石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

撰文が幕末三筆の一人、貫名海屋の後を継いだ貫名正祁が撰文した石碑の御紹介

2017年03月30日 | Weblog


2月から3月にかけて調査した石碑も残るはこれだけなので、4月を迎えるに当たり掲載しました。今回の碑文選者である、貫名正祁(ぬきな まさき)のものは当然ながら栃木県では初見です。思わぬところで、思わぬ人の撰文者に出会うと、本当に石碑調査を続けていて良かったと思います。
下に、その手拓画像も掲載しました。

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栃木県鹿沼市の石碑・調査済み分の銘文内容等を掲載しました

2017年03月27日 | Weblog

私の別HPに公開していました栃木県鹿沼市の調査済み石碑ページは、今まで石碑全景写真のみでしたが、本日その銘文を含めて拓本画像も追加しました。ただ、銘文は最終校正が終わっていないものもあることを御承知の上で、参考として御照覧下さい。また、誤り等の箇所に気づきましたら是非に御教示下さいましたら幸いです。なお、無断で転載などしますと著作権法違反として対処しますので、良心に基づいての御利用をお願い申し上げます。

下記のURLをコピーして、URL欄にペーストしていただければ、ダイレクトでご覧になれるかと思います。
ダメでしたら、検索から「栃木県の石碑」→鹿沼市石碑をご覧下さい。

http://tochigiken.webcrow.jp/tochigiken-sekihi/kanumacity-newPDF/kanuma-city-sekihi.html

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前回の「建坐王神廟記」の銘文を今日の雨の為に作成しました。

2017年03月26日 | Weblog

上記が、前回に画像で紹介した「建坐王神廟記」の、その銘文清書です。ただ、一箇所だけ(しかも肝心な所が)どうしても読めなかった。ウーム、悔しいが今のところは再訪するにはきついので、暫くはそのままにしておこう。それにしても剥離が始まっている銘文にしてはよくやったと、自分で褒めている。と同時に、やはり読めそうで読めない箇所は、面倒でも一文字づつ手拓すべきだったと反省している。
そうそう、銘文中にある、桑山君と真田侯の寄進した燈籠は現地に建立されて健在なので、念のために記しておこう。
そこで又お願いです。ここにある撰文から揮毫までした「東州散人 林岳」なる人物の経歴が判りません。林家に関する人物かと調べましたが判りませんでした。どなたか、御存知の方は是非に御教授くださいますようお願い申し上げます。
それにしても、よりによって日曜日が雨とは悲しい一日だ。強風以上に、雨では石碑巡りが出来ないではないかと、自分の行動予定の甘さで天に唾する(笑)。それならと、今年の春の遅さに、まだジャガイモ用の畑さえ耕していないので、せめてもの午後からは雨がやんでくれることを願うだけである。それとも午後も、このまま未了の銘文清書を一日中続行せざるを得ないのだろうか。

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足利市の山の中にある木曽御嶽信仰に関する石碑の拓本採り。

2017年03月24日 | Weblog


3月21日にY氏と(今後、ここでの同行者氏名はイニシャル一文字だけと致します)一緒に行く予定だった今回の足利訪問だが、生憎の雨。仕方無しに翌日の22日にした。しかし今度は風が凄い。山の中でさえ、強風が渦を巻いて吹いている。そして今回の手拓目的である石碑に刻まれた文字は小さく、しかも剥離部分が多い。「こりゃ~、暫くぶりに苦労するな」と思いつつ、文字をいかに出すかを考えて手持ち画仙紙の中で最も薄い用紙を取り出す。しかしその作戦は物の見事に外れて、墨入れしてみると文字が巧く出てこない。その要因は、とにかく風が強いのでマスキングテープで目張りしようと、傘で風をふさごうとかは何の役にも立たないので、生乾き以上の状態で墨入れし、しかも重ねての墨入れが出来ない状態。二人して眺めて「コリャ~、ダメだ」となり、剥がして別の画仙紙でまた一からやり直し。今度は、銘文を2枚に分けて、さらに上部の題額部分はまた別に手拓することにして作業を進め、何とか拓本を仕上げた。当然ながら、酷い拓本である。特に、剥離した文字部分はその下に残っている彫刻跡が出ていない。本来なら、目で見れば読めるので熟練した手拓技法なら、それが読める状態で採択できたはずなのである。自分の手拓技術の未熟さで落ち込む。
そして帰宅し、早速に読み下しを始めてみたが、今度は木曽御嶽信仰について不学な私には個々の固有名詞は判るものの、全体としてはチンプンカンプン。山岳信仰についての書籍は書棚にあるが、それを見るのも面倒として今のところは暫く放って置く事にしよう。そうそう、これが建立されたのは、銘文中にある嘉永庚戌(1850)だと確定しました。まだ、銘文も清書していないのだが、もしこれをご覧になりました方でこのような江戸後期の地方における木曽御岳信仰に興味がありましたら、後日に清書が終わりましたらお送りしますので御連絡下さい。※メールアドレスは別HP[栃木県の石碑」表紙にあります。
さて午後は、次回の為に周辺を探索した結果、何と何と、未調査の石碑を3基も発見。しかもその内の1基は大きく、篆額・撰文・揮毫・石工の4点から見ても拓本が欲しい物。しかし石碑の前は崖となっているので、脚立を立てることは可能だが、非常に危険。いずれにせよ、見つけてしまったからには周辺にある庚申塔等と共に調査に再訪しようと思っている。勿論、3基を一日で採択することは不可能だろう。

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