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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

11月26日の那須方面馬頭さん巡り記

2005年11月27日 | Weblog
朝9時に、JR宇都宮駅で橋口さんと合流。今日は、橋口さんとは今年の春、夏に続いて3回目の馬頭さん巡りである。私のボロ車で一路那須を目指して出発するも、途中の大田原市と塩原町の寺院へ立ち寄ったり、犬供養塔等を見学したりして、肝心の那須方面の馬頭さんの所へ着いた頃には11時近くになっていた。
最初に訪れたのは、栃木県内の馬頭さんで最大数12頭の宝馬を持つ碑塔がある馬頭観音群。ここだけで40基の馬頭さんがある。しかし、この場所は那須下ろしの北風が吹き向ける所で、二人して思わず首をすくめる。余りの冷たい北風に恐れをなして早々に写真を撮って車中へ逃げ、途中で見過ごしてきたもう一つの馬頭群へ向かう。
急な崖を登って、色彩された馬頭群を眺めれば橋口さんの口からは自然に笑みがこぼれている。私も、ここへ来るのは10数年ぶりだけに、なにか嬉しくなって一緒に写真撮影に夢中となる。その後は、前回の夏草が酷くて満足な写真が撮れなかった、自称「馬頭観音街道」へ入る。
次から次へと出迎えてくれる馬頭群に、二人して何度撮影しても飽きない馬頭さん達の姿を次から次へと写す。それでも途中では、車ばかりに乗っていては体に悪いと、車を降りて山の中の東堂山馬頭観音堂を訪ねる。もちろん、こんな所を訪ねる物好きはいないので、かつては大変に賑わいだったという観音堂も晩秋の森の中に静に佇んでいた。
 時計を見ると、とっくに昼食時間が過ぎている。二人とも、どちらかというと石仏巡りよりも楽しみにしているのが、この石仏巡り途中での食事時間。
 馬頭群を背にして、目の前には八溝山脈が遠望できる、食事場所としては絶景の地。敷物を敷いてドッカと腰掛け、橋口さん持参の特別に美味しい弁当を頂く。そして仰向けに寝ころんで、高く済んだ青空を眺めては、つくづくとこの時間が何物にも代え難い思いがする。
いつもの事ながら思う、この石仏巡り途上での昼食時間の至福感。いつまでもこのまま、この場所にいたい思いを断ち切って、次への場所へと向かう。それは、前回に来て、所在地が忘れてしまって橋口さんにお見せできなかった、栃木県一の素晴らしいネコ像のあるところ。今回は、無事に到着できた。しかも、昔来たときは、捨てられ同然に置いてあったお目当てのネコ像が、他の碑塔と共にしっかりと祀られている。どうやらこれで、このネコちゃんも地元の方々に大切に守られていかれると思うと、無性にうれしくなる。
このようなネコ像、本来ならこの地方の民俗資料として非常に大切なものなので、広く多くの方々に見てもらいたいと思いつつも、その中の一人でも悪人がいたなら容易く持ち去ることが出来てしまう現実に、未だにその所在場所を公表することが出来ずにいる。勿論これは、私の狭い了見と言われればそれまでだが、現実にはこの地方の多くのネコ像がいつの間にか盗まれている現実を知っている身には、ここはひとつ皆様の非難を覚悟でこれからも所在地を隠し通そうと思っている。そんな石像が、この那須の地には多いのだから、本当にこれは悩む問題である。
さて、本日の最後の碑塔は、橋口氏のたっての望みで、ワンちゃんつまり「犬」の姿が浮き彫りされているものを見たさに、場所が遠く離れているが訪ねることにする。その途中、黒磯市の馬頭群中にある「親子馬」が戯れる姿の碑塔を見学。ここまでは良かったが、その先で道に迷う。それは、かつての余笹川の氾濫後に河川の大工事が為されて、それまでの道まで変わってしまったからである。昔の感を頼りに近くまで来たものの、とうとう自分の居場所がわからなくなり、道路沿いの民家に飛び込んで教えを乞う。そして大笑い。私達の目的とする碑塔群まであと、数十メートルという近さの民家に飛び込んだのである。「それなら、ホラあそこ」と教えられ、無事に十数年ぶりに「犬」像と再会できた。勿論、写真写りの悪い碑塔を相手に、橋口さんは写真撮影に夢中である。
まだまだ陽は高いが、これから宇都宮まで戻らなくてはならぬ私達は、今回の一応の目的を達成できた喜びで大満足である。まだまだ、橋口さんにお見せしたい沢山の馬頭さん達は、次回の来年春以降のお楽しみと約束して帰路に付く。

そんな馬頭さんの画像を「2005年石仏巡り記」11月に掲載しましたのでご笑覧下さい。
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11月23日の日誌

2005年11月23日 | Weblog
小春日和の今日だが、どこへも出かけずノンビリする。のんびりついでに、五島氏から戴いたCDを開いて過日の石仏巡りの写真を見る。見たついでに、その折の人物風景を2点ばかかり追加掲載する。また、19日に行った足利の石仏巡り記を掲載し始めたが、途中で気が変わって止めてしまう。
そんな、何となく纏まりのないのんびりした一日を過ごす。庭に、ヒヨドリがやって来て、先住のスズメ君達やキジバト、ジョウビタキを追い払っている。しかし、その間隙をついて、メジロがやって来て、水を飲んだり餌台の餌を食べてさっさと逃げていく様子を、部屋の中から覗いて笑っている、なんとも平和な一日だった。勿論、夕方の散歩は少し遠出をして姿川川岸を約1時間かけて歩く。晩秋の河岸が綺麗だった。
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11月19日の石仏巡り記

2005年11月20日 | Weblog
朝から、冬晴れの素晴らしい天気で日光の山々は雪を被って朝日に輝いている中を、今回も足利市へ293号線で向かう。
先週と違って、今日は一人での石仏巡り。何となく開放感に浸りつつ、足利市でも最南端に位置する梁田郡へどこへ行く宛もないまま入る。高松町内で適当に小径へ入り、まずは目に入った共同墓地の調査から今日は始める。
そしてこの墓地の無縁塔群のなかに、下部が埋没している文字塔を見つける。そこには、「奉唱 光明真言貳億五[埋没不読]/六字章句八億七[埋没不読]」という文字塔がある。読誦塔で「六字章句」とあるのは非常に珍しく興味津々。勿論、そこにある「光明真言」は例の「オン アボキャ ベイロー シャーノウ…」で始まる真言で馴染みはあるが、「六字章句」の真言となると、浅学の身には判らない。
一般に、六字章句というと「請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼経」からの真言と見なして良いのだろうか。それなら日本には馴染みが薄いが、チベット教でもっともポピュラーな六字真言である「オン マニ バドメ フン」(チベット語で書くと六字になる)を唱えたことになるのだろうか。イヤ~、そんなはずはない!。と、自問自答しいているうちに時間ばかりが経過してしまう。まあ、今日はそんな暢気な石仏巡りが目的と言えば目的なのだが…。これでは一向に先へ進まないとこの辺で詮索は諦める。
その後も、途中途中で碑塔類を見つけては記録しながら、ようやく観音寺門前に到着。その門前には、先ほど悩んだ流れの一つである光明真言塔が建っている。駒形石に光明梵字真言を刻んだ下に「光明會供養」とある。「光明真言供養」ではなく「光明會供養」とあることに興味を持って右側面を見ると、そこに「當村惣會男女」とあるので、なるほど!と納得する。境内を覗くと、近世の宝篋印塔がある。見れば、宝篋印陀羅尼経から取った経文だけで281字がある。住職さんに挨拶してから、一文字づつ丁寧に手写し作業。三面は何とか解読出来たものの、残り一面は欠けた部分があり解読に難儀する。宝篋印塔に取りついたまま、一時間が過ぎても離れぬ我が身を思って住職さんが様子を見に来てくれる。この段階で、未読部分は諦める。まあ、その部分は最後の願文だけに良いか!と。そして住職さんが出てきたのを幸いと、本堂の中に祀られている足利市文化財に指定されている銅像地蔵菩薩立像を拝見願うと、あっさりと見せてくれる。享保四年銘の佐野天明金屋町、丸山平右衛門尉藤原政重 の作である。(帰宅して、早速高橋氏に電話したら、それは10年以上も前に調査済みとのこと、判っていたとはいえ全く高橋氏の調査行動に脱帽である)
時間は、とっくに12時を過ぎている。どこかで昼食を!と、今日の場所に相応しいところを探している内に、何時のまにやら小曽根町を通り越して羽刈町へ入ってしまっていた。そして広大な駐車場がある慶性寺で、のんびり昼食とする。その車中から見るだけでも、このお寺さんには沢山の碑塔があるようだ。
そして食後の一休みを終えて境内に入れば、延宝庚申塔に始まって沢山の碑塔が私を待っていた。住職さんに挨拶すると、墓地内に宝篋印塔があるとのこと。今日は、1基の宝篋印塔調査だけで満足なのだが、あると判れば調べなくてはならない。幸い?銘文は簡単なもので大助かり。ものの20分程で片付け、門前の庚申塔に張り付く事にする。しかし、写真を撮るには早くも西へ傾きだした太陽で逆光となっている。まあ、どうせ近い内にまた来るだろうからと、フラッシュをたいて無理矢理の写真を撮る。そして銘文解読から始まる記録取りに入る。その庚申塔の中の1基、紀年銘の所だけが欠けている。本気になって探すと、どうやら「庚」文字が読みとれる一字がある。像容的には元禄を下ることはないと思われるので、或いは延宝庚申塔かも知れぬと欠けて無くなった部分を撫でる。そして問題の延宝八年塔、頂上の種子が十一面観音からの変化と思われる「キャン」がある。この庚申塔種子は、この地方にだけ見られる種子で、これで4基目の出会いである。その他、当寺には様々な碑塔があるが、今日は門前だけの調査で終了する。
西日を受けた雑木林の山々は、黄金色に輝いている。そんな風景を楽しみながら、宇都宮までの約1時間をノンビリドライブで帰路に付く。
来週は、東京の橋口氏を当地に迎えて、暫くぶりに那須方面の馬頭観音様巡り。途中途中で、犬や猫の姿が見られる石塔を加えながら、来週もまた橋口氏との珍道中石仏巡りである。これもまた、楽しき哉。
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「多摩石仏の会」様との庚申塔巡り

2005年11月16日 | Weblog
「多摩石仏の会」との庚申塔巡り

先週11月12日~13日の2日間は、栃木県岩舟駅(JR両毛線)を集合地として、岩舟町→旧・葛生町→旧・田沼町→佐野市→足利市東部地区の庚申塔を中心とした石仏巡りを行う。参加者は、多摩石仏の会から石川博司会長を始めとして犬飼康裕氏、中山正義氏、多田治昭氏、加地 勝氏、五島公太郎氏の6名と現地から高橋久敬氏に私の合計8名。
これだけの、庚申狂いのメンバーを当地に迎えての庚申塔巡りだけに、当地ならではの選び抜いた庚申塔をご案内する事にした。
しかし、中山氏が加わったことで、その中に中山氏が実見していない延宝までの庚申塔を途中途中で加えたのは言うまでもない。その成果はバッチリで、これで中山氏のこの地方に於ける江戸食までの庚申塔調査は無事に悉皆となる。
1日目は、岩舟駅に集合するやお互いに自己紹介する間もなく、2台の車に分乗してまずは、岩舟町・龍鏡寺にある延宝庚申塔へ向かう。ここの庚申塔銘文は、私もまだ未解読だけに今日は何とかなるだろうと少なからず期待したが、それには時間が足りずにタイムオーバーとなる。全体的に今回は、銘文解読よりも碑塔所在確認の意味合いが強くなったのは、1基でも多く当地の庚申塔を見せたいがために仕方がないことである。だがその中身は、今回の石仏巡りは、事前に「写真だけを撮って喜んでいる方の参加は拒否」との申し合わせだけに、実り多い石仏巡りの2日間だった。また両日とも快晴に恵まれたとはいえ朝から夜暗くなるまで、本当に良く巡り歩いたもので、その多摩石仏の会の皆様のタフさに感心されられること多であった。
手前味噌の感がなきにしもあらずだが、今回の石仏巡りは皆様にとっても充分に満足戴けたものと自負している。しかし如何せん当地は日本一の庚申塔密集地だけに、案内できたのはその中のほんのわずかである。特に、庚申塔群はほとんどご案内できなかったのは心残りだが、これはまた別の機会に譲ろう。いずれにせよ、今回は駆け足の庚申塔巡りだっただけに、今度は各自で気になる当地の庚申塔を個人的に見に来ていただけたら幸いと思う。そしてこれからも、益々の「多摩石仏の会」の皆様のご活躍を期待しながら、別れもまた振り出しに戻ってJR岩舟駅だった。なお、今回は高橋久敬氏には大変お世話になりました。高橋氏の主たる調査対象外の石造物に、2日間もつき合わせてしまった。また、高橋氏のお骨折りにより「赤面金剛木彫像」を、皆様に見せられた事に深く感謝したい。そして行く先々のお寺さんでは、突然の訪問にも関わらず住職様の暖かいご配慮に感謝申し上げます。特に、佐野市赤見町の西光院様には、突然行って「例の、庚申塔軸物を見せて」の厚かましいお願いにもかかわらず快く拝見させて下さり、本当にありがとうございました。
以上、まだまだ書きたいことはあるのですが、それらは来年の「多摩石仏の会」会報に掲載されることでしょうから、それを楽しみに致しましょう。
参加されました皆様、本当に遠路お越し下さいましてありがとうございました。また機会がありましたら当地へお越し下さい。栃木県内ならどこぞなりと、私で良ければご案内いたしますので…。(帰り際に、石川市の「来年も…」という言葉は、今回聞こえなかったことにしておきますが)
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11月5日の石仏巡り

2005年11月06日 | Weblog
 11月5日(土)は、足利市の奥戸町へ最初に行く。その目的は、当地の大勝金剛の最終的な地元での聞き込み調査にある。まずは、春日神社の両となりの家を訪れるが、若い人達であまり参考になる話しが聞き出せない。そこで、当地の自治会長さんの家を教えていただいて、尾崎金治氏宅を訪問。上手い具合に、早朝だったために在宅しておられ、この土地について色々な事を教えて戴けた。
 そして肝心な「大勝金剛」塔に話題は移り、尾名川にある2基の元々の所在地が明らかとなる。とくにその内の1基は、渡良瀬川拡幅工事に伴ってごと現在地に移動してきた物であることが判明。これには、私の想像していた元々の場所とは違っていたので大きな成果を得られた。そこで、特に今回の主目的である春日神社に納まっている愛染明王塔に話しが及ぶ。確かに、愛染明王が村の鎮守様である神社に取って付けたようにあるのはおかしいので、どこからか運ばれてきた物であろう、という事では話しが一致したが、「それではどこから?」ということになると全く判らない。昭和40年代の渡良瀬川拡幅工事以前に、既に神社に有ったらしいことまではそれから尾崎氏のあちこちへの情報収集にて判ってきたが、古老に聞いても皆一様に「どこから運ばれたか?」についたは皆が判らないという。そんな昔の話しに皆が興味を示して、あそこの地蔵はどこどこから運ばれてきた物だとか、あそこにあった素晴らしい姿の石像はいつの間にか盗まれてしまったので、栗田美術館が怪しいと、皆で見に行ったが判らなかったとか、兎に角面白い話しばかりが飛び出してくる。その度に私は、その元々の所在場所と現在の所在地を尾崎氏に戴いた地元の地図に書き込むのに忙しくなる。お陰で、奥戸町の昔の姿と今の姿が誰よりも理解できてしまった。そんなこんなで、最後まで愛染明王の元々の所在場所は判らず仕舞いに終わったが、尾崎氏宅で2時間以上の楽しくもためになった半日を過ごさせた戴いた。それにしても、宇都宮から突然にお邪魔した私に対し、地元の方々の親切な対応に嬉しさで胸がいっぱいになった。
 所で今日は、今秋の週末天候としては稀にみる快晴。奥戸町を離れてからは、今日の最大の目的が達せられた嬉しさもあって、次への石仏巡り地が頭に浮かんでこない。取り敢えずはと、コンビニに立ち寄って昼食を購入する。そしてその昼食を、気分の良い石仏碑塔のある所で食べたいものと思って、まだ未訪問地の瑞穂野町中日向の観音堂にする。そこには、かつて訪れた同町内の満宝寺(旧寺名は万長寺)さんにて、東京石工作の宝篋印塔があることを聞いていたし、しかも延宝年間の庚申塔があることも知っていたからである。訪ねてみると、観音堂兼共同墓地にもなっているものの、秋のお昼を過ごす場所にはベンチもあり水もあり快適な場所である。
 食事にする前に一仕事と、まずは宝篋印塔銘文を読み出していると、そこへお墓詣りに来た女性がいて、「家のおじいちゃんが、こういう石造物に興味があるので、呼んできます」といって帰っていく。そしてそこに現れた初老の方と(お名前を聞くのを忘れてしまった!)、何とその後2時半まで一緒になって過ごすことになってしまう。勿論、独りでお昼ご飯にする事も出来ずに空腹のままで、である。この村の昔の歴史の話しから始まり観音堂再建の経緯やら、自分の家の家柄まで誠に詳しく話してくれる。が、肝心な、石造物や当地観音堂の歴史知識は持ち合わせていないらしく、私の知りたいことには答えられずに、それでもお互いにだれも関心を持たない地元の小さな歴史に興味を持っていると言うだけで、それなりに楽しい時間が共有できた秋の午後だった。もちろん、その話しの合間に当地観音堂の石造物は全て調査したことは言うまでもない。
 その後別れたものの、既にこの頃には更なる石仏巡りの意欲は消え失せていた。何となく帰路への道を走って、渡良瀬川の土手上で誠に遅い昼食を頬張った後は、いつのまにか佐野市の赤見町まで来てしまう。
 そうだ!ここまで来たなら、来週の一泊二日「多摩石仏の会」の皆様との、庚申塔巡りの旅の宿泊地である「福寿荘」へ挨拶してこよう。と、出流原弁天様を脇に見て福寿荘へ行く。そして、来週土曜日の宿泊者は7名であることと、夕食は宿泊しない1名を加えた8名であることなどを最終予約する。「宿へ到着するのは何時頃になります?」との問いに、思わず午後4時頃ですと答えたものの、秋晴れとなった今日は、いつもと違って4時を過ぎてもまだ陽があることをその後で実感し、来週もこのような天気ならば、夕方5時頃まで石仏巡りが出来るかも知れないと、欲張った事を考えながら行楽地の車渋滞には関係ない293号線をのんびり帰る。
 そんな次第で、今回も具体的な石仏調査の成果は無に等しい。それでも、安永年間の石祠型「道祖神」を見つけたので、少なくもそれだけはいつもの「石仏巡り記」にはご紹介しようと思っている。
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