ。私にしても、こうしたものは見なかったことにしたかったのですが、見てしまった以上は仕方なしと、苦悩ものです。
そうそう、アクセスは  2013年08月・栃木県内石仏巡り記 をコピーして検索のペースとしてご覧になるのが早道でしょう。

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2013年08月31日、栃木県芳賀町の石碑調査に行きました

2013年09月02日 | Weblog

 天気予報では曇り空ということだったので、今回もそれを信じて石碑調査に出かけたが、それは完全に外れて真夏並みの暑かった1日でした。午前中に1基を調査・手拓しただけでクタクタ。尤も、今回も碑面のイヤらしい苔除去に多くの時間を取られてしまった。おかげで、金属ブラシはだいぶ磨耗してしまい、まもなく新しいのを用意しなければならない状態となる。碑文文字数は約800文字くらいなのだが、意外と手拓に手間取り、終えたのはお昼10分前という体たらくだった。
 そして午後は、これまでに何度も手拓したいと思いつつもその余りにも文字数の多いのと一文字が小さいので、これを手拓するにはそれ相当の覚悟を決めてかからないとダメだと延ばしに延ばしていた宝篋印塔軸部にある梵字陀羅尼経。何しろ、軸部サイズは高さ64センチに幅68センチの中に上記画像のように恐ろしい数の梵字が刻まれている。暇な方は、片面だけで幾つの数の梵字が刻まれているのか数えてみてください。それが、4面に空白なくビッシリト刻まれているのだから、私でなくてもこれを手拓するのかと思うとつい逃げてしまうだろう。だが、栃木県内の宝篋印塔調査を1基でも多く蒐集している我輩としては、これから逃げることが出来ない。そこで意を決し、今回はこの宝篋印塔手拓を第一にやってきたわけである。当然ながら、これを手拓しようと挑戦した人も少ないと見え、碑面はまたしても金属ブラシのお出ましとなって、力を込めて碑面を磨き上げてからの作業となる。そしてここで夜に、このために作成した小さく(直径2.5センチ)、しかもこれ以上硬く絞れないほどに製作したタンポの出番となる。また、今回のために油墨も一晩かけて作成した(朝になってその墨を容器に入れた場所が、油墨で「コリャ~、えらいことになっている」と、自分でも驚くほど汚していた)出番である。そのタンポと真新しい墨の威力は目を見張るほどの威力を発揮し、上記掲載画像に見るようにほぼ100点満点の出来栄えとなる。上下、左右と4隅は碑面ぎりぎりにまで梵字が刻まれていて、ここでは更に小さなタンポ(直径1,5センチ位)を使用したのは言うまでもない。それを4面とも延々と手拓作業を続け、終わったのは4時半を過ぎてしまっていた。始めた時は、午後一時とまだ太陽は真上にあり、暑くギラギラと輝いていたが、森の中に居ると既に薄暗くなりだしていた。それにしても3時間半、宝篋印塔の中段に登ったまま足一つ置くだけの縁に立ち尽くす作業の終了。良くぞ体力が持ったものだと、自分に感謝する。もちろん、全てを採り終えた時は熱中症で倒れるのではないかというほど、全体力を使い果たしてヘトヘトに疲れてしまっていた。それでも、宝篋印塔の軸部だけに、2,000字を超える梵字陀羅尼が刻まれているなど、二度と出会うこともないだろうと思うと、その達成感はまた格別のものがあった。そして帰宅し、一休みしてから改めてその手拓した拓本を眺めて思うに、問題はこれをどう処理するかである。予定では、その梵字を新たに手写し、さらにルビを振っておこうと思ったが、今はその気力が完全に消えうせていた。まあ、しばらくはこのまま放置しておき、正月などの時間がたっぷり取れる時にでも改めて広げて対策を考えようと思っている。
 次回からは、9月。これからは本当に手拓作業の絶好機。本気になって、石碑調査に邁進しようと考えてはいるのだが、はたしてそう計画通りに進むかは自信なし。多分、今週末は畑にダイコンの種を蒔かなければならないので、出かけるチャンスがあるか、と思っている。

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