石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

九月は最高の石碑調査月でした。今回は那須町伊王野の石碑です

2015年09月27日 | Weblog

9月5日は栃木県佐野市田沼町、12日も引き続いて田沼町、20日は那須町、そして昨日26日は矢板市と4週連続での石碑調査でした。その中でも、那須町は1年ぶりの訪問だったので、朝の6時半に家を出て現地に8時着。最初に、那須町から拓本採拓の許可を得ていた黒羽藩の戊辰戦役に関する石碑の手拓でした。その後に正福寺さんを訪ね、境内にある2基の手拓を行いました。この日は、手拓したのは3基で半切用紙で10枚ということもあり、最後の1枚が手拓を終えたときには既に夕方の5時になってしまいました。暫くぶりの大量手拓作業のために全身クタクタ。それから暗くなりだした那須から自宅まではタップリ1時間半のドライブ。それでも満足感があり、慌てることもなくのんびりと帰宅しました。そんな訳で、予定していた黒羽町にある石碑調査までは手が回らず次回に繰越です。いずれにせよ、来月に再度行く予定です。また、翌週の昨日は暫くぶりに矢板市へ出かけたのだが、これまた拓本を採ったのは半切で8枚の2基に手写したのが2基という豊作で、またしてもクタクタになって帰宅しました。それでも、お寺さん門前にある2基の石碑を残してのことであり、来月にはその手拓も片付けてこようと思っている。マッタク、県内の石碑は次から次へと出てきて嬉しい悲鳴を上げている。そして早速、来週はどこへ行こうかと今から思案している次第である。そんな、9月は嬉しい悲鳴を上げつつ充実した石造物調査を行うことが出来ました。尤も、その分またしても未整理の石碑が溜まってしまったことになり、これもまた嬉しい悲鳴を上げざるを得ません。

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栃木県内の江戸前期庚申塔の299基目を調査してきました

2015年09月18日 | Weblog

ここのところ2週間ばかり、このブログ書き込みをサボっていました。それもこれも、9月に入ってから5日・12日と続けて栃木県田沼地区へ石碑調査等に出かけて、幾つかの石碑を調査してきたからです。5日の日には、相変わらず栃木県佐野市田沼・作山地区へ入って、山の中にある石碑を持ち主の方と旗川(雨ばかりでいつになく増水)を渡渉し、ヒルの恐怖におびえながら調査してきました。案の定、帰宅してみたら足に吸い付かれていてズボンの裏は血で真っ赤でした。ズボンの表に付いたヒルは現地で退治したので大丈夫だと、身体までは確認しなかった私の負けです。12日は、ケモノ避け鉄柵の中に入るまででも苦労し、入ったら今度は繁茂した雑草との戦いとなり、調査を終えて元に戻ったら頭から靴の中まで全身ごみだらけ。車を置かせていただいた方が、それをみるなり「まずは身体をきれいにしてください」と水道のあるところまで案内してくれ、また汗ビッショリの私を見かねて飲み物を頂戴したりと思わぬ接待を受けてしまいました。この日は、幸いにも毒虫に腕を一箇所刺されただけでヒルの被害にはあいませんでしたが‥。そしてその日は今回こそと、上の画像に見る延宝8年11月5日(庚申当たり日)紀年銘のバンザイ型青面金剛像容塔を精査してきました。栃木県内の江戸前期(寛永11年~貞享年間迄)庚申塔は、既に298基として調査報告書を自分用に1冊だけ発行済みだったのですが、また作り直しです。つまり、結果的にはこれで299基目の庚申塔というわけです。その数が300基に一歩手前というのが、何とも私好みです。と笑いながらも、それを既に一冊の調査報告書として纏めたあるものを始めからやり直すのだから、そのメンドウさを考えると嗚呼ヤレヤレといった思いです。まあ、真冬にでもなったら閑を作って作り直そうと思っています。
それとブログをサボっていたのは、新たな石碑を調査してくるとその清書に多くの時間を取られてこのブログに書き込む閑もなかったからです。何しろ私は仕事が遅く、石碑1基を清書終えるのに日夜孤軍奮闘するもタップリ一週間はかかるので、仕方がないと苦笑です。そんな訳で、その2日間で調査した石碑聖書はあと1基が残っています。嗚呼、何よりもデスクワークの時間が欲しいものです。
さて、明日からは5連休。石造物調査は、またしても田沼町を離れて今回は栃木県東北部の那須町から黒羽町へ2回は行こうと思っています。まだまだ、黒羽藩に関する未調査石碑が残っているので、この時期に行かねばならぬといった、変な義務感からです。この石碑調査も、嗚呼、もっと日にちが欲しいといった思いです。
いずれにしても、この連休中が秋晴れの良い日であることを今は願っています。

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