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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

27日の石仏巡りは…

2006年05月27日 | Weblog
今日は、朝から雨になると思いつつも何もすることのない?私としては、おとなしく家に居ることが出来ずに出かける。しかし流石の私も今日ばかりは遠出をする気にもなれず、片道30分ばかりの栃木市へ向かう。まずは過去に調べていたが、どうにも江戸前期と考えられる庚申塔を再度見たくて、平柳町2丁目へ!。何度見ても無い紀年銘を今回も探すが、やはりどこにもないものはない。青面金剛像容からして延宝庚申塔と推定されるがどうすることも出来ずに、写真だけは再度撮影する。この頃から、空はいよいよ怪しくなって小雨がパラついてくる。
そこで、今回の目的地である大宮町へ入る。雨はますます降り出す中をうろうろして大宮北小学校の脇を通ると、偶然に道路沿い奥に何か判らぬ碑塔が1基だけ建っている。狭い道路へ車を置いて見に行けば、それはまさしく庚申塔。しかも駒型の二猿二鶏像容塔である。これは、この地方の寛文物。早速近くの小学校駐車場へ車を置いて、調査道具一式を抱えて対峙する。まずは、雨が弱い今の内にと写真撮影。銘文は、なにぶんにも摩耗が進んでいて肉眼では判読できない。水洗いに多くの時間を割いて、何とか採拓出来るようにする。そして読んでみれば、それはやはり寛文八年塔であった。
そんなところへ、おばさんが二人で現れ、これは「馬頭さん」として祀っているが、何なんですか?と、尋ねられる。聞けば、毎年の初午には藁ボッチに赤飯を詰めて納めてお詣りしているという。そこで庚申塔の説明をして、どうせ祀っているのならと毎年の初庚申日と終庚申の日にお詣りすると良いと教えてあげる。念のため、この場所の名前を聞くと「庚申様」というから、一人で笑ってしまう。
この頃から本格的な雨となり、おばあさん達も帰っていってしまう。採拓が終わっていないのだが、雨が強くて拓本取りどころではなくなる。場所が判ったのだから、良しとして調査途中で断念して車へ戻る。時間はまだ10時過ぎ。雨が降り出したとはいえ、帰るには余りにも早すぎるので、次回のために大宮町内を偵察することにして、あちこちの小道を巡って碑塔類の所在探しに入る。雨は益々強くなり、諦めて帰路に就こうとして通った塚田地区で、大きな碑塔群を目にする。そこには、延宝青面金剛塔を初めとして様々な碑塔が行儀よく並んでいるが、この雨ではどうすることも出来ずに延宝庚申塔だけを眺めて12時少し過ぎに帰宅する。
そして早速、春日部市の中山氏に未発表の寛文庚申塔を見つけた旨を電話する。ここの所の栃木市での中山氏未実見江戸前期庚申塔が幾つか溜まったので、恐らく中山氏のことだから戸向氏を誘って見に行くだろうと所在地地図などを郵送することにしよう。
それにしても、栃木市は面白いところである。過去に立派な栃木市の野仏として悉皆調査本があるのに、それに抜けている江戸前期までの庚申塔がぞくぞく見つかるのだから!。やはり、他人様の調べた地域も自分の足で実際に見て歩く必要性を今日も再実感した次第である。あ~あ、それにしても早く週末が晴天という天候周期に早くならないかな~。足利市へも行きたくてウズウズしているのに!
そうそう、来週3日は那須町の馬頭さん巡りです。今年初めての楽しい那須方面行きですので、今度の週末こそ晴れてくれますよう、今からタンポならぬてるてる坊主を作ってお祈りすることにしましょう!。
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「房総の石仏」機関誌ご紹介

2006年05月25日 | Weblog
千葉市在住の西岡氏より、房総石造文化財研究会発行の「房総の石仏」第16号(B5判58頁)が送られてくる。この「房総の石仏」誌は、毎号とも非常に真面目に石仏に関する論文が掲載されていて、私のように趣味として石仏巡りを為している者には、まさに教科書的内容で溢れている。
特に今回、私にとってのありがたい論考は、「佛説延命地蔵菩薩経と地蔵菩薩像」という西岡氏のものである。特にその中で、実際にこの經典に基づいて造塔された延命地蔵像の掲載には関心を持った。というのも、この佛説延命地蔵菩薩経に述べられた延命地蔵像に出会える確率は非常に少なく、そのほとんどが根拠の示されぬままのいわゆる「宝珠錫杖持地蔵像」を以て延命地蔵像としていることに疑問を呈しているからである。

さて、今号の「房総の石仏」誌の目次を下記に記しておきましたので、皆様の参考になればと思います。
 芝山町の夏念仏塔‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥小倉 博
 八千代市の石造物 その二‥‥‥‥‥‥‥小菅俊雄
 「佛説延命地蔵菩薩経」と地蔵菩薩像‥‥西岡宣夫
 法華経信仰と地神碑建立の背景‥‥‥‥‥正富博行
 利根川流域の洪水と水神信仰
   ー野田市の水神塔を中心としてー‥‥石田年子
 雨乞石塔探し‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥三明 弘
 南房総市千倉町出現の
   貞治銘五輪塔とその周辺‥‥‥‥‥‥早川正司

※頒布可能か否か判りませんが、お問い合せは下記に記しました。
なお、お問い合せには必ず返信切手を同封してください。
房総石造文化財研究会
事務局 四街道市千代田3-29-2 吉田文夫方
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5月21日の石仏調査

2006年05月23日 | Weblog
今回は、石仏巡りというよりは木彫仏の調査にそのほとんどの時間を費やしました。その訪問地は、去る5月3日に高橋久敬氏と一緒に行った足尾町の廃寺跡阿弥陀堂です。その中に納まっている阿弥陀如來坐像が、鎌倉期のものではないかということで、仏像鑑定の第一人者である北口先生を迎えての調査である。地元の方を迎えての調査は午後1持からということなので、宇都宮から一緒に行った佐藤信明氏と私は蓮慶寺裏山の庚申塔調査や磐裂神社に銀山平の中国人殉難烈士慰霊塔などを見学して時間をつぶす。それにしても、銀山平での昼食時間は何とものんびりした時間で、滅多にない今年の五月晴れの下で山ツツジに映える新緑の美しさについうっとりと見とれてしまった。
さて、1時前に集合場所である現地へ着いてみると、開けておくと言われた入口の鍵が施錠されていて入れない。どうしようとしているところへ、北口先生を乗せた高橋氏の車が到着。そしてそのまま、車はそこへ放置することになる。
まだ地元の方も来ていないので、民家の電話を借りて連絡している内に全員が集合して、いよいよ調査開始である。それから延々と楽しい調査は続いて最終的に終えたのは3時半になっていた。
結果としては、はやりその阿弥陀如來坐像は鎌倉期のもので1200年代と判明。併せて、そこに収められていた天正紀年銘のある2体(銘不明2体の計4体)木彫とともに、早速文化財にしていして保護することになる。特に、その内の4体の木彫仏は小さく持ちやすいのでの世話役の家で保管し、盗難から守ることにして移動する。これで、長年の懸案だったものが無事に一件落着となる。
また、文禄の石造阿弥陀如來とその円筒も、文化財指定と併せて考古資料とし、これも現在の野ざらしの状態から釈迦堂内に収めて盗難等から守ることに決まった。これまでのように、これからはいつでも来て簡単に写真を撮れなくなってしまったが、これも無知な石仏見学者(現に、無理な設置をした愚かな石仏調査者の為に下部の円筒に大きな破損が発生していた)から守るためには致し方ないことなのだろう。
そんなわけで、今回の石仏?巡り報告のHPは、そんな木彫仏と石造仏を部外者が手で触れ撮影できる最後の写真として掲載しました。以前に訪れていた方は、くれぐれもそんな訳で「再度行ってみたらなくなっていた」のではなく、厳重に保存されていることとご理解下さい。
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5月20日の朝

2006年05月20日 | Weblog
天気予報では雨らしいというので、朝から畑仕事をする。スイカだけが、植えられぬままにあったので植えたが、湿気がひどくたったそれだけの畑仕事で大汗をかいてしまう。どうせ汗をかいたのだからと、ジャガイモ畑の土寄せを行い、周囲の草むしりもして本日の畑仕事は終了。ものすごい汗で、全身汗でびしょびしょ。
雨は降らぬまでも、空は曇天。今度は、草花の写真を撮るには最適と、玄関口に咲いているのを撮影してから部屋に閉じこもる。
そして明日は、今月2回目の足尾町へ行くことになっている。しかも雨天決行ということなので、必ず行くことになっているので、その資料作りをする。
どうぞ、「晴れ男」の名に相応しく、明日は快晴になってくれますよう…。
それと、今日の午後からもこのような曇天なら栃木市方面へふらりと出かけてみようと考えている。
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5月14日の石仏巡りは…

2006年05月15日 | Weblog
連休明け最初の石仏巡りは、栃木市へ行きました。栃木市は、昔に少しだけ歩いたのですがどうも私とはうまの合わない地域で、嫌なことが多かった事もあって途中で止めてしまいました。それがなぜまた栃木市かというと、それは岩舟町や佐野市へ通うときに通過地点として利用する栃木市の道路沿いだけでも、時間があるときに立ち寄ってみようと始めたところ、未報告の延宝庚申塔に偶然出会ったからです。
栃木市の石仏調査誌としては「栃木市野仏の風景」という立派な記録報告書を中島 昭氏が平成四年に出版しています。従って、これまではその書籍を見ればおおよその石造物が判ると思っていたのが、実は大間違いだったのです。中島氏の悉皆調査には、何を置いても尊敬し、感謝しているのですが、やはりお一人での(私も同じ!)調査には限界があるようでして、銘文読み間違い等(これも私の独善で良くあること!)が非常に多いことが判りました。やはり、石造物は自分の足と目でしっかり確認しなければならないことを痛感しています。
そんなわけで、14日の日曜日は岩舟町小野里へ入る道路沿いの皆川城内町や志鳥町さらに泉川町を中心に巡りました。そして延宝庚申塔を四基、しっかりと調査することが出来ました。時には昔に巡った場所などもあり、懐かしく感じながらそれらの碑塔も今回新たに再調査しました。何れにしましても、栃木市の碑塔巡りは「種本」があるわけで、その意味でも中島氏に感謝しながら町内毎に、その書籍を参考にして機会を作っては少しずつ見て歩こうと思っています。
と言いつつ、足利市の未調査寺院がまだ半分の60ケ寺程が残っています。どうせ入り込んだ足利市だけに、少なくも寺院仏閣だけは全てを巡りたいと思っているので、これから暑くなる季節にはそんな足利通いも組み入れなければなりません。そしてその他にもあれもこれもと、計画ばかりはあるのですがなかなか実行に移せず困っています。
来週土曜日の予定は、那須の地の馬頭観音さまを訪ねるつもりでいたのですが、どうも今ひとつ天候が良くなさそうです。21日の日曜日は、高橋氏に現地集合で足尾町行きを誘われています。その足尾町、遠いだけに年に一度も行ければ上出来なのに一ヶ月に二度の訪問とは。これも、足尾町の碑塔調査をもう少ししっかりやれと言うご神託として、今のところは行く予定にしています。同行ご希望の方がいましたら、ご連絡下さい。なにしろ長い道中なので、一人ではつまらないので一緒に行きましょう!。
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連休最後の石仏巡りは…

2006年05月07日 | Weblog
5月5日は、午前中だけ栃木県上三川町へ出かけた(報告は別紙HPをご覧下さい)が、連休最後の石仏巡りとして昨日6日は、栃木市から岩舟町を経由して足利市へ入った。栃木市では、朝早くから開始したので主に皆川城内町を巡り午前十時までに20基を調査。しかし朝からの蒸し暑さで、持明院さんの石造物を調査し終えた頃には汗びっしょりとなり早くも疲れが見えてきた。そこで、暫くぶりに岩舟町の大慈寺さんを訪れることにする。

 大慈寺さんで、林住職に勧められるまま本堂へ上がり込んで長話。そこへ観光協会会長さんも見えられて更に話が弾み、お昼近くになって慌てて辞して足利市へ向かう。今日のような、気分的にのんびりした連休時にこそ、普段では時間がもったいないような気がして訪れることの出来ない足利市徳蔵寺さんの銘文拓本取りに向かう。途中、佐野市犬伏町を通過して思うのは、高橋氏の地元を通ながら声もかけずにその通り過ぎたことを、後で高橋氏が知ったら「何と、水くさい」と叱られそう。どこかで、偶然に高橋さんに出会ったらどう言い訳しようと可笑しく思いながら無事に佐野市を通過する。
 しかし、流石に連休中である。足利フラワーパーク近くまで来ると観光客で道路は車も人も溢れて大渋滞。少しも先へ進まないイライラがつのって、この時点で徳蔵寺さんへ行くのを諦める。そしてこの近くで、のんびり出来る場所をと選んだのが、足利市山川町の長林寺であった。境内にある百庚申塔群、いつかは真面目に?調査記録を取らなければと思いつつ、その数の多さ故に実行に移せなかった場所なのである。
 来てみると、境内にある百庚申塔群は新緑がまぶしい木立の中にあり気持ちよい。しかし、さすがは百庚申塔群である。それを今日の午後だけで悉皆調査となると無理と感じ、何はともあれ、紀年銘のあるものだけに的を絞って開始する。次から次ぎへと快調に記録簿は増えていくものの、一向に未調査の数が減っていかない。その内、どれが調査済みで未調査庚申塔はどれかの区別がつかなくなり、時々同じものを記録したりして苦笑する。この単純な作業を延々と繰り返して、この長林寺さんだけで午後3時半までに、56基を記録する。
この時点で、完全に今日の石仏調査の意欲は失する。一休みのつもりで車へ戻り、コーヒーを飲んでしまったら、「もう今日はいいや~」となって、そのまま帰路に就いてしまった。当然ながら、昨夜はもう大変。何しろ一日で76基もの石造物調査原簿を清書しなければならないのだから。そんな夜に限って、近くの方が遊びに来て夜0持まで雑談ですごしてしまったので、結局全ての清書が終わったのは今日7日の朝10時であった。そんな訳で、この6日の石仏巡りHP掲載は、明日以降にしようと思う。

 さて、そんな今年の大型連休も今日で終了。また明日から通常の日々が始まるのだが、思いは早くも来週の石仏巡りはどこにしようと言うこと。そろそろ、那須の地の馬頭観音様も私の来るのを草の丈と背比べしながら待っているはず。今度の土曜日の天候を見極めて、出来れば暫くぶりにそんな馬頭さんに会いに行きたいものと思っている。
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五月最初は足尾町を訪ねた石仏巡り

2006年05月04日 | Weblog
昨日5月3日は、高橋久敬氏と一緒に足尾町へ行きました。私にとっては2年ぶりの訪問です。午前9時に間藤駅での待ち合わせでしたが、早く行き過ぎたのでその前に少しうろうろして情報を収集。その結果、今日は足尾祭りがあって、足尾町中心地には午後2時半まで車での乗り入れは出来ないとのこと。中心地の寺院を訪ねる予定もあっただけに残念だが致し方なしと言うところである。そして9時前に間藤駅に行ってみれば、既に高橋氏は地元の方と世間話をしながら私の到着を今や遅しと待っていた。
 今日最初の訪問地は、本山の鉱山神社である。今は全くの山の中となってしまった場所だけに、今日のような機会でもなければ行く気にもなれなかっただけに、私としても初めての訪問で嬉しい限りある。そこには、高橋氏の探しもめている金文製品が沢山残っている。勿論、石造物もあるので、主に灯篭や狛犬などを私は調べる。それにしても、ここは酷い荒れようである。足尾町の鉱山歴史を物語る重要な地点にも関わらず、町では何の保護保全も考えていないようで、二人でその歴史認識の無さに「なんという町だ!」と、ぐちり嘆いてばかりの調査となる。

 本当は、町中へ車を置いて巡るはずだった今日の足尾町探察だったが、二台の車を連ねて遠下地区の庚申塔調査へと次に向かう。ここは、私にとっては何度目の訪問になるのだろう。しかし、そこにある碑塔類は写真に撮るだけで調査は全くしていなかったので、今日の最大の目的としてやってきたことになる。まずは車からスコップを取り出して庚申塔の埋もれている下部を掘り起こす作業から開始。途中で高橋氏に交代して、その全体像が出てきたところで写真を撮り、銘文の拓本取りに入る。別掲載のHPをご覧頂けると判るように、それはどう見ても延宝年間を下ることはないと推定される庚申塔だけに、今日は何としても紀年銘が欲しい一心で、二人で左右から墨入れしながら注意深く読んでいく。しかし、そこには偈文・交名はあるものの肝心の探し求めている紀年銘は、その一欠片も出てこない。残念という以上に、非常に悔しい思いだけが残ったのは、その手拓した偈文にしても私の浅学さでは解読出来ないことも加わっている。掘り返した箇所を埋め戻して、高橋氏に時間を問えばまもなく12時だという。何と、今日は2箇所だけで半日を過ごしてしまったことになる。
 隣の空き地広場に敷物を敷き、春風を受けながらの昼食とする。食べる口数よりも、雑談の口数の方が多いのんびりした時間をたっぷりと過ごしてから、ついでだから、猿田彦神社へ行って来ようと出発する。ここへは2年前に千葉市在住の沖本氏と西岡氏を案内以来である。
その猿田彦神社のはずれ、キャンプ村の一角で面白い庚申塔を見つけ、何度でも来ればその度に収穫があるものだと二人で大笑いしながら調査する。
 その他、適当に見学していよいよ今日の2つ目の目的である、原小学校後の阿弥陀堂へ向かう。何しろここへは之までに何度も来ていながら悉皆調査をサボっているところ。だが、またしても写真撮影が目的となって適当な調査でごまかしてしまう。結局は、ここへはこれからも機会がある度に来たいがために未調査石造物を残してしまうずるい考えが合ってのことだろうと苦笑する。

 足尾町唯一の庚申名数塔、十年以上も前に確認しながら写真撮影が未だだったので町中の連慶寺へ行くことにする。しかし、祭りの余韻が残っていて連慶寺さん駐車場が見つからず狼狽えてしまったが、何のことはない、花山車が駐車場一杯に分捕っていて判らなかっただけのことである。車を止めて、連慶寺裏山の愛宕山へ登る。その登る山道途中に、自然石の文字庚申塔が幾つも散乱している中の1基に「二千庚申塔」があるのだが、昔のこととてなかなかにどこにあるのか判らず狼狽えたが、仰向けに倒れているのを発見して無事に撮影終了。これで、足尾町の数庚塔は完了したことになる。ついでに高橋氏に見せるため、猪に乗る愛宕地蔵像を訪ねたが、急な山道に二人してハアハア、ゼイゼイしてしまった。全く、年を取ったというかなまけた体になったものである。下山途中で、今迄気づかずに通り過ぎていた庚申塔の数々を高橋氏が教えてくれる。その中の1基は二つに折れているが、拜待猿像の日光型庚申塔で元禄年間のものである。その後は境内の石造物を写真に撮ったり、福島で鑄造された半鐘などを見て歩いてのんびり過ごし、本日最後の締めとして、通洞の鉱山神社を訪ねて噂に聞こえた狛犬を見学する。
こうして無事に、5月最初の石仏巡りは終了した。帰路は、高橋氏は佐野市へ戻るために桐生経由の道を選ぶのかと思ったら、私と一緒の粕尾峠越えで行くとのこと。ついでだからと、粟野町発光路の妙見神社を見ながら帰路に就いた。
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