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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年5月30日の石仏巡り

2009年05月31日 | Weblog
2009年5月30日も、執念で栃木県今市市の石仏巡りに出かけました。最初に行ったのは、山口地区の滝尾神社、着くと直ぐに雨が降り出し、こりゃ~今日の石仏巡りはヤバイかなと思いましたが、本殿前に鎮座している狛犬を見ている内に、その雨も止んでしまいました。当然今日は、雨に降られると思いつつも出かけてきたので「こりゃ~、もうけものだ」と、雨なら車を降りずに石碑類の所在地探しのつもりだったのを、その後は本格的な石仏調査に目的を変更しました。
 そして隣の根室地区へ入り、早速訪れた高おかみ神社で貞享四年銘の鳥居に出会いました。今回も、早々に江戸前期の鳥居に出会えた喜びで境内を更に注意してみると、境内で初めてその存在に気付いた「男體山」碑があり、嬉しさの余り飛び上がってしまいました。過去に、栃木県内全域を駆けめぐって「男體山碑」を探し回ったのに、まだまだ調査が甘いことを実感しました。当然ここでも狛犬を見てみると、最初の滝尾神社の狛犬と同じように、阿形の狛犬の股間に男性性器があるのを見つけ、「へぇ~、このあたりでは狛犬に性器をつけているのだ」と、変なところで感心しました。その後、内を一巡りすると、1990年代に見た六体六地蔵が田圃の畦道から道路沿いに移されていて、その全体の雰囲気が良かった姿ももう写真に撮れないのを残念に思いました。
 次に、薄井沢地区へ入る。山の中に庚申塚があるというので、車を止めて山へ入ろうとすると、ヤマカガシを踏みそうになる。踏まれては大変と、急いで逃げる蛇の方を見ると、その先の森の中に庚申塔が並んでいるのが見え、「オオ、蛇に牽かれて庚申塔巡り」か、と独り笑ってしまいました。勿論ここで、昭和庚申年塔を含む庚申塔を調査下のは言うまでもありません。
 よし、こうなったらまだ見つからない大室地区の庚申塚を探そうとなって、あちこちを覗きながら移動しているうちに、矢野口の庚申塚がある山の中へ迷い込む。結果的にこれは後で判ったことなのだが、その森の東側は矢野口地区であり西側は大室地区。当地域では、庚申塚を気付く場所は隣り地区との境にある森の中なので、矢野口の庚申塚が大室との境であるのだから、反対になって見れば大室地区の庚申塚もその森の中にあって良いことになる。そして結果的にはその通りで、矢野口の庚申塚から西側の森の中へ薮と立ち木を分けつつ突入してみれば、やはり大室地区の庚申塚がありそこには元文・寛政・万延・大正・昭和の五基の庚申塔が建立されていました。もっとも、その代償として身体は蜘蛛の巣だらけに、衣服には何匹もの毛虫が付いていましたが…。
 その後も、あちこちの山の中へ潜っての庚申塚探し。しかしその成果は芳しくなく、新しく見つけられた庚申塚は2箇所のみだった。そして午後も3時となり、相変わらず蜘蛛の巣と戦いながら出会ったのは、悲しいかな蛇さん達という頃に突然の大雨が降り出す。急いで山の中から抜けだし、車へ戻った頃にはびしょ濡れとなり、完全に石仏巡りの気分はそがれてそのまま帰宅とあいなった。まあ、それでも今回も新たな男體山碑に出会うなど、それなりの嬉しい成果があったので今日の雨が降ると判っていて出かけた甲斐があるというものである。
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2009年5月23日も今市市の碑塔巡りでした

2009年05月24日 | Weblog
昨日5月23日も、栃木県今市市(現日光市)へ石仏巡りに出かけました。朝から爽やかな五月晴れに気分も上々となり、今回も山の中にあって、普通では実見するのが大変な庚申塔探しに行きました。特に、旧今市市の水無地区にある庚申塚には今回も手こずりました。内の農家を訪ねたのは良いのですが、農家のご主人も昭和五十五年に庚申塔を建立して以来一度も行っていないという山の中にあると言う。念のため、うろ覚えの山の中へ入る入口を教えてもらったが、自信は全くないのでその周辺で農作業をしている人がいたら、必ず再確認してから森の中へ入ることと言う条件付きであった。その地は、確かに人家も途絶えた全くの田圃と山が広がる場所である。幸いにも、この時節は農作業をしている方が沢山いたので、その中で最もお年をめしている方を探して再び当地の庚申塚所在地を尋ねる。とやはり、先ほど教えていただいた山の中とは全く別の場所だと、大笑いされる。そして、森の入口まで案内してあげるから車で付いてきなとなり、何とか庚申塚の入口が判った次第。車の入れるところまで車を乗り入れ、そこから先は調査道具一式とカメラ三脚を抱えて歩いていく。どんどん山の中へ入って行くが見つからず、ついに森を突き抜けてしまう場所まで来てしまう。と、そこには宝暦紀年銘を持った丸彫の大きな大日如来様が祀られていた。森の中に大日様があるなんて話しに聞いていなかったので、これは道を間違ったと思ったが、それでも思わぬ出会いに感激して記録を取り写真を撮る。と、その大日様から少し離れた森の奥の中に石塔が見え隠れしてるのを発見。急いで駆け寄ってみれば、そこが当地の庚申塚だった。大満足以上の感激で、しばしその森の中でのんびりする。それにしても今市の森の中にある庚申塚は、地元で祀っている人達さえ60年に一度の庚申年以外には訪れないのに不思議な気がする。しかも、今も少なくも年に二度は庚申講を行っているのに、である。いずれにしても、今回も滅多なことでは探し出せない森の中の庚申塚を探し出せたので、これだけで本日の成果は大とする。
 その後、この水無地区の石造物総調査をしてから次の場所へと移動する。午後は、水無地区からは少し離れた沢又地区の調査である。この地区へは1990年代に調査していたが、その頃は男体山碑に石幢六地蔵塔調査が中心だったので、まだまだ調べていない碑塔が沢山ある。特に、庚申塔はそのほとんどが未調査である。そしてここでも農家を訪ね歩いては庚申塚を尋ねるが、ほとんどの農家の方は新しい昭和庚申年塔以外は知らず、疲れ切った頃に「もしかしたら、あそこにあるかも?」という情報を入手して行ってみれば、確かにそこに二基の庚申塔に出会えたのにまたしても感激。その場所も、まず以て一般の石造物調査方法では存在すら知ることは叶わず、またその場所を探し出すのも困難な場所だった。
 その他、今回は特に江戸初期の延宝と貞享年間に建立された2基の鳥居を確認できたことも大きな成果だった。旧今市市の中でも辺鄙な田舎に当たる神社に、江戸初期の鳥居があることが確認できたことで、これからもこうした田舎の神社巡りに張り合いが出てきた。
 それにしても夏草の繁る勢いはすさまじく、まもなく碑塔が隠れるどころか私の背丈さえも超してしまう勢いである。それと、毛虫と蛇の何と多くなったこと。チョット油断していると調査を終えて車まで戻る時に身体を見てみれば、衣服には毛虫が沢山付いてる有様に一人苦笑である。そして次回、そんな事にも懲りずまたまた旧今市市の碑塔巡りに出かけようと思っている。それも、森の中にあって実見不可能なものを探し出すために!。
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5月9日と16日の石仏巡り記を掲載しました

2009年05月19日 | Weblog
 ホームページ作成方法も、光対応に変更してから数年が経ち、この頃ではそれが当たり前と思う自分に少なからず反省しているところです。と言うのも、栃木県内でも携帯電話が不通の地帯は沢山あり、まして光ブロードバンドに対応していない地域など珍しい事ではありません。そんな地域の方々にとって、アナログ形式で私のHPを見ることは非常に困難な状態で、例えば今回のこの5月号HPなどは、開ききるまでにパソコンが壊れたと思ってしまうほどの時間が必要です。結果的には、都会?中心の人を対象にしてこの世の中は動いているのかなと、反省している所です。
 さて、今月号はこの季節のように気分が良いのか、余りにも多くの画像を掲載しすぎたきらいがあります。ここまで掲載しなくても良いかなと思いつつ、気分の成せるままに掲載してしまいました。光対応でない方には大変な迷惑かと反省しつつも、時にはこういうのもアリかなと思っています。皮肉にも、5月の週末はあと2回あります。その分は、出来るだけ少ない画像を掲載しようと思っていますので、どうなるやらと心配です。それと、そろそろ山の中の石仏探しも限界の季節になってきました。それでも今月中は、まだまだ山の中へ潜り込もうと思っています。運良く、マムシ君に出会わないことを念じつつ。
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5月16日も、栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年05月17日 | Weblog
 5月16日も、栃木県今市市(現日光市)へ石仏巡りに行きました。相変わらず、山の中のどこにあるかわからない庚申塔探しです。特に今回は、これまでに何度探しても見つからない猪倉地区の庚申塔探しをすることにしました。今までと同じように、山の中をウロウロしながらも一向に見つからず、仕方なしにへ戻っては農家の方に尋ねて誰かに聞いたことのあるという何ともあやふやな情報を元に、その大凡の在処を教えてもらっては山の中に潜り込む。それでも、広大な森の中にポツンとある庚申塔は早々簡単に見つかるはずもなく、今度はその森の持ち主を探し出してその家を訪ねる。そして今度こそはと、教えてもらった森の中に潜り込むも見つからず、仕方なく再度地主の家へ戻って三拜九拜してお願いし、ご主人を私の車に乗せて案内を乞い、何とか探し出し事が出来る始末である。そして自宅へ送り届ければ、昨日15日は60日に一度の庚申講だったので、その時の庚申掛け軸などがあるから見ていくかとなって、暫しの時間を過ごしてしまう。こんな石仏巡りだから、朝八時から始めた石仏巡りだが、午前中を終えて本日の調査庚申塔を数えてみれば、四箇所の6基のみという有様であった。それでも、この地区ではどこでもまだ60日に一度の庚申講を続けていることが判って何となく嬉しくなった。
 お昼は、川沿いに満開となって咲いている藤の花を眺めながらの昼食とする。余りにものんびりした風景の中にいたためか、思わぬ時間を過ごしてしまった。
 午後も、まだ未見の庚申塔探しを行う。午後最初の場所は、点在する毎に庚申塚の在処を訊ね歩くが、誰も知らないと言う。老人のいる家を教えてもらって訪ねるが、生憎と皆留守である。それでも諦めきれず、庚申塚のありそうな山の中を覗いて歩くが、所詮は見つかるはずもなく、ついに諦めて別の場所へと移動。
 その神社裏山の中には沢山の庚申塔があることが判っていたので、早速に調査したのは言うまでもないが、境内を覗いてみるとそこには昭和24年に当地を激震とした今市地震による復旧碑があった。栃木県内の災害碑にも関心のある私としては無視するわけにもいかず、長文だが時間をかけて一文字ずつ丁寧に書き写す。そして碑面を水洗いし、写真を撮る。そんなこんなで、終わってみれば早くも午後3時半を過ぎてしまっていた。この頃から、心配していた雨が落ちてくる。本日の予定では、あと二箇所ばかりを訪れる予定だったが、今日もそれなりに成果は大だったのでここまでとし、のんびり帰宅する。
 それにしても、夏草の繁る勢いは早く、先週以上の背丈となってそんな中にある碑塔探しは勿論のこと、写真撮影にも難儀する季節となってしまった。次回も、そんな山の中や草の中に潜ってしまった庚申塔探しに行こうと思っている。何しろ、まもなくそんな庚申塔探しも、したくても出来なくなる季節となるからだ。

 それにしても、先週の石仏巡り記案内を別HPに掲載しないうちに一週間が過ぎてしまった。今週の分と併せて、早く掲載したいと思っているがここのところ仕事に追われていてなかなか自由時間が作れないでいる。困ったことだと思っているが、それも今週は中頃までには何とかなるだろうと思っている。
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2009年5月9日は、一ヶ月ぶりに今市市の石仏巡りです。

2009年05月11日 | Weblog
 5月9日は、一ヶ月ぶりに栃木県今市市へ戻りました。その一ヶ月間に、野山の草丈は思いの外に伸びていて調査するにも写真を撮るにも厄介な季節になったことを実感しました。特に今回は、ヤマカガシを中心に蛇さんに何度も出会いました。田圃の畦道では、蛇さんとバッタリ出会って、お互いに譲る気持ちはないので、「蛇のくせに生意気だ!」と、足で蹴って田圃の中に落としました。近くに沢山いる蛙さんが、拍手喝采してくれたのではないか?と思っています。
 さて今回は、大型連休も終わったので鬼怒川方面の道路も混んでいないだろうと、鬼怒川温泉地に隣接する大桑町から調査開始です。特に今回は、地図などには掲載されていない神社仏閣を訪れることとし、併せて昭和五十五庚申年塔の実見としました。それを為すには一にも二にも、とにかく聞き込み調査をすること。旨い具合に、この季節は農家の方達が多く出歩いているので見つけ次第に声を掛けて、情報収集。それでも、大桑町では教えてもらった観音堂が見つからずに、少なからずウロウロと時間ばかり浪費しましたが…。それでも、一面田圃の中に建つ小さな観音堂を見つけた時は嬉しかったです。ただ、車を途中に放棄してきたので(車が入れるような道ではなくなったので)、そこへ行くには飛んでもない遠回りをしてしまいましたが…。また、そこには残骸状態となった狛犬の片割れ(像容的には江戸中期頃までか)が置いてあり、佐野市在住の山口氏がもし今市市の狛犬調査に乗り出したときは、まず気付かないので教えてあげなければと写真だけは撮影しました。勿論その場所にある碑塔は燈籠を含めて調査したのは言うまでもありません。
 また、隣りに接する高柴地区では、「こんな所に神社があるの?」というような、とんでもない場所から入る小さな神社があり、そこには昭和五十四年の庚申塔がありました。更に気分を良くし、その西隣の佐下部地区へ入る。この地区の調査はただ一基、昭和庚申年塔だけが実見していないので、農家を訪ねて聞いてみれば、それは砥川を渡った南側の新しくできた民家の裏にあるという。とんでもないところに、昭和五十五年庚申塚を築いたものだと農家の人と大笑いする。
 せっかく、近くにいるのだからと小百地区の楢原を訪れ、うろ覚えの庚申塚を訪ねて調査する。帰宅してからデータベースを検索してみたら、やはり過去に調査済みと分かり、一人苦笑である。その後も、南下しながら大谷向地区の庚申塚を調査したりしながら豊田地区へ入る。この地区にも庚申塚があるが、その場所が「公民館の向かい側」とあるのでこれまでにも何度か探しに来たが見つけられなかったもの。そこで今回は農家へ飛び込んで聞いてみることにした。しかし、答はNO!。公民館の向かい側には昔から何もないと言う。それでも、もしかしたらと忙しい農作業の手を休めて他の家に聞きに言ってくれる。と、そこのおばあちゃんが、それならもしかしたらあそこの農家の裏山にある石の事かも知れないと言う。だが、「生憎と今日は留守なので困ったな!」となり、ほどなく「それほど見たいのなら…」となって一緒に私が付いていけば留守でも大丈夫だろうと留守の家の庭から裏へ回り、念願の庚申塔三基を調査することが出来た。
 そして本日最大の難関は芹沼地区の庚申塚で、広大な山林の中の何処かに庚申塚があるというので、これまでに二度探しに来たが全て見つからぬまま追い返された場所。再確認の意味で、今回も農家を訪ねてその場所を地図を書いて教えてもらったが、それはただ「山の中の西側を三百メートルほど奥に入った場所」と言うだけのものである。とにかくその場所は、60年の一度の庚申当り日にしかの人も行かない場所だという。そして道路から三百メートル奥の中と簡単に言ってしまうが、何の目印もなくしかも踏み跡さえない山の中の三百メートル奥。山へ入ったことのない人には分からない、それはとんでもない広い地域を探すことになる。それでも今回ばかりは意地がある。山の中をあちこちと探し回り、寛政十二年塔から昭和五十五年塔までの四基を何とか今回は探し出すことに成功した。今市市の数ある庚申塚の中でも第一級の探し出す難しさの庚申塚である。もちろん、地図など書きようもない場所である。
 ここで、本日の今市市石仏巡りは午後も四時を過ぎてしまったので終了。今回は一箇所に留まらぬ石仏巡りだったので、次回からはまた前回の続きの塩野室から始めようと思っているが、どうなるやらです。何しろ、山の中にある庚申塚は夏草が繁茂してまもなく探索不可能な時期となるので、その前に一基でも多くそんな庚申塚を見つけたい気持ちも強いから。
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栃木県の江戸前期庚申塔データを更新しました

2009年05月06日 | Weblog
 去る5月2日の佐野市石仏巡りにて、新たな延宝四年銘塔が出てきましたので追加し、合計で290基になりましたのに伴い、更新しました。
 年代順ですので、町村毎に知りたい人には見にくいですが、まあ、公開されているだけでも幸いと我慢して下さい。
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5月2日の石仏巡りをHPに掲載しました

2009年05月05日 | Weblog
 今回は、旧田沼市閑馬(現佐野市)にある千庚申山の基礎的調査をしてきましたので、その報告一例を掲載しました。
 もし、そのような馬鹿みたい数の庚申塔が一箇所にある庚申山に興味がありましたら御笑覧下さい。ただ、今回掲載したのはその中の一部で、しかも画像だけでデータは一切掲載してありません。
 また、それでもご覧になって、このような庚申塔群に興味を持ち、私も調査に参加したい!という、まれに見る「お馬鹿さん」が日本の何処かにいましたらメールでご連絡下さい。もっとも、そんな方は日本広しと言えども誰もいないことを承知でこれを記しています。そんな訳で、これを記した私自身も、実際の調査は良くて月に一度のペースで気長に取り組んでいこうと思っています。
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