石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2008年5月24日は栃木市です

2008年05月25日 | Weblog
2008年5月24日は、栃木市のへ行きました。目的は、天候が午後から崩れると云うことなので、栃木市内の落ちこぼれ碑塔探索である。その為、過去の再確認を含めてたったの21基しか収穫がありませんでした。でも、本当の狙いは城内町の円通寺さんにある「高慶大師」碑の手拓にありました。いなや風が吹いていましたので、墨入れ途中で飛ばされてしまうというアクシデントもありましたが、何とかやり直して物にしました。これは、窪世祥が刻したものだけに、墨入れしながらも文字の美しさに見とれながら作業が出来ました。眼福眼福といったところです。
 さて、いつもの栃木市通いで何度もその前を通りながら立ち寄れなかった、大町の日蓮宗一乗院さん。今回は、目的が目的だけに立ち寄りましたところ、住職さんと話が弾みました。そして気が付けば、境内の納骨堂の前に一対の狛犬が鎮座していました。もしかして、佐野市在住の狛犬を追いかけている山口さん、その存在に気づいていないのではと思い、写真に撮ってきましたので後日HPの方へ掲載しますのでご確認下さい。住職さんは、とっても親切な方ですので喜んで調査させていただけるでしょう。

今回の石仏巡り報告HPへの画像は上記の狛犬を含めても数基だけですので、後日のんびり作成する予定です。今のところは、手拓してきた「高慶大師定堀之碑」の清書に集中しなければなりませんので…。いずれにせよ、PCにはない文字が多いので作字が大変な作業になりそうです。まあ、夜の楽しみとして作業しましょう!
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2008年5月17日は野木町の石仏巡りです

2008年05月18日 | Weblog
 遂に、サンコウチョウを自宅前の雑木林で出会うことが出来ました。この年になって、初めて出会ったサンコウチョウだけに大大満足です。その優美な姿、私としてはこれまで幻の鳥だっただけに大感激です。薄暗い雑木林の中と、望遠でなければ無理な距離だったので写真こそ撮れませんでしたが、しっかりとこの目に焼き付けました。あの、蝶のように揺れ動く尾羽が、今も脳裏から離れません。これからは益々朝早く起きての雑木林観察が楽しくなってきました。
さて、
 2008年5月17日は、栃木県野木町への再訪です。暫くぶりに土曜日が晴れ、心ウキウキだったのですが成果は思わしくなく、結果的に暑かっただけの石仏巡りに終わりました。何しろ、過去に見た、調べた、そんな碑塔と今回出会った碑塔が同じなのかの区別が最後の頃には分からなくなってしまい、一基でも多く新しい碑塔を調査したいという欲望との狭間で心が揺れ動き、無駄な石仏調査になった面がなきにしもあらずだからです。それでも、佐川野地区八幡宮の庚申塔群は初めてにつき、今回の石仏巡りで最も楽しい時間が過ごせました。今回で野木町の碑塔調査は、大凡80%は実見したと思われるのでそれなりに満足して帰宅しました。ちなみに本日の成果は、丁度50基です。
 五月は連休があったので、今回で早くも今月は四回の石仏巡りになりました。一ヶ月に四回の石仏巡りが私の目標なので、次からの五月中の石仏巡りは栃木市の落ち穂拾いや暫くぶりに岩舟町の岩舟地蔵(高勝寺)さんでも訪ねてみたいと思っています。遊び半分に…。
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2008年5月11日は拓本取りです。

2008年05月11日 | Weblog
 2008年5月11日は、昨日に引き続いて朝から雨である。その雨のため、昨日は恒例となっている週に一度の石仏巡りに出かけられなかったので、昨夜に今日の雨の日を予想して石仏巡りの作戦を練る。その結果が、私の住まう宇都宮から南へは行かずに北へ向かう事とした。しかも、雨が降ることを予定しての作戦とし、今まで気にはなっていたが面倒なのといつもの石仏巡り途中では時間がもったいなくて拓本を取らなかった碑塔とする。
 それは、一般の方では余り関心を持たな災害碑である。しかも明治三十五年の台風災害碑だから、ついつい精査を怠っていた二基のみとすることにした。一日をかけて二基なら、たとえ雨が降っていても時間調整で何とかなると考えてのことである。
 そして予想通り、朝起きたときから雨が降っている。この分では、宇都宮から北へ行ったとしても無理かと出かけるのをためらっていると、家内が「大丈夫!、北へ行くなら途中で雨が上がる」と強気に出たので、私もその気になって車に乗ってしまった。
 そうそう、今回の向かう先は栃木県塩谷町である。この塩谷町は1990年代に一応の調査を終えているので、本当に暫くぶりである。そして最初に向かう先は、塩谷町船生地区の山奥になる山口地区。この山口地区の更に山へ入った一角に、地元の人しか知らない本当に小さな木舟神社がある。この木舟神社の入口(といっても、山の登り口だが)に木の鳥居があり、その前に笠の無くなった自然石燈篭があり、その燈篭の竿(自然石)の一面にびっしりと台風災害についての石文が刻まれている。それは、初めての人ならまず以てその石文には気づかないような酷い状態だが…。今回は、その石文の手拓が欲しくてやって来た次第。
 車を近くの農家の庭に置かせてもらい、手拓道具一式に三脚その他色々を抱えて行く。まずは、竿の上に載っている火袋を渾身の力で持って取り外してから、碑面の掃除。次に画仙紙の水張りと進んでから、まだ小雨が降っているので墨入れまでの自然乾燥を待つことにする。勿論、水張りした上には予備に持参した傘をさして濡れぬようにしてのことである。その時間待ちのために、しっかりと持参した敷物を大木の下に敷き、その下でこれまた準備万端よろしく持参した温かいコーヒーを飲みながら、山里の景色をぼんやり眺めて過ごす。そんなこんなで、終わってみればこの1基の手拓だけで時計は早くも11時を過ぎていた。
 次に手拓が欲しいのは、日光北街道と言われる国道沿いにある同じ明治三十五年の台風災害碑。しかし、あるべき場所へ行ってみるとそれが無い。所在場所を勘違いしたかと、それからは本気になって探し歩いたがどこにも見あたらない。同じ道を往復する事、呆れるほどの回数を重ねては、商店などに飛び込んで尋ねるが誰も知らないと言う。そんなことを繰り返していて、やっと「それは、道路整備のために他へ移転したが、どこへ持っていったのかは知らない」という。そこで、塩谷町船生支所へ飛び込んで居合わせた人に尋ねたが、やはり移転先は判らないと言う。それからは、役場に勤めているという人を訪ね歩いて、どうにか判ったときには午後も1時を過ぎていた。当然ながら、まだ昼食を取っていない。腹は減りすぎているが、場所が判った以上はその場所を見なければ話にならないと向かう。
 この頃から、止んでいた雨が小降りながらまた降り出して来る。それでも、実際に手拓しようとしてやって来た碑の前に立つと、腹が減っていることも雨が降り出してきたことも、加えて冷たい風が吹き出したことも忘れてしまう馬鹿さである。
 早速、画仙紙を取り出して水張りしてから急いで墨入れする。普段なら、馬鹿にされそうな小さなタンポで叩くのだが、今回ばかりは雨が降っているのでここは時間勝負と、滅多に使用しない大きめのタンポを持ち出して手早く仕上げる。それでも気が付けば、墨入れした用紙を剥がすときには午後も2時半を過ぎていた。
 これで今日の目的は終了。後はお昼にしてゆっくり帰宅するだけである。佐貫観音へ行ってから、雨が降っているので車の中で熱々のラーメンを作って食べる。この頃になって、また雨が止んでくる。このまま帰宅するにはもったいないが、周辺にある碑塔は既に調査済み。写真の欲しい碑塔もあったが、雨で濡れた碑塔は黒くくすんでいて写真にならないので、結局はそのまま帰宅してしまった。
 来週は、晴れることを願って、また栃木県南部の野木町へ行きたいものである。そうそう、それと今回の石仏巡りは数がたったの2基と少ない以上に、一般の方には全く興味のないものと思いますので、タブンHPの方へは掲載しないでしょう。
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5月3日は栃木県野木町の石仏調査でした

2008年05月04日 | Weblog
 2008年5月3日は、栃木県野木町へ石仏巡りに出かけました。朝から曇ってはいたのですが、まさか途中から雨が降ってくるとは予想だに出来ず、朝8時半頃から始めた石仏調査も10数基を調べた時点で雨が降ってくる。しかも、本降りとなってそのうち止むだろうと傘をさして調べていたが、調査用紙どころかズボンまでもびしょぬれとなってしまった。仕方なく一時中断し、友沼・角新田の公民館で雨の様子見となる。
 持参したコーヒーを飲んだり、雨が止んだ後の訪問地選定の作戦を練ったり、とにかく暇なのでツバメが虫を捕るために飛び回っている様子をのんびり眺めて待つこと1時間。どうにか小雨になってきたので、まだ未調査だった隣にある共同墓地まで行って宝篋印陀羅尼経塔を調べる。そしていつもそうなのだが、その銘文を読むために夢中となっていたので足下を気にしなかったものだから、気づいたときは靴はびしょ濡れでその上泥だらけになっていた。
 雨が止むと同時に、蒸し暑い陽気となる。その中、過去に庚申塔しか調べていない本新田地区の水神宮へ向かう。ここには十九夜塔を中心にして沢山の碑塔があるが、それらを調べるには優に1時間半はかかるだろう。調査開始の前に、取り敢えずは昼食にするが、今日は先程まで雨宿りをして休んでいたので、昼休みは無しにして食後は早速調査開始。何しろ今日は、野木町の友沼地区を隈無く調査完了しようとしているので忙しい。雨が止むのを待っていた時に計画を立てた通りに行動し、最後は松原地区の不動堂へ行く。ここへは本当に暫くぶりである。そしてここには沢山の碑塔がありすぎるので、過去に来た時は眺めただけで調査をしていなかった場所である。今、こうして来てみると、特に庚申塔に興味深いものがある。それらを1基づつ丁寧に記録と写真を撮り、その他の碑塔類も参度目は来なくても済むようにと記録する。この時点で、時計は三時少し過ぎ。残るは、法音寺にある数基の宝篋印陀羅尼経塔だが、何となく気が重くなって通り過ぎ、そのまま早めの帰宅となってしまった。
 それでも、今回の最大の目的であった「汝等所行是菩薩道…」のある庚申塔再調査等が出来たので大満足の一日だった。
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大型連休の狭間にて、雑念

2008年05月02日 | Weblog
 五月の大型連休中にもかかわらず、仕事はカレンダー通りなので今日も仕事机に向かっているが、流石に仕事の電話は少ない。そこで、仕事の合間を見て過去に調べた碑塔の銘文確認をしていたら、幾つもの転記間違いやダブり記録等を見つけてしまった。
 マッタクッ、と自分自身に腹を立てながら気づいた誤りは修正できたがまだ他に幾つもあるだろうと思うだけで嫌になってきた。特に今回は、庚申塔に見える「汝等所行是菩薩道 漸々修學悉當成佛」の偈文を中心に見てみたが、その中での私が犯した間違いを記してみると、「汝」と「如」の文字使用区別の混同であった。また、例えば栃木県小山市乙女地区にあるものは「汝等所行是菩薩」だけで、次の「道」が本体では抜けているのに、記録ではその「道」を無意識に付けてしまっていた。最もうかつな単純ミスとしては、「菩薩」の所を「菩提」としてしまっているのも1基あったし、「所行」を「所業」としてしまったなど、常日頃から他人の調査報告書の文字間違いにウルサイ私としては何とも忸怩たる思いである。また、所在を確認しただけで精査を終えていないまま調査終了扱いになっていたものが2基出てきたなど、自分の過去の調査整理を少し見ただけで修正箇所が出てきた。何と言うことだ!で、ある。

 そんな最大の要因は、自分が一番知っている。それは、1980年代までの石造物調査にあり、その頃は目的とする碑塔を中心に調査していたので、例えば庚申塔や偈頌塔などはその当時は私の興味対象外だった。だから目的とする碑塔調査で見かけても、それらは簡単に主銘文や紀年銘等の記録を付けていただけなので、今で言う精査にはほど遠い調査内容なのである。この中に、多くの銘文解読に問題のある碑塔があるのが今回のような過ちを起こす最大の原因である。もっとも、データベース作成に伴う単純入力ミスも、彼の年金記録簿ではないが要因の一つであることは確かである。
 今は、出来る限りそれらの碑塔を再訪問しては調査し直しをしているが、まだ再調査できぬその数は現時点で8,000基近くにのぼる数だけに、ホント困っている。ある時、それを「パソコンのデータベースから削除してしまおうと思っている」と、ある方に話したところ、「正確性を欠くとはいえ、それだけの数の所在が分かっている碑塔を削除してしまうのはもったいないから、参考として残して置いた方が良い」と、忠告されたので未だに削除出来ないでいる。それでも少しずつ整理削除をしているが、石造物調査を始めた頃の調査の甘さを今頃になって反省している。

 そこで、今五月からは出来る限り石造物調査目的をそれら碑塔の再調査に当てようと決めた。一年に、調査出来る数は約2,000基として単純計算すると3年半で終了することになる。年齢的にも、それが終えてからでも次の目標調査に向かうのも間に合うだろうと机上計算しての話しだが…。それに第一、20年以上も年月が経って久方ぶりに再会する碑塔巡りも悪くはない話だと思っているからだ。そして取りあえず次回は、今回の仕事中の短い時間で多くの間違いが多く見つかった、栃木県野木町から始めてみようと思っている。何しろ野木町は栃木県の最南端で遠いが、過去には古河藩に所属していた地域なので初めての面白い碑塔等にも出会えそうだからである。
 以上、暇な時間につれづれなるままに。
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